先代の管理者
「じゃあアリには先代の管理者、ウィルフレドが残した一年間だけの魔術を説明するわ」
気を取り直してプリ先生は説明を始めた。
ここでの食事は、具だくさんのスープと手のひら大の丸パン二個が、朝と夕方テーブルにセットされるため心配いらないこと。
その量で足りなかったら、畑や森で食べられるものを採取して、好きなように調理したらいいということ。
一日二食がここでは普通のことらしい。
アリはおやつがあるのか気になったので聞いてみた。
「お腹が空いたなら好きに食べたらいいじゃない」
プリ先生は取り付く島がなかった。
「そ、そうですよね」
アリはプリ先生の素っ気なさにしょんぼりした。先生との会話のキャッチボールは、初球暴投になってしまった。
薬を調合するための教本には、翻訳のための魔術がかけられていること。プリ先生と会話が成り立つのも、似たような魔術がかけられているかららしい。
地下の貯蔵庫には収穫した薬草や作った薬、食材などを保存することができる。ここに保存しておくと劣化を遅らせることができるということ。
『時間を止める』なんていうのは、やっぱりお話の中だけのことなんだな。
この家にある魔道具の魔石は、これから一年のあいだ十分もつということ。
使うと減っていくなんて電池みたいだとアリは思った。
この家には定期的に汚れなどを落とす魔術がかけられているため、掃除や洗濯は不要であるということ。
魔術がかけられているから綺麗になるとはいえ、食器は使ったら洗いたいしお風呂も入りたい。下着くらいは手洗いができそうだ。
アリは前世、深夜残業して帰宅すると、疲れてそのまま眠ってしまうことがたびたびあった。だからメイク落としを忘れても安心なこの魔術は、前世にこそ必要だと思ってしまった。
どうやら生活に必要なことのほとんどは、魔術がやってくれるから、私がするのは調合のために言葉と文字を習得することみたいだ。
いまのところはそれが一番の仕事らしい。
私は森で狩りなんてできないし動物の解体も無理だ。小さな魚を捌いたことくらいはあるけど。
小学三、四年生くらいなのに、家電のない世界で家事全般をこなすのは難しい。
この家の天井はもの凄く高いから、埃を払うのが大変そうだし。
アリは前世が喘息持ちだったから、掃除はとくに気をつけていた。カーテンをはずすときなどは、マスクをしていても涙と鼻水に苦しめられたものだ。
アリは改めて先代の管理者に感謝をした。
「ウィルフレド様が健康で長生きしますように。ウィルフレド様に幸せが訪れますように」
ふーっと息を吐き出し祈り終えたアリは少し考えた。
「プリ先生がもう少し優しくなりますように」
ついでに自分の願いをつけ足したが、プリ先生には聞こえていなかったようだ。
「家の中は案内したから、つぎは外に行くわよ」
プリ先生にうながされて立ち上がる。急いでカップのお茶を飲み干すと、プリ先生の分もまとめて流しに持っていき、軽くすすいで水切りかごに伏せておいた。
そういえば裸足だったんだ。アリはベッドの下に革のショートブーツを見つけると、浴室で足を洗ってから履いてみた。サイズはピッタリだった。
いま着ている薄い水色のワンピースも、衿や袖に刺繍がしてあって可愛いしサイズもちょうどいい。
これもウィルフレド様が用意してくれたんだろうか。
下着はシンプルだが、へその下あたりに小さな赤いリボンが付いていて、なかなかに女の子らしいものだったのだが……。
女児の服を購入する血縁ではない大人の男性か……。
アリは深く考えないことにした。
ドアを開けて階段を下りて外に出ると、右側に進んで時計まわりに空き地を一周する。
畑には少しずつ異なる植物が植えられていた。もこもこした背の低い木は枝が透明感のある緑色で、楕円形の真っ白な葉をつけている。
こんな植物は日本で見たことがなかったな。
「ここには毎朝、川から汲んだ水を撒くのよ」
プリ先生は川の場所や物置小屋に入っている道具などを、アリの肩に止まって説明した。
これくらいの規模なら水やりも苦痛ではなさそうだ。畑には二、三メートルくらいの畝が六本と、背丈の低い木が数本生えているだけだ。
そしてその木のまわりには、真っ赤な猫草のような植物が生えている。
たぶん水やりには三十分もかからないだろうな。
家の北側の森との境界ギリギリに、幅二メートルくらいの川が流れていた。水深はあまりなさそうだけど水は澄んでいて冷たく、泳ぐ魚の鱗に光が反射してキラキラしていた。
「プリ先生、ここの魚は食べられるの?」
この光景を美しいと感じる前に、アリの食欲が反応した。脊髄反射の域である。
「そうね、毒持ちはいないわね」
呆れたようにプリ先生は答えた。
「私、ここの生き物は全然わからないんだけど」
アリは困ったように呟いたのは、毒があるのかそれともないのかが、見ただけではまったくわからなかったからだ。
「大丈夫よ、この森の動植物は代々管理者が本にしてるから。ウィルフレドも最初は調べながら調理してたわ」
アリはそのことばを聞いて安心した。どうやら毒を持つ生き物を避けることができそうだ。
「まぁ、たまにお腹を壊して自分で解毒薬を作って飲んでたけど」
しかし安心感はすぐに失われた。それはちっとも大丈夫ではない。最初に作るのは解毒薬にしようとアリは心に決めた。
家の東側には何も植えられていなかった。ここから家の方を見ると、物置小屋のまわりには三、四本の木が生えているのが見える。
しかしこのあたりは木がまったくなくて、五センチくらいの長さの草が芝生のようにびっしりと生えている。これはどうみても雑草だ。
小さなサッカーフィールドに見えないこともない。
「プリ先生、ウィルフレド様はここを何に使っていたの?」
「ここはドラゴンの離着陸に使ってたわね。王都に行くとき便利だから」
疑問に思い尋ねてみると、なんてこと無いようにさらっと答えられてしまった。しかしアリは驚きすぎて口が半開きである。
いや魔術だなんだって言ってるから、ここはファンタジーの世界なんだなとは思ってたけど。ドラゴン……いるんだね。そして人に使われてるのかぁ。
凶悪なラスボスだったドラゴンのイメージが、家まで迎えに来てくれるタクシーになってしまった。
「ん? 管理者って森から離れられないって言ったよね」
先代がドラゴンタクシーで王都に行ったなら、どれくらい森から離れたんだろう。
「ドラゴンなら王都まで往復しても、半日はかからなかったわね。そして管理者が森から離れられるのは一日が限度かしら」
プリ先生はちょっと考えてからそう言った。
離れられないのは距離じゃなくて時間らしい。
「へぇ~、王都って思ったよりも近いんだね」
半日で往復できるなら、一日あったら買い物ができるかもしれないし、住んでいる人たちも見てみたい。
「アリ、アンタが歩いたらひと月はかかるわよ」
プリ先生のことばに希望はあっさりと打ち砕かれた。だがアリは前向きに考えた。
「ドラゴンは凄いね! じゃあ十歳になったらドラゴンに乗れるんだね」
楽しみができて嬉しそうなアリに、プリ先生は説明を続けた。
この森の魔生物たちは管理者を敬っているので、襲ってきたりはしない。けれど普通の動物は違うのだ。
ここは森の深部だから、肉食獣とはめったに遭遇することは無いけれど、採取するときは家からあまり離れないようにと念を押された。
この世界にどんな生き物がいるのか見当もつかないアリは、神妙な顔をして頷いた。