屋上②
仕事を終えた託也は大沼が運転する車の後部座席に乗り、背凭れに身体を預けてぐったりしていた。
託也が最後に相手をしていた六合村は五十代の女性で、彼が勤め始めてから熱心に通い詰めている常連の一人だ。
来てくれるのは良いのだが、彼女のテンションの高さと話の長さが託也をうんざりさせる。
実に饒舌極まりない。
「二時前に帰ってくれたからいいけどよ…本当マシンガンみたいな人だよな。次々話が出てくる」
それでも託也が丁寧に対応するのは彼女の寂しさを少しでも紛らわせてあげるためだった。
六合村には託也と年近い息子がいるそうだが、独り立ちしてからはあまり連絡をとっていないそうだ。
彼女から電話をかけても迷惑そうな反応をされ、大した話もせずに切られてしまうらしい。
夫も無口な上に仕事中心の性格で、せっかく家に帰って来てもリビングだったり自室だったりでノートパソコンを開き、話の相手をしてくれないそうだ。
友人と話をしてもどこか寂しさを感じてしまうらしい。
『私が子離れしなきゃいけないのにね…』
六合村の口癖だ。
彼女なりに子離れできていないことが自分の悪い点だと認識している。
独り立ちした息子にあまり干渉し過ぎてはいけないと思っているようだが、どうしても心配になって連絡をとりたくなってしまうらしい。
六合村の話は長くてうっとおしい内容のものも多いが、彼女が息子の話をする時だけは託也はいつも親身になって聞いていた。
託也の母親は彼が小さい頃に行方をくらまして、帰ってくることはなかった。
そのため母親の愛情というものをまともに受けられなかった託也は心配してくれる母親がいる六合村の息子が羨ましいのだ。
「子離れかぁ…俺には分からねぇな」
話は真剣に聞くが、解決に繋がる気の利いた回答をしてあげられないため、少し歯痒さを感じている。
「まともな母親って何だろうな…」
託也の独り言に大沼は何も言えない。
大沼自身もまともな育てられ方をされなかったからだ。
瑞洲組に入って来る輩は大半がまともな成育歴でなかった者が多く、酷い者は実の親にゴミとして捨てられ、運良く見つけた組員が連れ帰り、直接組の中で育った者もいる。
もし自分が母親の元で育ったなら、彼女の息子みたいに冷たい態度をとっていたのだろうか。
見当もつかない考えに託也はハー…と静かに溜息を漏らした。
「オウ託也!久しぶりだなぁ!」
瑞洲組の家に着くと玄関に入って父親である現・頭の将吾が笑顔で託也を出迎える。
久々に顔を合わせたので喜んでいるようだ。
託也が力無く「ただいま…」と言うと将吾は彼の肩に手を置いた。
「何だよ!久しぶりに会ったっていうのに元気無ぇな!」
「一応、仕事上がりだから…」
シャワーを浴びてさっさと寝たい託也は彼の手を振り払い「それじゃ」とその場を去ろうとするが、将吾は「いつぶりだ?正月以来か!」と会話を続けようとする。
託也が返事もせず廊下を歩き出すと将吾もその後ろをついていき、「ちゃんと飯食ってるか?」「店は繁盛してるみてぇだな!」と色々話しかけてきた。
「俺、シャワー浴びに行くんだけど…」
「湯船にお湯張ってあるぞ。たまには一緒に入るか?」
託也は「冗談だろ…」と言いながら脱衣所の扉に手をかけ、中へ入ろうとした時、将吾の声色が変わる。
「龍司は相変わらずか?」
彼の問いに託也は足を止め、ふーと鼻から息を吐くと「うん」と肯定した。
「その感じだと戻って来る予定無さそうだ」
「話題に出すとすぐ逃げちゃうんだ。俺も義兄さんに若頭をやって欲しいのは山々なんだけど」
「オイオイ。頭は託也でいいんだよ。龍司にはお前の傍にいてサポートをして欲しんだ」
将吾はあくまでも託也に跡を継いで欲しいようだが、本人は自分よりも相応しい龍司が頭になるべきだと考えている。
この話は幾度となく将吾にも龍司にもしてきた。
自分は上に立つよりも誰かの支えになる方がずっと向いていると託也は思っているため、はっきり跡を継ぐと言ったことはない。
「俺はまだ諦めないから。いつか絶対義兄さんに跡を継がせる」
託也はそれだけ伝えると脱衣所の扉を閉める。
将吾の「オイ、託也」という呼びかけが聞こえたが無視して服を脱いで浴室に入った。
一人では広すぎる浴室で託也は頭上からシャワーを浴びて、シャンプーを手に取り、ワックスが付いた髪を洗う。
身体も洗い、すべて洗い流すとシャワーの栓を止めて湯船に入った。
肩まで浸かって静かにふー…と息を吐き出す。
先ほどの将吾との会話を思い出し、天井を見上げながら「親父も義兄さんと同じこと言うよな…」と一人ぼやいた。
十時ごろ目を覚ました託也は部屋着を脱いで黒いフード付きパーカーとグレーのショガーパンツに着替えるとキッチンへ行き、冷凍庫を開ける。
ラップに包まれた一善分のご飯を電子レンジで温め、茶碗に盛り、何故か常備してある明太子を一切れともみ海苔、胡麻、昆布茶の顆粒状のものを適量乗せてお湯を注ぎ、即席のお茶漬けを作ると立ったままそれを五分足らずで間食し、シンクで使った茶碗とスプーンを洗う。
布巾で水気を拭い、食器棚に戻すとすぐに自分の部屋に戻って携帯端末と財布をポケットに入れて玄関へ向かった。
「若、お出掛けですか?」
将吾の側近の一人である寿々原が託也に気付いて声をかける。
「ああ。義兄さんのとこ行くから」
寿々原は「それでしたら近くまでお送り致しましょう」と車のキーを棚から取り、革靴を履いた。
託也が「親父は?」と訊くと彼は「奥様と映画を鑑賞中です」と答える。
「今日はお出掛けになる気は無いそうなので、我々も暇を持て余していたところです」
寿々原と共に黒いワゴン車に乗り込んでシートベルトを装着し、託也は「相変わらず仲良いなぁ」と困ったように笑った。
エンジンをかけると切り忘れていたラジオが鳴り出し、「申し訳ありません」と寿々原が消そうとすると内容が報道番組だったため、託也が「いいよ。ついでに聞く」と言ったのでそのままにする。
報道の内容は東京都内で起きた事件に関するもので、特に新宿関連が多い。
ほぼ無法地帯となった新宿では毎日、殺人や密売、誘拐など物騒な事件ばかり起きている。
昨日もキャバレークラブに勤めていた女性が行方不明になったという内容が聞こえた。
「新宿もすっかり変わっちまったな」
託也は溜息交じりに言う。
「元々全く安全ってわけじゃなかったけど、ここまで物騒じゃなかったよな」
「そうですね。法も守られてましたし、何よりシンボルの都庁がありましたからね」
寿々原も頷いて同意する。
「今じゃ東京の中心は品川。再開発も成功して住民も増えてる。新宿とは正反対だな」
託也の言うことに寿々原は苦笑いを浮かべながら「新宿は焦り過ぎましたね」と言った。
託也は彼のオブラートに包んだ言い方に優しい男だなと思う。
託也も寿々原も口に出さないだけで本当は新宿が調子に乗り過ぎていたことを分かっていた。
当時の新宿は日本の中心として先端の最新技術を大量に取り入れようと狭い街のあちこちに企業ビルや生産工場、研究所などを設け、すべてにおいて新宿が一番になるようにと意気込み、金額に糸目をつけることなく、次々に投資を行った。
しかも半数以上が周囲の意見も聞かず、区長が勝手に行っていたことで、それが失敗だったとなった時、区長はもちろん当時の都知事も責任を負われ、辞めざるえなかった。
その反面、品川は時間をかけて居住区を中心に都市開発を進め、土地と予算を確保した上で産業開発も推進。
その結果、バランスの良い都市へと変化した。
「まあ、政府も随分とあっさり見放したもんだ」
託也が皮肉めいて言うと寿々原は「それが」と口を開く。
「当時、既に区長の周囲で質の悪い輩と関係があったそうで、巻き込まれるくらいなら勝手にしてくれとでも判断した結果ではないかと」
彼の言う質の悪い輩という言葉に託也は口角を上げた。
「俺たちも、世間的には質の悪い輩じゃねぇか?」
託也の言い分に寿々原はまた苦笑いを浮かべて「ですね」と言う。
ふとラジオから《速報です》と緊張感の籠った男性キャスターの声が聞こえた。
《今日午前十時十分ごろ、渋谷のセンター街で集団の飛び降り自殺が起きました。現場に居合わせた人々によると飛び降りたのは二十代から三十代の男女で、全員の死亡が確認されています。現場は混乱が続いており、詳しい情報はまだ入って来ておりません》
託也も寿々原も眉を顰めた。
「集団自殺?しかも渋谷のセンター街って人多いだろ。巻き込まれた人いるんじゃねぇか?」
託也は首を傾げてポケットから携帯端末を手に取り、アプリを開いて一般人が載せている現在進行形の情報を見る。
託也の予想通り被害がかなり起きているようで、巻き込まれて意識を失っている人もいるようだ。
詳しい現場の情報を見つけると託也は「マジか…」と額に手を当てて溜息をつく。
寿々原が「どうしましたか?」と訊くと託也は「やべぇぞ」と言った。
「現場、うちのキャバクラの目の前だぞ」
寿々原は目を見開いて驚いた後、「うちの連中は…」と口にする。
「分かんねぇけど、巻き込まれてない保証も出来ねぇな」
託也は電話帳を開くと一番上にある名前を選択し、電話をかける。
「寿々原。悪ィが渋谷に変更してくれ」
寿々原は「はい!」とハンドルを切り、渋谷方面へ車を走らせた。
ここまで読んでいただき誠に感謝申し上げます。