3月 救済
3月1日
人は本当に嬉しい時、目から涙をこぼすんだ。
町は人であふれていた。誰もスマホを手にしていなかった。誰も英雄症候群をしていない。俺たちは当たり前を取り戻した。
親父も母さんも、今までと同じ生活をしている。2月は全て夢だったんだ。埃の溜まった部屋も、どこかへ行った俺のスマホも全然気にならない。
久しぶりに食べた手料理は、号泣するくらいにおいしかった。
3月2日
学校へ行った。大屋から遅刻だと叱られた。それだけのことがこんなに嬉しいなんて。きれいに埋まったクラスメイト。英雄症候群に脅かされていたことが嘘のように、当たり前を謳歌している。
ノートを広げて、大屋の授業を受けるのも、本当に久しぶりだ。
3月3日
佐藤と話をした。初めて知ったが、佐藤は、警察官になりたいらしい。どうしてかと聞くと、誰かを■■■職業につきたいからなんだと言う。
それを聞いて、他のやつらも夢を言ってきた。消防士、弁護士、医者……どれも素晴らしい職業だ。
俺、俺は……医者になりたい。それで、それで、それで――
なぜかはわからない。でもそれから先を俺は書くことができなかった。
3月4日
学校が終わって、家に帰ると、家はすっかりきれいになっていた。一日かけて母さんが掃除したらしい。
誰かのためになるっていいわねと、母さんが言っていた。
おいしい手料理を食べていると、親父が帰ってきた。帰り際、電車で席を譲ったらしい。
いいこと、だ。
3月5日
2月はきっと夢だったんだろう。みんな昔より優しくなった気がする。学校へ行く途中、たくさんの人が外に出て、いいことをしていた。ごみを拾ったり、重い物を持ってあげたり。髪を染めるのがブームなんだろうか。赤、青、緑。どぎつい髪色をした人も多い。そうした人をみんな率先して助けているように見える。
学校に着いて、佐藤に勉強を教えてあげた。気分がよかった。
だけど、人を■■■たび、ざらりとしたものが脳を撫でる。これはなんだろう。俺はいいことをしているはずなのに。何も間違ってはいないのに。
致命的に、何かが違う。大事なことを、見落としている。
気持ち悪い。
3月6日
今のまま学力を伸ばしていけば、医学部に入れるだろうと、大屋に言われた。嬉しいはずなのに、その嬉しさに浸れない。
どうしても、今の生活に違和感を覚えてしまう。
3月7日
親父が近くの動物園に連れていってくれた。動物園に行くなんて、何年ぶりだろうか。
珍しい動物がたくさんいる。
家に帰った後、子どもの頃に買ってもらった動物図鑑を開いてみた。図鑑には載っていない動物が、動物園にはたくさんいたらしい。
3月8日
親父から金をもらって、近くの水族館へ行った。いたのはこれまた珍しい魚たち。紫色をしていたり、空中を五分くらい飛び続ける魚だったり。こんな魚がいるなんて初めて知った。
3月9日
人を■■■ことは変わらない。でも道行く人の顔から、少しずつ笑顔が失われているのを強く感じる。気づき始めているんだ。人は、もっと強い刺激を求めるんだって。だって彼らは、強い刺激を知っているんだから。
一度気づいてしまえばだれにでもわかる。俺たちは今、とても危うい均衡の上に立っている。
3月10日
母さんも、親父も、表情が晴れない。足りないものを探しているような、そんな感じ。
何もかもが変わってしまった。あれに呼ばれる前と後では、父さんも、母さんも、別物。人の皮をかぶってできた別のナニカだ。
学校に行くと、佐藤がずっとイライラしていた。
3月11日
車に轢かれそうになった子どもを助けた老人のニュースが流れた。山辺の顔が頭に浮かんだ。母さんと親父は、食い入るようにして、このニュースを見ていた。テレビの向こう側のアナウンサーたちも同じ。
均衡を保っていた最後の糸が切れた。
3月12日
朝、俺は人の目を避けるように、通学路を歩いていた。昨日まであれほど苛ついていた人たちがすっきりとした顔をしていた。そのくせ、目は獲物を狙う爬虫類みたいに、ぎょろぎょろと動いている。
サラリーマンが、通りがかった相手の足を引っかけたのを見た。当然、相手は転ぶ。すると、足を引っかけたサラリーマンは、驚いた顔をして、転んだ相手に手を差し伸べた。
■■■するための、簡単な理屈だった。俺は急いで家に逃げ帰った。
3月15日
12日以来、外には出ていない。父も母も、俺に家から出ようと言い続けていた。だけど、俺を出さないでくれ。俺を■■■と思って、と言ったら、すぐに静かになった。
部屋にあるニュースを見ていると、毎日どれだけの人が人■■をしたか報道されていた。どうやって数えているんだろう。3月始めは横ばいだった件数はここ数日跳ね上がっている。
3月21日
母が作る食事は、一度はものすごく豪華だった。でも最近また質素なものに変わってきた。食材がないのか、それとも、別のことに精を出しているのか。
人■■の数は増え続けている。内容も転んだ人を助ける、落とし物を拾うみたいな簡単なものから、命を、命に関わることになっていった。
どうやって、人の命を■■■いるのか。数が多すぎるのを見れば、わかりきったことだ。
家から出たくない。出たら危険だ。何をされるか分かったものではない。そのはずなのに、人々は家の外に出ている。
3月25日
家の外では争い合う物音が聞こえてくる。
3月26日
人を■■■ってなんなんだろう。俺にはわからない。
3月27日
父と母が死んでいた。部屋から出て、リビングに降りたら、死んでいた。
腹から血を流して、目に涙を浮かべていた。俺が気づいた時は、まだ父に息があったから、父の最期の言葉を聞くことができた。
■■■■、人を■■■■と、父は言って死んだ。死んだ父は、光に包まれて消えた。後には血も肉も、何も残っていない。
違うだろ。■■■■じゃなくて、ごめんなさい、だろ。ばか。
3月28日
町を出歩くことにした。俺を守ってくれる父と母は死んだ。死んだのだから。道には汚れはなく、ごみのひとつ落ちていなかった。よくできた作り物の世界のようだ。見知らぬ人がたくさんいる。髪色、肌、どれも日本人離れしている。試しに話しかけると、俺が住んでいる市の名前を答えてくれた。何度聞いても同じ言葉。これじゃまるで。
店に行くと初めて見る果物や肉が売ってあった。お金も円じゃない。
笑えてくる。家を出てから帰るまで、日本人は誰一人として見なかった。
3月29日
日本人を見た。その中に佐藤もいた。すぐに隠れて様子を見た。あいつらは、血走った目で周りを見回すと、近くにいたピンク色の髪の女を殴り飛ばした。顔がぼこぼこになるまで殴り続けた。
それから佐藤達は信じられないようなことを口走った。
大丈夫かい。俺たちが■■■あげる。
ピンクの髪の女は、平坦な声で、ありがとうございますと答えた。言葉を聞いて、佐藤達は、女の手当てを始めた。手当が終わったらまた殴る、蹴る。そして手当をして、また……
何度も繰り返して、女は死んだ。苦しみなんてひとつもないような顔で死んだ。死んで、光に包まれて消えた。俺は逃げた。見つかったら殺される。
なんだアレ。
3月30日
ニュースを眺める。死者数の数は、異様な数だった。一億二千万人。日本はもう終わっているんじゃないか?
空を眺める。幾何学模様の入った緑色の空。俺の目にはそう見える。でも町にいるNPCに聞いたら、空は青色だって答える。夜なら黒。
おかしいのは、世界か、それとも俺か。決まっている。おかしいのは俺だ。この世界の中で、俺だけが正常で、だからこそ、おかしい。
おかしい俺だからこそ、できることはある。
3月31日
人を■■■ための簡単な方法。……いや、もう自分を誤魔化すのはやめよう。人を助けるための簡単な方法。それは自分で人を傷つけて、自分で助ける。救われるべき人を自分で作れば、救うのは簡単だ。マッチポンプみたいな話だ。
――俺が今いる世界は、俺が今までいた世界じゃない。この世界はすっかり反転してしまった。あるはずのないものが、あったものを飲み込んでしまった。
父と母は殺された。二人を殺した誰かが、問題なのではない。二人が死ぬ原因となったこの世界が問題で敵なのだ。
俺は人を助けるつもりはない。俺は、俺は世界を救うつもりだ。
3月はまだ続く。俺は。
3月32日
巨大な剣を手に取って、俺は今から部屋を出る。俺は世界を救う。全てを助ける。
俺は主人公。このゲームを現実に戻すため、行こう。この正常な世界を再びおかしなものにしよう。誰もが英雄になってしまったこの世界に。
あるべき姿を取り戻そう。英雄症候群に支配されたこの世界を、元の姿に取り戻そう。
そのためなら何でもやる。どれだけこの手が血で汚れても構わない。山辺見ていてくれ。俺はお前みたいにはなれないけど、お前みたいにみんなを助けるよ。
そう、これが、これこそが俺の、
英雄症候群
*
これ以降、日記に記載はありません。
3月40日に、本日記を書いた男子高校生は、職員によって終了処理されました。男子高校生を終了処理するために、化学兵器、生物兵器、核兵器などの手段がとられ、新型生物兵器で肉体を弱らせた後に、核兵器の直撃を浴びせることで処理されました。終了処理されるまで、男子高校生の手によって、多くの被害が出ました。
男子高校生の終了処理によって、本案件は収束しました。本案件において、男子高校生が何者だったのか、調査すべきではありません。
7月35日 ××研究員
これにて完結です。ここまで読んでくださった方はありがとうございました。
活動報告に短いですが、あとがきをのせておりますので、よろしければそちらもぜひ。
感想やポイントなどいただけると、今後のはげみになります。改めて、ありがとうございました。