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誤字報告、感謝致します。
チェックしてても色々と見落としてしまう。
あの日、赤薔薇の館で催されたのは、私の誕生日を祝うものでした。
淑女たる振舞いを中々理解されないことは、幼稚さの抜け切らない殿方をあやすような気持ちで耐えれば良い。
いつまで経っても子どもで居ることが止められない様も、慣れてしまえば可愛らしく思えるもの。
退屈だ、つまらない、お前の顔は彫刻なのか。
お決まりの文句も、彼の逃げ口上と知っていれば簡単に流して差し上げられる。
生まれたその日からこの世の頂点へ至る事が約束されていては、人は我慢を覚えないものなのでしょう。
珍品を蒐集するのも殿方の趣味と聞いていましたから、学園へ特別の許しを得て通っているあの女を、その物珍しさから追い回しているのもため息一つで耐えましょう。
そういうものですよ、とお母様は仰っていました。
今でこそ大仰な振舞いをするお父様も、昔は遊び惚けていたそうです。
ならば、婚約者たる者は堂々と振舞い、侮辱にも似た軽視を静かに耐えるだけ。
幼い頃から続けてきた事です。
礼儀作法に厳しいお母様。
彼女が言う事は絶対で、逆らうことなど許されない。
例え絹を引き裂くような悲鳴から発せられたものであろうと、文句一つ言わずその通りにやってみせるのが私の役目。
大変ではありましたが、殊更嫌っていたのでもありませんから、故郷の曲であやして差し上げれば良いのです。
お母様の言う通りにする。
それが私にとっての幸福で、当たり前で、例え身体の奥で何かが暴れ出しそうになっていても、逸脱することなんて許されない。
私は辺境伯令嬢。
王国でも五指に入る程の力を持つ大貴族の娘。
やがて王となる者の装飾品たれと己を磨き、技能を磨き、完璧であること以外を許されない。
珍品遊びが殿方にとって止められない遊びであるのなら、例えどんな感情を覚えていても耐えるべき。
それが貴族の、女として生まれた者の果たすべき役割。
最もそれを嫌悪し、最もそれを否定したがったお母様が、私へ教え込んだ在り方の全て。
だけどあの日は。
あの赤薔薇の館の東屋で。
あれだけは。
いいえ、私は。
ここに。
繋いで。
カラスが羽を広げて。
呑み込まれていく彼の姿を見た。
真っ黒で。
飛び込んだ茂みの中で薔薇の棘が肌を裂いて。
必死に声を押し殺して、悲鳴を上げていた――――
あのようなおぞましくも汚らわしい光景だけは。
この世から消してしまいたかった。
でも許されない。
私は辺境伯令嬢。
貴族の女。
政治の道具として生涯を生きなければならない。
だから。
だから思ったの。
なら、許される様にすればいいのよ。
やってみたら、とても気持ち良かった。
笑い過ぎて涙が出た。
※ ※ ※
門の落とし扉が引き上げられて、無数の兵が街道を行く。
先頭を行くのは私達にとって見慣れた騎士ではなく、騎馬ではあれど軽装で弓を身に付けた乱雑な騎馬隊。
日差しが強いという東国では、頭に布を撒いて保護するらしいわね。
宣戦が布告されて数日を待ったというのに、結局国王の軍勢はやってこなかった。
いえ、待っていたといえば、ここでヴァイオリンを奏でていた時からずっとそう。
「あら、ここへ来ても大丈夫なの?」
進んでいく軍列を眺めながら、私は階段を上ってきたミルドゥナへ語り掛けました。
門を見るだけで青褪めていた子が、どうして今日になってやってきたのか。
「今日までお傍を離れてしまい、申し訳ございませんでした」
「いいじゃない。別にそういう役目を与えられていた訳では無かったのでしょう?」
お父様が側近を派遣してきたことも含めて、監視なのかと思っていたのだけど、それにしては随分と弱々しくて、隙だらけだったから。
「シェーラ様にお供することは私が望んだからです。自分で望んでおきながら、それを放棄していました」
「そう。それなら、少しは反省すべきかもしれないわね」
「シェーラ様は……今日も、待っているのでしょうか」
問われた内容に最初、私は首を傾げてしまいました。
添え手を忘れず、淑女らしく振舞いながらも、胸の内に煤が溜まっていく。
「そういえば、そんなことを言ったこともあったわね。あの日はとても気分が昂っていたから、つい言葉を選び損ねてしまったのよ?」
特別なんだから、と学友へ言って、私は揃えていた手を軽く握りました。
「ずっとずっと待っていたの。だけど、来ないことがようやく分かったわ」
「それは、何なのですか」
「大切な学友にだって言えないことの一つや二つあるわ」
彼女の家は、お父様にとっても重視するに足る実績を既に挙げてくれていますから。
それに、誰よりも早く駆け付けてくれた学友は大切にしないといけません。
ちょっとした裏切りがあったからって、私個人の判断で斬り捨てるなんて出来ないのです。
「待っていたのは、王子からの手紙ですか」
だから少し、黙っていてくれないかしら。
「……私はずっと誤解していました。シェーラ様は心から望んで、あの日を迎えたのだと。ですが、もし違ったのであれば、今のこの流れは止めなければいけません。本当に望むのであれば、私はどんなことにでもご協力致します。もう、私如きではどのようにすれば良いのかは分かりませんが、シェーラ様が今の場所からほんの一歩踏み出すだけできっと」
「貴方」
「っ、んん!?」
振り返ってミルドゥナの首を掴む。
爪を立て、その柔らかな皮膚を裂く様に力を込めて、一歩踏み出す。
前へ。
前へ。
門の外を向いていた私が振り返ったのだから、進む先は内側よね。
そして門壁というのは、内に柵のようなものは作らないのよ。もし外敵が入り込んだ時、それを守りにして利用されてしまうから。
「シ、シェー、ラ、様……、っっ」
「お嬢様!!」
外野がうるさいわね。
けれど邪魔者は兵が抑えてくれている。
ならお望み通り、まずは貴方と向き合いましょう。
「ミルドゥナ。酷い友人ね。私への手紙を勝手に読んだのかしら。貴女を信じて託したのに、裏切るなんて。ねえ、どうして私の信頼を裏切ったの? 貴女ならもしかして、なんて思っていたのに。ねえ。ねえ、ミルドゥナ、返事をしてよ」
「……ごめ、っ、さい……、わた、し……」
健気にも彼女は私の罠を疑いもせず謝り始めた。
首を掴んだまままた一歩踏み出して、彼女を壁の無い端まで追い詰めていく。
「貴女だから教えてあげる。実はね、私はここで何度も王陛下からの書状を握りつぶしてきたの。お父様への詫び状、私と王子の再婚約、あるいは多額の賠償金……いけないことよね。私だって最初はお父様へ送ろうとしたわ。だけど耐えられなかった。苦しかったの。あんな紙切れ一つで全てを無かったことに、なんて、屈辱を受けた者に対して更に泥を浴びせ掛けるものじゃない? だから全て燃やしたわ」
見張りの側近は領土のお金を勝手に使い込んでいたから、それを脅しに使ってあげれば呆気無く転んだ。
何度かやり取りする手紙を書かせて、その筆跡を真似て、私が送ったものでも当たり前に受理されていることを確認してから、処分してしまったけれど。
本来は裁判を通して家族諸共処刑しなければいけないのに、つい勝手に処理してしまったのはいけないことよね。
でもあの男、私の目を盗んで逃げだそうとしていたどころか、大切な学友であるミルドゥナを誘拐して逃亡資金にしようとしていたのよ。
心の弱いミルドゥナが聞いたらまた寝込んでしまうから黙っておいてあげる。
「お父様だって最初は謝罪など受け取らない、なんて仰っていたのよ? だから手間を省いてあげたの。なのに最近は王陛下からの手紙が無いか、なんて聞いてくるから困ったわ。全て燃やして灰にしてしまったのだから、無いのは当然じゃない」
強く強く握りしめて、下の景色が見える所にまでやってきた。
時間を掛けて、一人ひとりの兵士を取り込み、出来なかった者は別へ飛ばした。
この門に居る守備隊は皆、王国への強い復讐心を持つ者ばかりになっているわ。
前線が伸びていったら、ここから出してあげて、好きに暴れて貰わないといけないわね。
「私、間違ったことをしているかしら? もう随分と頭が痛み続けていて、自分でもよく分からなくなるのよ。ねえ、答えて頂戴、ミルドゥナ……………………ねえ。ねえ」
あぁ、と思って手を離すと、大切な学友は崩れ落ちてしまいました。
咳をしたり、首元を抑えたりしているようだけど、答えてくれるつもりはないようです。
あらあら。
「冗談よ。貴女は私を気遣って演奏会まで開いてくれたんだもの。それに大切な学友をここから突き落とす、正統な理由があるかしら? 困ったわね」
あらあら。
「最初の質問に、ちょっといじわるして答えてあげるわ」
私は座り込む彼女に身を寄せて、その身を抱き締めました。
家族にだって滅多にやらない親愛の行動です。
ふわりと広がる柔らかな髪の奥、ミルドゥナの耳元で囁きました。
「王子から手紙が来たことは一度もないわ。彼は未だに、あの女との思い出の中で悲嘆に暮れているのよ」
優しく背中を撫でてあげると、苦しむのに忙しかったミルドゥナが声をあげて泣き出してしまいました。
どれだけあやしてあげようとしても、身体の震えはいつまで経っても収まりませんでした。
あらあら、本当に困ってしまうわ。
「彼にとって、あの女との恋が唯一で無二のものだったのよ。首を落として、その肉が醜く腐り果て、悪臭をまき散らす様になっても、まだ王子の心にはアレが棲みついているのね。身体なんて犯され抜いて食べられてしまったというのに、不思議よねぇ。あんな女の何が良かったのかしら? 頭も尻も軽い、みすぼらしくて粗暴な振舞いばかりする……生まれた瞬間から今日まで徹底した管理の元で磨き上げられてきた私達貴族とは比べるべくもないのに、どうしてかしら? 鞭の痛さを知らなければ理性を覚えないものなのよ? もしかして、もしかしてもしかして、あの薄っぺらい笑顔が良かったのかしら? ううん、きっと勘違いよね。殿方の前で笑顔を見せる女は、揃って男を誘うことばかり考えている売女だってお母様は仰っていたわ。表情を隠し、心を隠し、仕える夫の装飾品として生きるのが貴族の女として生まれた者の定め。ふふっ、本当に、どうして生きているのかも分からなくなるわね」
私は震えていた学友の胸を軽く押した。
仰け反り、悲鳴が落ちていく。
でも大丈夫。安心して。
すぐ後ろは階段だから。
ほら、大好きな婆やが受け止めてくれたわ。
言ったじゃない。
例え私を裏切ったのだとしても、大切な学友を突き落とす正統な理由が無いのよ。
貴方がお父様を裏切っていたら、違ったかもしれないけれど。
だからこれは、あくまで友人同士の悪ふざけよ。
「今話したことは全て、私と貴女だけの内緒にしてね? 大切な学友からまた裏切られたら、私は今よりもっと凄い悪戯をしてしまうから」
だから。
「さようなら、ミルドゥナ」
もう二度と、私の前に現れないで。
※ ※ ※
悲鳴のように甲高い声が私を呼ぶと、お父様も家の者も、揃って私から目を逸らす。
政略結婚によって家から捨てられたも同然にやってきたお母様は、いつも何かに苛立っていて、彼女に教えられるまでもなく、感情的な人間が醜いと学んだ。
後継者であるお兄様を溺愛する一方で、私には自分も受けてきたという厳しい躾けを施し、出来なければ食事も与えられずひたすら鞭で打ち付けられた。
お母様は私にとって神だった。
彼女の言うことから少しでも逸れたなら、死ぬ寸前まで追い詰められる。
けれど言う通りに出来たなら、とても優しく私を抱き締めて、手ずから温かな食事を与えてくれることもあった。
今でこそお母様の理想の娘として振舞うのに苦労することはなくなったけれど、昔は本当に大変だった。
不安定な食事で身体の育ちは遅く、丈夫に育っているとはとても言えなかったから、体調を崩すことも多かったのね。
加えて誰かと接しているとまた礼儀作法で怒られてしまうからと、いつも部屋に閉じこもってばかり。
飢えと、不安と、恐怖だけが私の毎日。
せめて沢山本を読めれば良かったのに、女に必要以上の知識は必要無いと、読むものまで指定され、延々と神学書のページを捲る。
暗い日々だった。
太陽が巡って陽が差しても、まるで私の心は晴れなかった。
いつかお母様の言う様な、主人の傍らに立つ彫像となって生きるのだとしたら、この苦しみの中でもがく意味があるのでしょうか。
そんなに女を道具にしたいのなら、最初から生きた人間ではなく、作り物の人形でも置いておけばいいのに。
生まれてきたことさえ呪い始めていた私を部屋の外へ連れ出してくれたのは、王都へ訪問中だった私達アーベンドルテ家を訪ねてきた、幼い頃の王子でした。
「こんなに部屋を暗くして、気持ちまで暗くなってしまうではないか。いいか? 晴れた日は外へ出るんだ。何もかもが輝いて見えるぞっ」
今思えば、王子との関係を深めたい両親と、積み上がった借金をどうにかしたい王とで画策された出会いだったのでしょう。
折角やってきた当家自慢の赤薔薇の館で、自慢の庭を散歩もせずに引き籠っている娘。そんな彼女の面倒を見てやって欲しい、そんなことを言われていたのかも知れません。
「みごとな庭だ! こんなにも美しい景色を窓から眺めているだけなんて勿体ないじゃないか」
その薔薇園は王国の情熱を象徴するものとして語られていました。
王家は芸術を愛し、楽器を奏で、花を慈しんできました。結果が多額の借金では笑えない話ですが、当時の私にとって王子は鮮烈な光を放って見えたのです。
本当は粛々と王子に侍り、置物として立っているべきだったのでしょうが、私は彼に腕を掴まれ、引っ張り回されてしまっていました。
最初は鞭で打たれると怯えていたのに、和やかに眺めているお母様を見て、また明るく私へ笑いかける王子に、いつしかあのしなる音を忘れてしまい、薔薇園の中を駆け回りました。あっという間に息の上がってしまう私を見て王子は笑い、どうして笑われているのかも分からない私は、ただただ、彼に翻弄されていたのだと思います。
「部屋の外も悪くないだろう? 分かったら、もっと外で遊ぶことを覚えるんだ」
「……で、でも、お外は」
不思議とあの時は怖さを忘れていたけれど、やはりまだ不安で。
「そっか。なら俺がたまに来て連れ出してやろう。本当はもっと色んな面白い場所があるんだぞ。今日は父上も爺やも見張っているから難しいけどね」
また腕を取り、今度は私を振り返りながらゆっくり走ってくれました。
そうして辿り着いた東屋で、彼は薔薇を一本手折って私へ差し出したのです。
「女の子は花と共にあるのがとても似合うよ」
それは劇場か、本か、彼がどこかで偶然目にした言葉を真似ただけだったのかもしれません。
けれど私にとってはとても思い出深いものとなり、身体の弱かった私は頑張って食事を摂り、運動をし、人並みに動けるようになっていったのです。
いえ、動けなくたって、庭へ出る事くらい出来たでしょう。
お母様の躾けにも自由時間はあったのだから。
閉じこもっていたのは私の心なのです。
「痛っ」
「あ! ごめんよ、棘が残ってたみたい。うーん、大丈夫? 傷付いてない?」
「へ、へーき、です」
「そっか。良かった。もし傷が残ったりなんてしたら、責任を取らないといけないんだって」
残っていれば良かったのに。
当時の私はそう思っていました。