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音楽は貴族令嬢の嗜みよ、と外国から嫁入りしてきたお母様は熱心に私へ楽器を教えて下さいました。
殊にヴァイオリンがお好きで、ある程度の演奏が出来るようになると、朝から晩まで故郷の音楽を演奏してとせがんできたものです。
ご自身でも素晴らしい音色を響かせるお母様ですが、演奏するよりは聴く方がお好きな様で、幼い頃の拙い演奏でもとても喜んで頂けたのを覚えています。
やがて私が派閥内の集まりで演奏を聴かせることも増え、そこで生まれる繋がりもありましたね。
領土間の関所も兼ねている山間の都市で、今日も私は人々の慰撫へ出掛け、先々で演奏をしています。
一度でも触ったことのある者なら分かるかと思うのですが、中々良い音というのは出ないものです。
不慣れな者ほど強気と弱気に振れてしまう。
弦の感触を覚えることが、上達への一歩となるのかしら。
本来であれば、私程度が演奏をしてみせた所で良いものとは言えないでしょう。
私の音楽はお母様の為にあったのだから。
けれど王国に火の手が上がってより、各地から難民が押し寄せ、多くの混乱を呼んでいる状態。
アーベンドルテ家は王国を離脱してより新たな国での立ち位置を確立させるべく動いて参りましたが、何もすべてに背を向けてはおりません。
ですからこうして、辺境伯令嬢たる私が関所のある都市に駐留し、逃げ延びてこられた貴族の方々を慰撫しているのです。
彼らを出迎えて、もう安心ですよと教えて差し上げる。
そういう日々を送っていました。
来る日も来る日も演奏し、
来る日も来る日も反乱の噂に耳を傾け、
来る日も来る日も演奏して、
来る日も来る日も、死者の名を聞いて、
首を締め上げられていく王国の断末魔を拍手に、小さくお辞儀でも致しましょうか。
脚を揃え、肩を広げて力を抜き、背筋はなだらかに伸ばし、ヴァイオリンと弓を手に。
顔を挙げた先には、王国を捨てて逃げてきた彼らを出迎える私の前には、西の空が広がっている。
※ ※ ※
「とても素晴らしい演奏でしたわ、シェーラ様」
「ありがとう。皆様にも楽しんでいただけたかしら」
私が言うと、声を掛けてきた彼女は手を合わせて微笑みました。
落ちた目尻に小さな黒子があり、笑うととても柔らかな印象を与えてくる子。
使い終えたヴァイオリンを受け取り、大切そうに抱えてくれる。
「はい。演奏中、安堵と感動のあまり泣き出してしまったご婦人もいらっしゃったくらいです」
「そう。なら良かったわ」
学園でもよく私の隣に立って、アーベンドルテ家と良い関係をとお茶会などでも積極的に動いてくれた方ですね。
驚いたのが、私が学園のある王都を発ってから数日とせずにこちらへいらっしゃった事。それなりに大きな力を持つ家柄ですが、貴族としての歴史は浅く、立場の弱い彼女の家は早々にこちら側へ付くことを選んだ、ということでしょうね。愛娘を即座に送り込んだ決断と、彼女がこれまで尽くしてくれた事を加味して、新たな国でもやっていける様にとお手伝いさせて頂く約束になっています。
「シェーラ様は……ここしばらくで劇的に音が変わりましたね」
何かを感じ入る様に彼女が言うから、私は小さく首を傾げました。
頬に手を添え、決して粗雑にならない様、気を付けて。
いえ、気を付けるまでもない程に馴染んでいるのですが。
添え手を忘れると幼い頃は鞭が飛んできましたからね。
「そうかしら? 自分では分からないわね」
「変わりましたよ。生意気なことを言ってみてもよろしいですか?」
「えぇ、聞かせて頂戴」
促す私に彼女は表情を引き締め、渡したヴァイオリンを軽く握りました。
演奏が終わったことで談笑を始める方々が居るなか、彼女は声を潜めながらも私にだけはしっかりと届くようにと、訓練されたのでしょう声音で続けました。
「以前のシェーラ様の演奏は、仕方なく譜面を追いかけている様でした。定められた歩みで、定められた音を奏で、はみ出ることは無い。それは凄まじい技術を示していましたが、少しつまらないと感じていましたもの」
受け取った言葉に、また少し首が傾いてしまいました。
「音楽とは、譜面の通りに演奏するものでしょう?」
「そうですけど、私などはもっと自分勝手に演奏してしまいます。そうすると、婆やにとても怒られてしまうのですが」
「ほら、ちゃんと言われた通りにやらないからよ」
答えは出たとばかりに歩き出す私を、彼女は追いかけて言葉を重ねてきます。
「シェーラ様は、ヴァイオリンをどなたから教わったのですか? アーベンドルテ領は、辺境伯夫人のご活躍で、とても音楽が盛んな土地になったと聞いております。さぞ高名な方から学ばれたのでしょうが」
「私に音楽を教えたのはお母様よ。特別他の誰かに教わったことは、そういえば無かったわね」
元は私とお母様でひっそりと楽しんでいただけのもの。
それがいつしか派閥を広げる為の手札となり、今やこうして逃げてこられた方々を慰撫する道具にもなっている。
「そうですか。辺境伯夫人はとても多才なのですね。私も一度教わってみたいです」
あぁ、それがこんな領地の端まで私を追いかけてきた理由なのですね。
彼女は甲斐甲斐しく私の傍へ侍り、日々の細やかなことを手伝ってくれている。他にも大勢の側付きは居るけれど、学友として過ごしていた時期があるせいか、こうして何気無く会話へ興じる事もある。他に私を頼ってきた者達も、こんな所にまでは同行しないものね。
持つ者は持たざる者へ。
貴族の義務として、彼女へ報いてあげるべきでしょう。
「分かったわ。お母様に手紙を書いて差し上げます。それを持っていけば、きっと会ってくれる筈よ」
なのに彼女は少し困ったように首を傾げていた。
意図を取り違えたことを示す仕草です。何も言わないのは、上位の者に恥をかかせない配慮でしょう。
けれど他の意図が読み取れず、困ってしまいました。
「あっ……申し訳ありません、シェーラ様。どうやら私が言葉を間違えてしまった様です。辺境伯夫人とお会いして音楽を教わってみたいのは本当ですし、引き合わせて頂けるのはとても嬉しく思うのですが、私は単にシェーラ様のことをもっと知りたいと考えております」
「私を……?」
余計に意図が読めなくなりましたね。
「ですから、私ももうしばらく、ここでお手伝いをしていようと思います」
「そう……えぇ、それならお願いしようかしら」
「ありがとうございます」
戸惑う私を置き去りに、また柔らかな笑みを浮かべて微笑む。
受け取ったままになっていた私のヴァイオリンを大切そうに抱えて、それでは失礼します、と断ってから背を向けた。
ふわりと広がる長い髪は、彼女の持つ雰囲気にとても良く似合って見えました。
固く曲がる所の無い私の髪と比べても、やはり豊かな印象を受けます。
「よろしく御願いしますわ、ミルドゥナ」
「はいっ」
振り返って応じた彼女の笑顔がいつもと崩れていたから指摘をすると、拗ねられてしまいました。
※ ※ ※
関所、というよりは城門と呼ぶべき壁の上を通って、降りる階段を目指している途中。
西からの風が吹きあがってきて、なんとも言えない悪臭が鼻を突きました。
「これは……日に日に酷くなりますね……」
「壁の外で屯している難民ね。追い払ってもすぐに集まってきて、キリがないのよ」
アーベンドルテ家では移民の受け入れを行っています。
けれどそれは、正式な手順を踏んで来た者だからこそ与えられるもので、領主の許しも無く勝手に土地を離れた違法な難民はむしろ処罰の対象となります。領土に暮らす民は、領主の財産なのだから当然のこと。勝手に受け入れては盗人の汚名を着せられてしまいます。代わりに領主は民に市民権を与えたり、著しい治安の悪化が認められれば自身の責任として正常化へ努めなければならない。
最も、十分な私兵を持てない領主では、場当たり的に雇い入れた傭兵が各地で好き勝手に略奪をしているから、徴税もままならないことがあるそうね。
当家では元より隣国との緊張状態がずっと続いていましたから、兵力なら十分以上にあります。
この度王国の騎士団から多くの有能な将や、その配下を雇い入れて人手はむしろ余っているくらい。
ですから国境線を越えて潜り込もうとしても捕えられ、例外無く処刑されているというのに、どうして壁の外にまで集まってくるのかしら。
上から金貨の一つも落としたことはありませんし、居たとしても何も得られるものはない筈よね。
「もしかしたら、シェーラ様の演奏を聞きたくてああしているのかも」
「ミルドゥナ。音楽は貴族のものよ。彼らに理解することは出来ないわ」
「あら、外国では民の中から素晴らしい演奏家が次々と誕生していると聞きますわ。我が国でも積極的に聞かせてみて、優れた人材を探してみるのはいかがかしら」
仮に音楽を学んだとしても、この国では楽器は平民にとってとても高価なものだそうだから、きっと奏でるモノが無いわ。
それに私は彼女ほど音楽の布教に興味は無いもの。
コレは政治の道具。
こんな場所で、逃げ込んで来た貴族達へ演奏を聞かせているのも、相互の繋がりを大切にするとの意思表示でしかないわ。相応しくない者が相手なら、そもそも私の元へ連れられては来ない。
「貴女を少し誤解していたわね。学園ではいつも慎重に立ち回って、目立ち過ぎないよう努めていた筈ですけど」
「……申し訳ございません、出過ぎた事を言いました」
いいのよ、さっきのお返しだから。
だから、これでおあいこね。
「不快に思ったのではないわ。ただ、違うなと思っただけよ」
すると彼女はまた崩れた笑みを浮かべて言うのです。
「シェーラ様が変わられた様に、私も変わったのかもしれません」
「私は変わっていないわよ。いつも通り、昔と何も変わらないわ」
全く、何を企んでいるのかしら。
彼女の内心を探りつつ、私達は談笑しながら階段を降りて行った。
※ ※ ※
来る日も来る日も。
来る日も来る日も、
ヴァイオリンを鳴らして音を奏でる。
ミルドゥナが言うには、音が変わり続けているそうね。
でもどうでもいい。
音なんて。
音楽なんて。
そう思っていた筈なのに。
彼女からある事を聞いてから、少しだけ楽しくなった。
それから私は弓で弦へ触れる時、とてもお腹の奥が熱くなるのを感じる。
時に爪先で引っ掻いてやる様に、時に掌で感触を楽しむ様に撫でてやり、時に引き裂くような強引さで奏でてあげるの。
いつしか私は微笑みながら演奏をするようになっていたらしいわ。
王国は燃え続けている。
最初の火の手は王族同士の殺し合い。
次に王を狙った暗殺騒ぎで、その首謀者と。
不思議なことに、何度襲われても王は死なず、首謀者が瞬く間に特定されて処断されていくのよ。
処刑した王族や貴族の財を接収し、資金を手に入れた王は更に傭兵をかき集め、次から次へと貴族を処断していった。
増税に応じなければ攻め込み、意見をされれば首を跳ね、また王の威光を得た傭兵団が国内で好き勝手に略奪を繰り返す有様。
私は王国にとても近い場所で、それらを見聞きした。
そして奏でる音色を聞いて、皆は私の演奏をとても美しいと言うの。
日に日に艶を増し、熱が籠もっていく演奏に涙を流す者も居た。
悪臭の立ち上る壁の上でヴァイオリンを奏でる私を、何故か民衆は救いの様に言うけれど、門を閉ざして受け入れないことを決定しているのも私なのだから、本当に滑稽ね。
けれど、不思議とあの悪臭に不快感はない。
今の王国は腹を裂かれてのたうち回っている。
なら、漏れ出ようとしている難民が臭いのなんて、当然のことじゃないかしら。
ねえ。
皆様はご存じかしら?
ヴァイオリンの弦は、腸で出来ているのよ。