おひさまの花
激しい日差しが、容赦なく私達を襲う。あまりにも無情な鋭い熱に、地球温暖化は本当なのだろう、と乾いた頭でぼんやり考えた。一歩歩くごとに背中を汗が伝うが、その不愉快さを咎める気力すらもこの暑さに溶けてしまったように思う。
沸騰しきった河川敷を、ただ一歩ずつ進む。この熱を更に煽るかのような陽炎にうんざりしながら、私は隣で歩く小さな少女に目をやった。
「なつちゃん。」
私はそっと少女に声をかける。少女はゆっくりと顔をあげ、舌足らずな声でなあに、と答えた。
「あそこの木陰で、ちょっと休憩しようか。」
そう言って私は少し先に見える大きな木を指差す。雑草すらも息を潜めているようなこの河川敷で、ただ一本、青々と茂る桜の木の影は、砂漠に現れたオアシスそのものであった。
「うん!もうちょっとがんばる。」
アスファルトの熱反射を小さい体にめいいっぱいに受ける少女は、まんまるな頬を赤く染めながら小さく答え、再び短い足でトテトテと歩き出す。顎下で切りそろえられた細く柔らかい髪の毛が、汗で頬に張り付いている。夏らしい、青地の柔らかな布に、鮮やかな黄色の向日葵がプリントされたワンピースは、少女の一張羅だ。大事な日は決まってこのワンピースなの、と、少女の母親が微笑んでいた事を思い出す。
少女はずっと、ガーゼに包まれたものを、大事に大事に手の平に乗せていた。
少女の名は、なつと言う。なつは私の家の近所に住んでいる、4歳の従姉妹だ。なつの母親は私の母の妹で、つまり私の叔母である。叔母は仕事が忙しいため、小さななつを私の家で預かる日はとても多い。そうして面倒を見ているうちに、なつは私によく懐き、夏休みはこうして二人で遊ぶことも珍しくはなかった。
「きゅうけい〜!」
木陰に座り込んだなつがこちらを見上げ、手をのばす。私は、はいはいと小さく息を吐き、肩にかけたトートバッグから、小さな水筒を取り出してなつに手渡す。
なつの小さな手には大きく見える水筒には、可愛らしい、橙色をしたオレンジのイラストが沢山プリントされている。なつはガーゼに包まれたものを丁寧に地面に置いてから、勢いよく水筒を傾け、小さな喉を鳴らしながら一気に水を飲んだ。小さな唇から溢れた液体が、青いワンピースに紺の斑点を描く。
「みーちゃんにものませてあげないとかなあ。」
そう言ってなつは、先程地面においたそれを優しく撫でる。
私はそんななつを黙って眺めながら、今朝のことを思い出した。
「おねえちゃん。」
舌足らずな声で目を覚ます。目を開けると、隣にはなつが居た。いつの間に来ていたのだろうか、と、まだ夢半分の頭でぼんやり考える。カーテンの隙間から差し込む日差しだけを光とする私の部屋は、心地の良い薄暗さを保っていた。やる気なさげに首を回す扇風機のみが、無機質な機械音を絶えず放っている。
「なつちゃん。どうしたの…。」
私は枕元に置いた眼鏡をかけながらなつを見る。私は極度に目が悪く、眼鏡をかけなければ世界を正確に見ることが出来ないのである。ぼやけた世界が一瞬でクリアになる。鮮明な世界の中で、なつはなんとも言えない表情で手のひらに置いたそれを私に見せた。
「みーちゃん、しんじゃったの。しんじゃったら、うめないとでしょ。」
なつは淡々と言葉を紡いだ。
みーちゃんとは、なつの飼っているハムスターである。なつが買ってとあまりにもごねるから、なつの三歳の誕生日の日に迎え入れたのだという。みーちゃんをお披露目したいからとなつの家に呼ばれた日の、ちゃんとお世話できるのかしら、と不安そうに眉をひそめる叔母の顔をよく覚えている。そんな叔母を見ると、なつはしきりに、やくそくはまもるから、と言い、真剣な表情を見せた。
みーちゃんは、ジャンガリアンハムスターであった。嵯峨鼠色の体のあちこちに鳶色の模様を刻んだ、小さな小さなハムスター。その可愛らしい体で懸命に回し車を回転させる、小さな生命に思いを馳せる。死んでしまったのか。
もとよりハムスターは繊細で、短命な生き物である。とはいえ、一年足らずで亡くなってしまうとは……。みーちゃんを迎え入れてからというもの、毎日のようにみーちゃんの様子を嬉しそうに話していたなつの笑顔が脳裏をよぎる。
聞くところによれば、人間が一分のうちに60〜90回心臓を動かすことに比べ、ハムスターは一分間で500回以上その胸を動かすのだとか。哺乳類は、一生で15億回心臓を動かすという、どこかで聞いた話が頭をよぎる。私達の何倍もの速さで生を急ぐみーちゃん。いつ見ても忙しないその背中は、一生懸命に生を享受していたのであろう。
「うーん、みーちゃんにお水あげるのは後にしようか。」
ガーゼに包まれた、みーちゃんであったもの──に水を与えようと水筒を傾けるなつの手をそっと制す。
「なんで?」
「……みーちゃん、今はお水要らないって言ってる。」
「しんじゃったのに?なんでわかるの?」
あーでも、しんじゃったからもうおみずものまないか、と、透き通った目に空を映しながらなつが呟いた。
ぬるい風がなつの細い髪の毛をサラサラと揺らす。四歳児に、生が、死が、どのように認識されているのか、私には分からなかった。
あれほど照っていた太陽が、厚い雲の中にその身を隠す。緩やかな風もやみ、空気は濁った泥のように停滞している。
「おねえちゃんって、ほんとにおおきいね!」
こちらを見上げたなつが、淀んだ空気を斬るように、出し抜けに言った。たしかに私は背が高い。腰を下ろし更に小さくなったなつの目線から見上げた私は、さぞかし大きく映ったのであろう。
なつちゃんもすぐにこれくらい大きくなれるよ、と返そうとした私を遮るようにしてなつが言う。
「おねえちゃんがもっとおおきくなったらさ、せなかからはねがはえてくるでしょ?そしたら、なつをつれておひさままでとんでねえ。」
当たり前かのように話すなつにの言葉に、理解が遅れてやってくる。私ってこれ以上に成長するのか…?人間に羽…?疑問は山のように頭に浮かんだが、そのうちの一つだけを、そっと問いかける。
「お日様?どうして?」
「みーちゃん、きっとおひさまにいるから。」
空を見上げたまま、なつが呟く。
みーちゃんの好物はひまわりの種とチーズなのだ、と、なつがはしゃいでいた事を思い出す。特にチーズには栄養が豊富に含まれているようで、そのためであったのかは定かでないが、みーちゃんはやけに筋肉質であった。
「みーちゃん、すごいんだよ。」
なつはそう言って、ピザ用の細長いチーズを、ゲージの上の方からそっと差し込む。
「そんなに上からじゃ、みーちゃん食べられないでしょ。」
「みてて。」
なつがそう言った次の瞬間、みーちゃんはその細いゲージの金網を器用に登ってチーズをさらった。その姿は、さながらロッククライミングのようであった。小さな可愛らしい体で、キビキビとゲージを登るそのギャップに、当時は何度笑った事であろうか。
思えば、みーちゃんはゲージを登るのが大好きなハムスターだった。お陰でちょくちょく脱走を図り、叔母を困らせていたようだが。上へ上へと望む姿勢を見て、みーちゃんはきっとお日様に行きたいのだと、なつが自信満々に演説していた日を思い出す。その日になつが描いた絵には、背中に羽の生えた私と、その背に乗ったなつとみーちゃんが、共に太陽を目指す様子が、力強いクレヨンで刻まれていた。
「きゅうけいおわり!」
そう言って、なつが勢いよく立ち上がる。はい!と手渡された水筒をトートバッグにしまいこんで、私となつは再び歩き出した。
「そういえばなつちゃん、みーちゃんのこと、どこに埋めるつもりなの。」
雲から顔を出し、再び照りはじめた太陽を軽くにらみながら問う。
「きれいなところ〜!」
そういって、なつは走り出す。
私となつが住むこのT市は、大阪といえど田舎だ。車が無ければコンビニすら行けず、最寄りのスーパーは歩いて40分。家の周りにも畑と川しか存在しておらず、私達はそんな川の河川敷を、ただただ西に歩いている最中だった。どこに埋めるつもりなのとなんど聞いても、きれいなところ、としか答えないなつに、若干の焦燥感を覚えながらひたすら歩く。この暑さの中、小さななつを連れて長時間歩くのは、いささか不安であった。そんな私の心配をよそに、なつはどんどん歩く。いつの間にか太陽もだいぶ傾き、気がつけば家から5キロ程度離れた、私の高校の近くにまで来ていた。こんな小さななつが5キロも歩いたのかと思うと、いつの間にか頼もしくなった背中に、驚きと、なんだか分からない寂しさが感じられた。
「なつちゃんが行きたかったのって、私の高校?」
「うん。このまえきたとき、きれいなところ、みつけたの。」
この前、というのは、なつがどうしても私と共に学校へ行くといって聞かなかった、去年の夏のことである。まだ幼稚園に通っていなかったなつは、暇を持て余していたのか、毎日私の家に入り浸っていた。毎晩のように私と共に寝て、翌朝、私がなつを送ってから高校へ行くという毎日だったが、ある日突然、なつが私と学校へ行くといって聞かない日があった。
何度言って聞かせても「いっしょにいく」と一点張りのなつ。根負けした叔母が、門までよ、と、なつを抱えて、私となつと叔母の三人で高校までの道を歩くことになる。
「あら!ちっちゃな学生さん?どうしたの?学校見学はまだ先よ?」
校門で生徒に挨拶を掛けていた、校長である山岡先生が、私たちを見つけ、柔らかく優しい声でなつに問いかける。
「なつも、おねえちゃんといっしょにおべんきょうするの。」
何言ってるの、門までって約束したでしょ…先生、すみません、と何度も頭を下げる叔母を手で制し、よければ、と、山岡先生が言葉を紡ぐ。
「今日は半日授業ですし、私も暇しておりますので。お嬢さんをうちの高校の生徒として、お預かりしても?」
そうしてなつは、半日ではあるが、私の高校で過ごすこととなった。
あれはなに、これはなにと、全てにおいて興味津々ななつを優しく諭していた山岡先生の姿を思い出す。校庭で何やらしゃがみ込むなつと山岡先生を教室の窓から見つけた際には、授業など全く耳に入らなかった。
なつの母親が、なつにハムスターを買い与えたのは、この日の影響もあったかもしれないとふと思う。実際にハムスターを迎えてからのなつは、みーちゃんの世話につきっきりで、私の家に来る頻度も極端に減った。私の高校に着いてくると言うことも、それ以来は無かった。
「こっちこっち!」
夏休みで、人気の少ない高校の門を、なつは堂々とくぐる。開いているとはいえ、外部生…外部園児を引き連れ勝手に入っていいものなのだろうか。私は内心ヒヤヒヤしつつも、なつを追いかけた。太陽は一層傾き、あれだけ刺すように照っていた陽も、今は優しく校舎全体を照らしている。
なつは校庭を真っ直ぐに横断し、更に奥へと進む。私の高校は田舎の、豊富な土地に建っているがゆえ、校舎も校庭もそれはそれは立派な大きさであった。なつはそんな広い校庭の隅の角で、そっと足を止める。
「ここ!」
しゃがみこんだなつが叫ぶ。ただの校庭の一角ではないか。体育でも荒らされることのないこの領域には、少し雑草が生えている。なぜここを選んだのだろう、と、少し不思議に思いつつもなつの隣に腰を下ろした私は、その光景にはっと息を飲んだ。
よく見ると、雑草と思われたそれらは、オオイヌノフグリの花畑であった。可愛らしい、零細な四枚の青い花びらが、数をなし、風で優しく揺れている。身を寄せ合って静かに咲くそれらは、まるで小さな海のようだ。
「ここ。きれいでしょ?」
「うん、きれいだね。こんなところ、よく見つけたね。」
私はそっとなつの頭を撫でる。気にかけたことも無かった校庭の隅の、雑草の表情。四歳の、未だ100センチにも満たないのではないかとさえ思うその目線から見た小さな世界は、私が忘れてしまった美しさを爛々と備えているようだ。
「ここ、きれいだから。ここにうめてあげるの。」
そういってなつは、私のトートバッグからスコップを取り出す。小さな黄色のスコップは、ゆっくりと、ただ確実に校庭に穴をあける。人に踏みしめられていないこの地の土は柔らかく、みーちゃんが眠るには十分すぎるほどの穴を開けることを許した。
「あら、なつちゃん。久しぶりねえ。それにあなたも。」
ふいに後ろから、柔らかく優しい声が降り注いだ。
「山岡先生。こんにちは。」
「こんにちは。なつちゃんも、こんにちは。一年ぶりねえ。」
白髪交じりの髪の毛が、太陽に透かされキラキラと煌く。肩上で緩やかなパーマをかけた山岡先生は、優しい目を更に細め、こちらを見下げていた。
「せんせい。」
なつが山岡先生を見上げ、スコップと、ガーゼに包んだみーちゃんをそっと見せた。
「みーちゃんのこと、ちゃんとうめにきたの。」
小さな手で、みーちゃんを土に還し、また優しく土を被せるなつ。みーちゃんの好物だから、と、ひまわりの種も一緒に沢山埋めているようだ。
「この間なつちゃんが来たときにねえ、生き物を育てることについて少し話したのよ。」
賢明にみーちゃんを埋めるなつを優しい眼差しで見守りながら、山岡先生が呟く。
「どうしてもハムスターが欲しいけれど、ママが買ってくれないってずっとぼやいてたの。だから先生と、ママと、これを約束できるなら飼ってもいいんじゃないかなって、入れ知恵しちゃったのよ。私。」
「約束、ですか。」
「そう。何があってもみーちゃんを愛して、大切に大切にお世話すること。いつか来るお別れの話もしたわ。その時、ちゃんとなつちゃんの手で土に還してあげること。」
「……。」
「命は巡るものですから。このみーちゃんの亡骸が、また新しい命を育むんだーって…。どれだけ伝わっていたかは分からないけれど、こうして一生懸命、最期までみーちゃんを思っての行動を取れるなつちゃんは、本当に素敵な女の子ね。」
小さなお墓を作り終えたなつが、そっと呟く。
「げんきでねえ。」
キンと冷えた校長室には、私となつと山岡先生の他に誰も居ない。夕日のみを光源としたこの空間は、優しい光で満たされていた。なつは、山岡先生から頂いたプリンを食べてご満悦の様子である。
私も同様に頂いたプリンをそっと夕日に透かしてみる。底に溜まった琥珀色のカラメルソースが、光を受けて鈍く煌めいた。優しいクリーム色をした上層も、ふるりと震える。
例えばこのプリンに使われているであろう卵も、一つの生命である。私達は、命を繋ぎながら生きている。みーちゃんの亡骸も、地中の微生物に分解され、それによる腐食連鎖が土を育てる。育った土は植物を育み、その植物がまた誰かの生命を繋ぎ、そうして世界は回っている。
ふいに、祖父の葬式の日を思い出す。火葬され、骨だけになった祖父。その骨は今もきっと変わらず、墓石の奥で眠っている。
「私が死んだら、私の亡骸は、誰かの生命を育むんでしょうか。」
そっと問いかけると、コーヒーを飲みながら読書をしていた山岡先生が、ゆっくりと顔を上げる。
「人間は良くも悪くも互いに影響しあって生きていく生き物だから。あなたの言動は、常に周りに影響を与えているのよ。あなたの亡骸は、あなたの歩んだ軌跡は、自覚はなくともきっとどこかで誰かに働きかけていて、その人の精神の、人生の一部になっているはず。それはきっと、誰かの生命を育んでるって言い換えられるんじゃないかしら。」
山岡先生が、柔らかに微笑んだ。いつかの朝会で、自分だけの人生では無い、と、山岡先生が話していた事を思い出す。
胸の奥を探ると、気付かぬ間に私の一部になっていた誰かの人生の欠片が、確かに存在している。思えば、祖父のあの教えが、あの日読んだ本のワンフレーズが、山岡先生のこの言葉が、今の私を彩っている。私はそっと胸に手を当てた。
赤い夕日が、その姿を半分地の奥に隠す。冷房を切って窓を開けると、柔らかく優しい風が私達を包んだ。
手にした透明の小さなスプーンでそっとプリンを掬って、口に運ぶ。口の中ですぐにとろけるプリン。そっと飲み込むと、ほんのりとした甘さが喉を伝う。それはどこか、少し懐かしく、優しい味がした。
夏休みが明けても、日差しの強さは衰えることを知らなかった。二学期が始まっても、さして代わり映えのない日々の中で、私にはある日課が出来た。
授業終わりに、校庭の端を通り、小さな海を目指す。雑草の生命力とは凄まじいもので、この暑さの中でも、オオイヌノフグリは相も変わらず元気に青々と佇んでいる。
私は持参した小さなジョウロで、みーちゃんのお墓に水を遣る。最近、この校庭の隅に可愛らしい芽が出ていることに気がついた。
小さくも力強い、鮮烈な黄緑色をした新芽は、おそらく新たな向日葵の生命ではないかと思う。なつがみーちゃんと一緒に埋めたひまわりの種が、芽を出したのだ。
肌を刺すような日差しが、無情に私を照りつける。もっと大きくなっても、私ではあの太陽には届かないが、この小さな芽がお日様になれたなら。きっとなつを連れてここへ来ようと、ぼんやり考えるのであった。
授業内課題
8000字程度の小説を書く
昔に姉が飼ってたハムスターが死んだ。泣きながら、一緒に近くの公園の木の下に埋めた。
確かに悲しかったけど、あの時はまだ死という感覚をあまり理解していなかったと思う。
後日、亡骸と一緒に埋めたひまわりの種から芽が出ているのを見て、生死の鮮やか過ぎる対比に子供心ながら感動した事を覚えている。
幼い頃、死ぬ事が凄く怖くて、眠れない事が多かったのだが、ある日突然考える事が無くなった。
これもあの時の体験によるものかもしれないと今ふと思う。何と言うか、本当に救われる体験だった。
これは蛇足やけど、そんな公園の木が最近切り倒された。その公園の前を通る度いつも少し寂しい気持ちがする。
これもそこそこ気に入っている。評価も良かった。
しかしちょっと時系列がごちゃついてて読みにくい感じはする。でもこれ以上構成変えると余計混雑しそうな感じもする。