ビル①
この日、龍司が目を覚ますとキッチンから良い匂いが漂ってきた。
まだ少し寝ぼけている状態で黒の半袖Tシャツとスウェット姿のままシャワーサンダルを履いて部屋を出る。
リビングを通ってキッチンへ行くと綺麗な桑の実色が目に入った。
桑の実色の髪の持ち主は少女のように幼く見える女性。
「渢奈?」
渢奈と呼ばれるとあどけなさを残した顔が龍司の方を向いた。
「龍兄、おはよ」
声色は大人しく、幼さが残っている。
渢奈は持っていたステンレスのレードルを小皿の上に置いて、乗っていた踏み台から降りると龍司に近付く。
「今日は託兄来れないって」
「それで渢奈が飯作ってくれてんのか。ありがとな。けど大学はいいのか?」
「今日は午前中しかないから。もう十三時だよ?」
渢奈に言われ、時計を見ると時刻は十二時五十七分を指していた。
龍司は「あら~」と他人事のように反応する。
渢奈が「お昼、食べる?」と首を傾げて訊いて来たので「せっかくだからそうするわ」と彼女の頭を撫でた。
「船場と村央も一緒に食べよ」
渢奈が廊下の方へ声をかけると玄関の方から黒いスーツに身を包んだガタイの良い男二人が来た。
ティアドロップ型のサングラスをしているのは船場で、ワンレンズ型のサングラスをしているのは村央だ。
船場が「龍司の兄貴、ご無沙汰しております」と言い、村央と共に深々と頭を下げる。
「ああ、久しぶりだな。元気そうで何より」
「はい」と返事をした村央が「兄貴もお変わりないようで」と顔を上げて笑う。
村央は元々強面ではないので、少し気を抜くととても優しい顔になる。
「お前も相変わらず人の良さそうな顔してんな~」
「ええ…!グラサンしててもダメですか?お嬢が選んでくれたんですよ?」
すると渢奈は「見たことない形だったから選んだだけ」ときっぱり言う。
村央はがっくりして「そんなぁ~」と眉を八の字にした。
「お昼の準備するから船場手伝って」
渢奈がガス台の前に戻りながら言うと船場は「はい」とシンクへ行き、手を洗いながら「自分は何をしましょう?」と声をかける。
村央が「俺は?」と訊くと「おっちょこちょいだからダメ」と渢奈が断言した。
「えええええ~?そんなぁ~」
「じゃあ村央は俺と花札するか」
龍司が煙草に火を点けながらニカッと歯を見せて笑う。
「ええ~?兄貴めちゃくちゃ強いじゃないですか」
「俺も久しぶりだから勝てるかも知んねぇぞ?」
わざとけしかけるように言えば村央は「ホントですか!じゃあやってみます!」とその気になった。
龍司は「ちょっと待っててくれ」と言って自室に戻り、黒いワイシャツとスラックスに着替え、黒い靴下と革靴を履く。
デスクの引き出しから花札を取り出し、リビングのソファに座っている村央の向かい側に腰を下ろした。
プラスチックのケースから札を出し、シャッフルするとルールに則って二人は遊び始めた。
二人が花札をしている間に渢奈と船場は手際よく、昼食の用意をし、ダイニングテーブルへ並べていく。
「お嬢、今夜はこちらに泊まって行かれますか?」
船場が皿にご飯を盛りながら訊くと渢奈は「ううん」と首を横に振った。
「ママに会いに行ってお家帰るよ」
船場は「かしこまりました」と了解し、皿を彼女に手渡す。
受け取った渢奈は即席で作った鳥のひき肉とバジルの炒め物と目玉焼きを乗せてカウンターへ置き、船場はそれをダイニングテーブルに並べた。
スープボウルに白菜と豆腐のゲーンジュートを盛り付けると「できたよー」と渢奈は龍司と村央に声をかける。
龍司が「オーウ」とご機嫌な返事をし、村央は「負けた~!」と騒ぎながらソファから立ち上がり、移動してダイニングチェアに座った。
「お。ガパオライスだ。今日はタイ料理か」
龍司が「いただきます」と手を合わせ、他の三人も「いただきます」と言って食べ始める。
ガパオライスを一口食べた龍司は「美味い」と渢奈を見て言うと彼女は「良かった」と言って黙々と食べ進める。
「料理のレパートリー増えたか?」
「少し。ママが教えてくれた」
龍司は口に入っていたものを飲み込むと「そうだ」と何かを思い出す。
「今日、ママさんのとこ行くんだっけ?俺も一緒に行っていい?」
「うん。珍しいね」
「渢奈に面倒見てもらってるからたまには顔出して礼言わねぇとな」
一足先に食べ終えた渢奈に「じゃあパパにも会いに来ればいいのに」と言われ、龍司は「勘弁してくれ」と困ったように笑った。
渢奈の母――柚麗は歌舞伎町にある高級クラブ『花天月地』でママを務めており、彼女は瑞洲組の現・頭将吾の愛人で、本妻公認である。
つまり渢奈は妾の子ということだ。
それは若頭である託也も同じで彼の母親も愛人であったが、彼女は託也が五歳になる年に失踪し、そのまま行方不明だ。
柚麗は元々瑞洲組が経営していたキャバレークラブで働いていたが、言葉使いや礼儀の良さ、その美貌と実績から将吾がクラブを開店する際に引き抜いた人材だった。
クラブを開店すると将吾が度々店を訪れ、会う回数が多くなるとそのまま愛人となり、彼との間に子供が出来ると柚麗は自ら本妻へ謝罪しに行った。
しかし彼女は咎められることはなく、その晩は将吾が朝まで説教を食らったらしい。
本妻は責任を持って柚麗と渢奈を瑞洲家へ迎え入れろと将吾に命令し、現在では共に暮らしている。
「あらまあ、龍司くんじゃない」
店に入ると柚麗はすぐに龍司と渢奈に反応する。
柚麗は真珠色の着物を着て、シンプルに夜会巻きで髪を纏めていた。
今年で五十を迎えるが、その美しさは年不相応である。
「渢奈。どうしたの?」
「今週ママに会えてなかったから会いに来た」
渢奈がそう言うと柚麗は「まあ嬉しい」と彼女を抱き締めて、頭を撫でる。
とても仲睦まじい親子だ。
「柚麗さん。渢奈にはいつも世話になってます」
龍司が頭を下げると柚麗は「あらあらとんでもない」と笑った。
「こちらこそ。渢奈を可愛がってくれてありがとう。こんな仕事だからすれ違いが多くてね、この子には寂しい思いばかりさせてるから龍司くんにはとても感謝しているのよ」
柚麗は「さ。せっかく来たんだから飲んでって」と席を案内する。
まだ開店したばかりなのであまり客が入っておらず、店内は静かだ。
奥のボックス席に通された龍司の隣に渢奈も座る。
船場と村央はどちらも下戸であり、車で待っているので長居するつもりはない。
柚麗がメニュー表を持ってきて「さてと、何飲む?」と龍司に渡そうとするが、渢奈がそれを阻止する。
「ママ。龍兄は野菜不足なのでまずは野菜ジュース」
「あらやだなぁに?またエナジードリンクとかばかり飲んでいるの?」
図星の龍司は視線を泳がせて「まあ、その…たまに…」と小さな声で答える。
すると柚麗は「も~ダメじゃない」と呆れた声を上げて奥の厨房へ引っ込むと一リットルサイズのペットボトルを手に戻ってきた。
ドンッと大きめの音を立ててテーブルに置かれたのはトマトベースの野菜ジュースで「まずはこれね!」と柚麗が元気よく言う。
龍司は明らかに嫌そうな顔をする。
「何でクラブに野菜ジュースがあるんだよ…つーか一リットルも飲んだら腹膨れちゃうって」
「お酒よりも野菜!健康重視よ!」
龍司と柚麗が親子のようなやりとりをしていると幹部クラスのボーイが「御取込み中申し訳ありません。柚麗さん、お話が」と声をかけてきた。
柚麗は「ちゃんと飲んでね」と龍司に念押しするとボーイと共に従業員用フロアへ続くドアの奥へ行く。
渢奈と二人きりになった龍司は「…手伝って?」と彼女に協力を願うが、「ダメ」と冷たく返されてがっくりと項垂れた。
お読みいただき誠に感謝申し上げます。