エメリコさんのハーブ畑
「落ち着いたようですから裏庭に出てみますか? よかったらいくつかハーブをおわけしますよ」
ううっ。エメリコさぁ~ん、超やさし~い。荒んだ心が一瞬で凪いでいくね。
本来アデシボは根っこから採取し、肉厚な葉に小さな針や刃物で傷をつけて、その汁を接着剤として使用するらしい。
アデシボは接着するものの素材を限定しないし、とても強力で高熱をあてないと剥がれないため、職人系のギルドからの採取依頼が常に出されている。
特に建築ギルドの家具職人や細工師、皮革ギルドの靴や鞄を作る職人や馬具職人には、欠かすことのできない道具のようだ。
しかしその特性から、運搬途中で葉が傷つくと鞄の中身がくっついてしまうため、かなり気をつけて運ばないといけない代物だった。
葉だけを採取する場合は折ったところをすばやく油紙で包んで、空気に触れないようにビンに入れるというのが正しい採取の方法だ。
つまり私が採取した方法では、カップからこぼれた汁が鞄の中で入れたものを接着させるため、管理者の特別な鞄でなければすべてが台無しになるところだったのである。
これからは興味本位で知らない植物を採取する場合には、ビンに詰めるか油紙に包むことを忘れないことを心に誓った。
残念ながら採取しないという選択肢は私にはないのだ。
私には結界があるから安全だが、鞄から出したとたんに周りの人たちが倒れるような事件が起こらないとも限らない。未知の植物は先生に聞いた方がより安全だね。
プリ先生からは図鑑で調べることを習慣づけさせられていたので、自分でなんとかするクセがついていたけれど、とりあえず危険なものだけでも聞いておこう。
いままでなにも起こらなくて本当によかったよ。
「ここが領主館の裏庭ですよ」
案内されながら心の中で反省していた私は、裏庭に植えられている植物の多様さに息をのんだ。
「かなりの種類があるんですね!」
あたりを見回してからようやく落ち着くと、エメリコさんを振り返った。
裏庭は領主館の北側にあり、領主館と街壁のあいだの約七十メートル四方の場所には、十数本の背の高い樹木と五列に並んだ高さ五メートルほどの樹のほかは、区画整理された小さな畑が広がっていた。
西側には水路があり、北にある赤の山脈から集まった冷たくて清らかな流れが、南側へと走っている。
この水路はそのまま街中を巡り、街壁の南西にある浄化槽を通ってから、海へと流れる河に戻されるのだという。
「あっ! あれはナツメグの樹ですね」
背の高い樹の一本には丸い実がぶら下がっていた。
「えぇ、一本あればここでの料理に使う分はまかなえるんです。量が多いので翼族の下男たちが実を集めて、それを粉挽きギルドで挽いてもらうんですよ」
粉挽きギルドは持ち込みしてもいいのか。私は魔術でなんとでもなるから大丈夫だけど、小麦や稲作りをしている農家では、とれた作物を粉挽きギルドに売ったり、自家消費分を挽いてもらったりするようだ。
このギルドでは菜種やゴマ、オリーブ、大豆などを圧搾して油をとることもしているらしい。
「菜種油はそろそろ今年のものが出回るころですよ」
油かぁ。家にあるのが菜種油だったな。そしてこのあいだ購入したのがオリーブ油だね。
鞄に入れたら酸化はしないんだから、多めに買っておいてもいいかな。
「先ほど粉挽きギルドでパンを買ったんですよ。だけど油を販売しているとは知りませんでした」
「あそこは二階に直営店があるんですよ」
なるほどね。パンの売り場とギルドの受付のあいだに階段があったけれど、だれも二階には行かずにパンを購入したら帰っていたし、受付でも購入できたから疑問に思わなかったよ。
三十キロの玄米をお願いしたから、職員が親切心で運んでくれたのかな。
「そうなんですね。そのうち行ってみようと思います」
それよりもこの庭の植物のことを聞こう。
背の高い木は各種一本から三本ずつ植えられていて、使用頻度や実をつけるまでの年数によって管理されているらしい。
すでに収穫を終えたオレンジの木が一本と、ナツメグにレモン、月桂樹にグローブ、シナモンまでは教えてもらったらなんとなくわかった。
月桂樹はローリエだね。グローブは使ったことはないけれど聞いたことはあるような気がする。
シナモンは三本あって味と香りが異なるらしいから、カシアとニッキなのかもしれない。
「エメリコさん、辛味があるシナモンはありますか? 根っこが使えるはずなんですが」
「シナモンは樹皮を剥いで乾燥させているので、根っこが使えるとは聞いたことがないですね」
「そうですか~」
まったく同じとも限らないから、地球にはないシナモンもあるんだろうな。ニッキ飴はけっこう好きだったんだけどね。
あとわからないのは、二本植えられているアガーと呼ばれる高さ十五メートルはある樹木だった。
スズカケの木に似たこの木は、葉っぱがモミジのように手のひらの形をしていてる。八から九の月に枝から下がるようにつくピンポン玉大の実の中身は、乾燥させて粉にするとゼラチンのような性質を持つらしい。
「それはまさしくアガーだよね。日本のアガーは海草だったけど」
取った実は冷暗所に保管すると一年はもつから使う分だけ粉にするのが普通らしく、エメリコさんはひと月分の約三十個を月末に粉にしていると言った。
夏は特に冷たいゼリーが喜ばれるため、五の月から八の月の半ばまでは、いつもの倍の量を粉にしているようだ。
一個の実からはだいたい五十グラムのアガーがとれるから、領主館の消費量は相当なものだ。
「冷たくてつるんとした口当たりのよいものは、子どもでも飲み込みやすいので、食欲不振のときにはよく使われますよ」
「柔らかめに固めれば、のどに詰まらせることもないですもんね」
これから暑くなれば高齢者や小さな子どもから弱ってしまうから、食べ物にも気をつけているのだろうね。食中毒も心配だし……。浄化魔術は必須だよなぁ。
「こちらは胡椒です」
「あっ!」
太い木だとばかり思っていたら、支柱に絡まる蔓だった。柱のように一定の距離をあけて植えられている胡椒の木には、房状の実がたくさんなっていて、用途によって収穫時期を変えているようだ。
こんな風に植えているから胡椒の値段が高すぎたりもせず、手ごろな値段の屋台の串焼きがおいしいのだろう。
「ぜんぶが胡椒じゃないんですね」
後ろに植えてあったのはカラマンシーの木だった。実を取りやすくするためなのか、樹高は五メートルはないだろう。
その木には直径が四センチくらいの黄色がかった緑から、熟れて橙色に変わった果実がたわわに育っていた。
種類ごとにわけられている畑には、三十センチ前後の草丈のハーブなどが植えられていた。
バジルやローズマリー、オレガノにタイム。アサツキだと思ったものはチャイブだと訂正されてしまった。
細い小道には無造作にパセリが生えていたので、ひと株わけてもらうことができた。ひと株と言っても直径が二十センチはあるから、かなりこんもりしている。
これだけでパセリには一生困らないような気がするよ。
茴香とディルの違いがよくわからなかったけれど、これらは似たような品種なのか交配しないように離して植えられていた。
青じそもきっちり囲まれていて、むやみやたらと増えないような対策が講じられているようだ。
あの葉っぱと赤い実がついたものは、生姜と唐辛子だとわかる。だがスズランのような見た目で、花の部分に黄色い実が二つずつついているこの草はなんだろうか? よく見ると白い花が咲いているものや、まだつぼみの状態のものが混じっている。
「匂いはこれといってしないよね?」
ほかの区画ではハーブらしい爽やかな香りが漂っていたが、この場所からはなんの香りもしないのだ。この草はかなりの数が植えられているんだけどなぁ。咲いている花からも特に芳香は感じられないね。
「これはレバドラといいます。アリさんの国ではパンを膨らませるためになにを使っていたんですか?」
「えっ?」
自分で本格的にパンを焼いたことはないんだけど、天然酵母パンとかは有名だよね。リンゴやレーズンを使ったパンを食べたことはあるな。
パンを膨らませるためにはイースト菌で発酵させたり、ベーキングパウダーが必要なはずだよね。
「パン酵母を混ぜていたと思います。私は食べることが専門で一度も焼いたことはないんです」
そういえば米粉パンも流行ったよなぁ。
ポンデケージョは作ったことがあるけれど、私はいつも白玉粉を使っていたんだよね。あれは発酵とか関係なかったから、手軽に作れたしとてもおいしかった。
もち米があればきっとここでも作ることができるんだろうね。
「そうでしたか。このあたりではこのレバドラの実を割って、中身を乾燥させ粉にしたものを使うんですよ」
それはドライイーストみたいなものなのかな? でも実は二センチくらいだぞ。粉を集めるのは大変じゃないかな。
「丸パンをひとつ焼くためには、レバドラは何粒くらい必要なんですか?」
「そうですねぇ…………レバドラの実が一粒あれば丸パンを四十は作れますね」
「ふぉっ!」
一粒で四十個ですと!? それならバゲット二本分は作れるってことか!
「レバドラってすごいんですね」
「半日陰の場所でも育つので、庭に植えている家庭はわりと多いんですよ」
そうなんだ。でも私がパンを焼くかは甚だ怪しいところだよね。つまりレバドラは使わない。
私は焼いてもらったパンを買うことで、この国の経済を回すのだ!
かなりの数のカラマンシーの実をわけてもらうと、裏庭と謎の植物に満足したため控え室に戻ることにした。
カラマンシーは次々に熟れていき、橙色の実は取りきれないくらいだと言うので、百個くらいはもらったと思う。
欲を言えばアガーの実が気になるところだが、実がなるのは秋だからしばらくは手に入らない。
領主館の分が足りなくなると困るので、譲ってくれるという申し出を断って振り返ると、領主館に添うようにパンパスグラスが生えていた。
草丈が三メートルから四メートルはあるし、ほこり取りの羊毛ダスターのような穂が五十本は生えている。
「エメリコさん、これは私の国にも生えていました。ちょっとピンク色のものとかもあったんですよ」
ここに生えているのは、穂がベージュというか薄いオレンジっぽいね。
あれっ? でもこの時期に穂が出ているのはおかしくないか。ススキみたいなものだから、穂が出るのは秋だよね?
「ビカルボナトはあると便利ですよね。ピンクのものは掃除用ですね。あれはもっと東側に生えていますよ」
「ビカル? ボ……」
「ビカルボナトですよ?」
不思議そうな顔をして、エメリコさんが植物の名前を繰り返すが、私が思っていたヤツと違う。
あぁ~、パンパスグラスじゃなかったや。またもやそっくりさんに騙されるところだった。
「似ていたけど違うものみたいですね。ピンクが掃除用ならこちらは?」
「もちろん食用ですよ。食器や調理器具を洗うときにも使いますけど」
「異世界ってススキの穂を食べるのか~」
「いえいえ、このまま食べたりはしませんよ。茎を切って一日おけば穂から花粉が落ちるのです。その花粉を使うんですよ」
「花粉を?」
「はい。こちらの花粉はオレンジ色で掃除用の花粉はピンク色ですから、間違って使うこともありませんよ」
「う~ん」
花粉を食べるってなんだ? それに掃除用? 粉石鹸かクレンザーみたいなものなのかな?
でもそうすると食用にはならないし。
「オレンジ色の方は水に溶かすと、アリさんが持ってきてくれたコンガスのようになりますよ。それに歯磨き粉にも使われていますね」
「ふむふむ。これは重曹だね。便利だから私も植えようかな。いや、これはけっこう見かけたよね」
「そうですねぇ。寒い地方にはあまり生えないとは聞いていますが、このあたりではよく見かけますよ。初級のハンターが狩りのついでに刈ってきたりもしますが、売るというよりは自宅で使う分を採取することが多いですね」
なるほどね。それならピンク色よりもオレンジ色のビカル…………ビカルボナトか。こっちを集めた方がいいね。食用の重曹か、工業用の重曹かってことだもんな。
これで肉を柔らかくすることもできるね。
歯磨き粉の改良もできそうだよ。
「ありがとうございました。おかげでいろいろ知ることができました。では十七日の夕方にまたおじゃましますね」
私はエメリコさんにあいさつをすると跳ねるように領主館を出て、ウキウキしながらコンバの街を目指して駆け出した。
時間はまだ九時を過ぎたところで、コンバの街までは二時間半はかかりそうだ。
ちょうどお昼におじゃまするのは気がひけるから、ビカルボナトを採取しながら向かうとする。
ススキはこちらの世界にもあって、かまどに火をつける火口に使ったりするので、村や町に近いところでは刈られていることが多い。同じく街道脇の野営所も同じである。
スギの葉や松ぼっくりも似たような理由で落ちてはいない。薪がわりにタダで集められるものは、よく利用しているみたいだね。
つまりいまの時期にススキのようなものを見かけたら、それはすべてビカルボナトと言うわけだ。
もちろん私は村や町に近いところからは採取しない。街道脇なんてめったに走ることもないから、そのあたりはすべてスルーだよ。
「おおっとピンク色発見かぁ。オレンジ色のが欲しいんだよね」
とりあえずそこに生えていたピンク色は、半分ほど採取した。
オレンジ色を見つけたら根っこから採取するつもりだから、一番大きな麻袋は使わないようにしているのだ。
猛獣をかわしつつ、一時間半ほどでリリオスの街の対岸に着いた。ここはいつも渡る橋よりも八十キロくらい上流にある。
初日は赤の山脈のふもとをひたすら北上してから東に向かったので、橋の通行料はかからなかった。
この橋を渡るのは初めてだけど、造りはクラベルの街に近いところのものとそう変わらないようだ。
「川幅はちょっと狭いかな~」
上流だけあって少しだけ橋の長さは短いようだが、すく近くで二本の河が合流しているので、水流は速そうだな。
河岸で流れを見ていると、そこにはチクレが生えていた。
「おぉ~」
リス君たちは元気でいるかねぇ。
ミニトマトのようなその実をもぎながら、それを初めて食べたときのことを思い出した。
しんみりしたがそれほど時間は経ってはいない。事件が続きすぎてすっかり記憶が薄れてしまっているだけだ。
十個ほど採取して鞄に入れると橋に向かって歩きだした。ここは認知不可はいらないと思う。
橋を渡って数十メートルでリリオスの街だから、徒歩で渡る人も多いのだ。
「ひとり三オーロか」
橋の通行料はここでも三オーロだった。これは顔を覚えられちゃうか? いや、使う人たちは硬貨の模様なんて気にしないかもね。
「おや? お嬢ちゃんはひとりなのかい? お家の人はどうしたんだ?」
私が三オーロ銅貨を手渡そうとすると、受け取ったおじさんが心配そうにそう聞いてきた。
ひとりだと話しハンターだから大丈夫だと言ったのだが、見た目がまるっきり子どもだから信憑性が皆無だったらしく、前を歩いていたハンターのパーティーに私のお守りを頼んでしまった。
「あらあら」
パーティーメンバー唯一の女性が私と手をつなぎ、寄る予定のなかったリリオスの街まで一緒に行くことになった。
やっぱり見た目って大事なんだな。どんなにしっかりしていても、所詮は十歳の少女である。
グッと親指を立てたおじさんに困惑しつつも、ハンターたちには謝っておく。絶対に私の方が速いとわかっていても、ここで走り去るわけにもいかず、短いコンパスを必死に動かして遅れまいと頑張っていたら、あきらかに歩幅を刻んで歩きだしてしまったのだ。
これはめっちゃ気を使われているね。
「すみません。煩わせてしまって」
この六人のパーティーは、男性が五名で紅一点女性がいた。パッと見るところ全員人族で、背は百八十センチ前後。女性も百七十センチはありそうだった。
年齢も若そうで二十代前半といったところだろうか。
「橋を渡って仕事だなんて、まだ早いんじゃないか?」
ちょっと心配そうにお兄さんから言われてしまい、口ごもってしまう。
まさかここ最近は毎日五百キロくらい走っているとは言いにくいし、正気を疑われるから言えないよ。
「なにか採取してきたの?」
優しく聞かれたので、ついつい正直に先ほど採取したチクレとビカルボナトの名をあげてしまった。
「あなた、それじゃあ赤字でしょう。橋を往復すると六オーロかかるのよ」
六人からは、この子は阿呆なのかという目をして見下ろしている気配がするので、とてもいたたまれない。
正直に言うべきかそれとも阿呆な子としてごまかすかを悩んでいるうちに、あっという間にリリオスの南門へと着いてしまい、流れで個人カードを提出した私に門番が『管理者かよ!』っと叫んだことでモロバレしてしまった。
阿呆な子のフリをしなくてよかったと思いつつも、なぜか一緒にハンターギルドまで行くことになってしまった。
「こんなはずではなかった!」
心の中で言うべきことばを、うっかりと口から出してしまうアリなのであった。