はじめての…
辺境伯には大きな秘密がある。
紙に殴り書かれたその言葉を心の中で何度も反芻していた。
どれくらいそうしていただろうか。
扉がノックされ、慌てて紙を小さく畳む。
それから近くにあったかばんの中に押し込んだ。
「リア、今帰ったよ。出迎えできなくてすまなかった」
扉の向こうにいたのは件の辺境伯様だった。
会えて嬉しいはずなのに、嬉しいはずなのに……。
どうしよう、上手に笑えないかも。
「とんでもありません。キール様はお忙しいでしょうし」
それでも精一杯の笑顔で迎えるんだ。
そう意気込んだ私の頬を、キール様の指が優しく撫でた。
手袋の滑らかな感触がささくれ立ちそうな私の心を修復していく。
「どうした? なんだか疲れているようだ。ああ、そうか。長旅だったろうしな。気が利かなくてすまない」
「ふふ、キール様ったら謝ってばかりです」
「そうだな、すまん」
そう口に出してからまた謝っていることに気づいたのか、照れくさそうに頬をかいた。
私ってば、誰が書いたのか分からないようなイタズラになんで動揺していたんだろう。
目の前の彼はこんなにも実直で、私のことをちゃんと見てくれているのに。
さっきの紙のことはイタズラだったと割り切って忘れることにしよう、そうしよう。
「ここが大食堂だ」
キール様にエスコートされて部屋に入る。
広い部屋の真ん中には、大きな縦長の机が置かれている。
その大きさは圧巻で、二十人が食事をとれるのではないかというほどだ。
壁には大きな絵がいくつも飾られていて、等間隔に配置された燭台がそれらを絶妙に照らし出している。
「普段はここで臣下を交えて食べるのだが……」
そういって部屋の隅に控えるメイドにちらり、視線を送る。
「今日は二人きりで話したいんだ。リア、構わないか?」
「はい……もちろんです」
私の目をじっと見つめてそんなことをいってくるから少し照れてしまった。
食堂を反対側に通り抜け、廊下を少し進んで。
さらに手を引かれながら階段を登って、ようやく目的の場所に辿り着いたらしい。
「今日はここで食事をしよう」
キール様が扉を開けると、そこは城の外が一望できる部屋だった。
大きなガラス張りの窓の先に城下町が広がっている。
陽が落ちかけた街には、いくつかの灯が灯りはじめていた。
そんな幻想的な光景にしばし見惚れて。
「綺麗……」
「だろう? 私はここが好きでね。なんといっても民の営みを感じられるのがいい。さあ座って」
窓辺に置かれたテーブルへ誘われ、椅子を引かれる。
礼をいって腰をかけると、キール様も対面の椅子に腰を落ち着けた。
「リア。先ほど普段は臣下を交えて食事をする、といったのを覚えているか?」
「はい、少し驚きましたので」
「それはそうかもしれないな。リアはやはり家族や親族と食べていたのか?」
「男爵家ではそうでした」
キール様は鷹揚に頷いた。
他の家はどうか分からないけれど、臣下といえる人が少なかったのもあるかな。
「私は……なんといえばいいか。そうだな、寂しがり屋……なんだ」
「そうなのですか?」
「親族といえるほど繋がりがある者はいないのでな。どうしても血筋以外の繋がりを求めてしまう」
遠い目をしながらそんなことをいった。
それなのに今まで婚約者を持たず、家族を作らなかったのはどうしてだろう。
まあそのおかげで私なんかが一緒に居られるんだけど……。
「なぜ……私だったのですか?」
思わず口から出てしまったことに驚き、後悔をした。
自分が求めている答えと違った時、傷つくのは自分自身だから。
それでも「やっぱりいいです」とはいえなかった。
顔を伏せて答えを待っていると、キール様が口を開きかけた。
「失礼いたします」
そのタイミングで扉がノックされ、夕食が運ばれてくる。
小さめの二人がけのテーブルにはあっという間に色とりどりの料理が並んでいった。
「まずは乾杯をしてからにしよう」
食前酒として置かれた赤色の液体からは甘い香りが漂ってくる。
「それでは、婚約者との再会に」
「……再会に」
軽くお互いのグラスを触れさせてから、食前酒を口に含んだ。
「おいしい……。ワイン、ですか?」
「いや、これは白ワインにカシリスで作った酒を加えたカクテルだ。名をキールといってね、それもあって気に入っている」
「まあ、同じお名前なのですね」
私がそういうと、キール様は優しく微笑んでもう一口。
つられるように私も口に運んで……やっぱりおいしい。
「さて、先程の話の続きだが」
「はい」
私は居住まいを正して、口に残ったカクテルを嚥下した。
「正直にいうと、私は婚約者を望んでいなかった」
「え……?」
「シュバルトの奴が、どうしてもとうるさくてあの場を設けたのだ」
やはりその中で適当に見繕ったのが私、ということ?
ショックからか、グラスを持つ手が震える。
「でも勘違いしないで欲しい。あの場で無理に誰かを選ぼうなんていう気はなかったんだ」
「それならなぜ……?」
「どうしても君が欲しいと、そう思ったから……思ってしまったからだ」
真っ直ぐに見つめらて紡がれたその言葉に、嘘はないと思えた。
おもむろに立ち上がったキール様は私の側へきて片膝をつく。
そして懐から小さな箱を取り出した。
「これがその証だ。受け取って欲しい」
中身は私の瞳の色と同じ銀の指輪だった。
中央には髪の色と同じ、大きく真っ赤な宝石が輝いている。
「だからそんな不安そうな顔をしないで欲しいんだ」
「あり……がとうございます」
言葉に詰まったのは不安だったからじゃない。
ただただ、嬉しかったから。
キール様は私の手を取ると、薬指に指輪をつけてくれる。
これは魔法の指輪じゃないはずなのに、まるで魔法のように私の指へぴたりとはまった。
「似合っているよ」
「ありがとうございます」
私を見つめる整った顔が近くなってきて。
だから私の鼓動が高鳴るのは仕方がなくて。
「今は少しごたついていてね。式はすぐには挙げられない」
「分かっています」
「けれど、それが解決したら」
「はい」
「式を挙げよう」
「はい……」
返事をしてから目を閉じると、二人の距離はやがてゼロになる。
こうして私たちは——はじめてのキスをした。




