恋人がドッペルゲンガー ~怪奇捜査探偵ホンドアウル~
「エマは、ドッペルゲンガーなんです」
ダニーは告げた。
場所は昼下がりのロンドン。テムズ川を望めるオープンカフェの一角だった。
丸いテーブルを挟み、彼の対面に座る、もうひとりの紳士然とした男は、
「どうして、そう思われるのですか?」
口元からティーカップを離して、値踏みするような視線とともに問いかけた。ごくり、と唾を飲み込む音をさせてからダニーは、
「そうとしか考えられないのです。彼女の、エマの様子がおかしいんです。今までは頻繁に電話やメールをくれていたのに、最近は全く連絡を寄越しません。それに、先日町で偶然彼女に出会ったのですが、そのときのエマの顔……恐ろしい顔でした。穏和なエマが、あんな表情をするなんて考えられません。まるで……敵意がこもったような……」
「そのとき、エマさんとは何か会話をされましたか?」
「いえ、僕は怖くなってすぐに逃げましたから」
「ふーむ……」
「ホンドアウル卿は、この手の怪異にお詳しく、そういった現象を引き起こす魔物の退治も生業にされていると聞きました。僕も色々な怪異現象や魔物のことを調べて、エマがドッペルゲンガーになってしまったんじゃないかと思い、こうして相談に伺ったのです。どうか助けて下さい」
ダニーと対話している男、ホンドアウル卿は、小さな丸眼鏡の向こうで細い目をさらに絞ると、
「確かに、ドッペルゲンガーという魔物は、これと目を付けた人間そっくりの姿になり、その人物を殺害して入れ替わるという習性を持っています。ドッペルゲンガーの擬態は完璧で、人間としての完全な体組織を備え、見た目はもちろん、過去に負った傷や持病、恐ろしいことにDNA情報さえも完全に複製してしまいます。それだけではありません。やつらが行う複製は外見だけに留まらず、その記憶にまで及びます。これは脳のシナプスの状態までもが完全にコピーされることにより、記憶という目に見えないものまでを、そっくりそのまま引き継ぐためだと思われています」
「それは、つまり……」
「はい。物理的に本人とドッペルゲンガーを区別することは不可能だと言われています。ただ、ドッペルゲンガーと本人には、たったひとつだけ決定的な違いがあります。それが……性格です。ドッペルゲンガーは、どういうわけだか、ターゲットとした人物とそっくり正反対の性格になるといいます」
「まさにだ。彼女、エマは穏和でやさしい性格だったんです。決して、あんな恐ろしい顔を見せるような人間じゃなかった」
「ましてや、恋人であるあなたに対して、ですか」
それを聞くと、ダニーは二、三度、こくこくと頷いて、
「もしかしたら、やつは、自分がドッペルゲンガーだということに気付いた僕をも殺害しようとしているのかもしれない……」
「分かりました。調査してみましょう」ホンドアウル卿は、紅茶を飲み干してカップをソーサーに置くと、「ただ、これだけは覚悟しておいて下さい。ドッペルゲンガーの目的は、対象人物を殺害して入れ替わることです。あなたがおっしゃるように、今現在のエマさんがドッペルゲンガーだとすると、入れ替わりはすでに成されているということになります。ということは、本物のエマさんは、もう……」
顔を伏せたまま、ダニーは膝の上で拳を握りしめた。
数日後、同じカフェの同じ席にダニーは座っていた。ホンドアウル卿から、報告することがある、と呼び出されたのだった。そのホンドアウル卿は、まだ姿を見せていない。
店内で購入したコーヒーに手を付けないまま、陰鬱な表情で雄大なテムズ川の流れや、通りを行く人々に目をやっていたダニーだったが、ある一瞬に視線を止めた。その目は雑踏の向こうの一点に突き刺されている。そこには、ベージュのワンピースを着て佇む、ひとりの女性の姿があった。
「……エマ?」
ダニーが呟いた。震える声で。
ワンピースの女性の目は、ダニーが彼女を発見する前から、ずっと彼に向けられていた。いつ気付いてくれるのか、待っていたかのように。女性の顔が歪んだ。強い敵意、いや、それを越えた殺意を宿したような鬼気迫る表情だった。女性の足が一歩、ダニーに向かって踏み出された。
椅子を鳴らして立ち上がったダニーは、脱兎の如く駆けだした。振り返る。ワンピースを着た女性の――彼がよく知るエマの――姿は見えない。雑踏に紛れてしまっているだけかもしれない。ダニーは自宅マンションを目指して、ひたすらに走った。
エレベーターを待つのももどかしいといったように、ダニーは階段を駆け上がって五階に位置する自室の前に辿り着いた。震える手でキーケースを取りだしてドアを解錠する。室内に駆け込み、後ろ手に施錠をすると、その場にへたれ込んで大きく息を吐き出した。
「ひゃっ!」
鳴らされた呼び鈴の音に、ダニーは悲鳴を上げて飛び跳ねた。ドアを振り向く。もう一度呼び鈴が鳴る。今度は声は漏らさずに、体だけを震わせた。音を立てないよう、ゆっくりと後ずさりながらドアから離れる。
「御免下さい。いらっしゃいませんか」
ドアの向こうから声がかけられた。男の声だった。
「ホンドアウルです」
恐る恐るドアに近づき、ドアスコープを覗くと、小さな丸眼鏡をかけ、細身のスーツを着こなした長身の男、ホンドアウル卿の姿が見えた。
「待ち合わせの喫茶店にいらっしゃらなかったもので、ご自宅に伺いました」
玄関の敷居越しに、ダニーとホンドアウル卿は向かい合った。
「ホンドアウル卿……」ダニーは、安堵の中にも恐怖を入り混ぜた表情で、「彼女が……エマが……」
「それについて、ご報告差し上げることがあります。中でお話させてもらっても?」
ホンドアウル卿はダニーの肩越しに部屋を覗き込む。
「ここでですか?」
ダニーは当惑したような顔を見せた。
「ええ。あの喫茶店に戻るのも馬鹿馬鹿しいですし。それとも、何か問題でも?」
「いえ……散らかっているもので……どうぞ」
ダニーが答えると、ホンドアウル卿は敷居を跨いだ。
「綺麗にされているじゃないですか」
通されたリビングを見回して、ホンドアウル卿は言った。
「で」ダニーはソファに座るよう促して、「報告というのは? やはり、エマはドッペルゲンガーだったのですか?」
「それなのですがね」
ホンドアウル卿は、浅くソファに腰をかけ、両膝の上に肘を置いて手を組んだ。自然、前屈みの体勢になる。
「何ですか?」
対面に座するダニーは、それに気圧されるように若干身を引いた。
「ダニーさん、あなた、どうして今のエマさんがドッペルゲンガーだと思ったのです?」
「どうしてって……それは、最初に会ったときにも話したように、彼女の態度が変わってしまったもので……」
「それで、即、ドッペルゲンガー、という考えに行き着きますかね」
「どういうことですか?」
「なるほど、恋人が突然、連絡を一切くれなくなった。偶然顔を合わせても、以前はやさしかったのに、敵意を持たれるような顔をされるようになった」
「そうです、だから――」
「ダニーさん、あなた、私のところに来る前に、怪異や魔物について色々と調べた、とおっしゃいましたね」
「ええ、そうです」
「その結果、恋人がドッペルゲンガーになってしまったと結論づけた」
「それが何か?」
「おかしいじゃないですか」
「何がです?」
「恋人の様子が豹変してしまった。それが怪異の仕業だったとして、魔物と入れ替わってしまったと思うのは、発想の飛躍が過ぎるのではありませんか?」
「どうして?」
「そういった場合、普通はまず、こう考えるのが自然なのではありませんか?『恋人に何かが取り憑いている』もしくは、『何者かに操られている』と。実際、そういった悪さをする魔物はたくさんいます。それも、ドッペルゲンガーと比較して、はるかに数は多い。それに、こちらのほうがドッペルゲンガーよりも、まだ救いがありますよね。取り憑いている、もしくは操っている魔物を退治すれば、恋人は元に戻るのですから。翻って、ドッペルゲンガーに狙われるというのは最悪です。なにせ、彼らが目的を達するためには、対象者の殺害は絶対条件なのですから」
ダニーは何も言わず、ホンドアウル卿の細く長い指が組まれた両手に視線を落としていた。
「怪異のせいで、人が以前とは違う〈何か〉になってしまう、という現象には、今言った『憑依』『操り』『入れ替わり』の他に、もうひとつのパターンがあります。あなたも怪異について調査したそうですから、ご存じでしょう、それは『蘇り』です。すなわち、死んだはずの人間が何らかの理由で生き返ってしまうというものです。当然、完全な蘇りなどという健全なものではありません。怪異なのですから。その多くは、死体が再び動き出し、現世に恨みを持つ〈死に損ない〉と化してしまうという、おぞましいものです。ダニーさん、あなたはこちらの可能性も考慮に入れなかった。どうしてでしょう。どうしてあなたは、恋人の様子が豹変したことを、ドッペルゲンガーの仕業だと結論づけたのでしょう」
「……それは」
ダニーは言い淀む。視線は未だ伏せられたままだった。ホンドアウル卿は続ける。
「知っていたから、ですね。あなたは、エマさんが何者かに取り憑かれたわけでも、操られているわけでもないと知っていた。さらには、エマさんがすでに亡くなっていて、その死体が蘇ったわけでもないということも承知済みだった。今現在、エマさんが存在していることを説明づけるためには、ドッペルゲンガーという怪異以外に可能性はありえないことに考えが収斂したのですね。それは、すなわちどういうことか……」ホンドアウル卿は一度言葉を止めて、「ダニーさん、あなたは、エマさんがすでに死んでいることを知っている。さらには、その死体のありかも知っている」
がばり、とダニーは顔を上げた。目が合うと、ホンドアウル卿は僅かに笑みを浮かべて、
「いえ、正確には、エマさんを殺害して死体を保管している、ですか」
静かに言うと、ダイニングキッチンへ目を向けた。男のひとり暮らしには不釣り合いな、真新しい大きな冷蔵庫が見えた。
「お前――」
鬼のような形相でダニーが立ち上がった直後、呼び鈴が鳴った。「――!」ダニーの表情はたちまちに萎む。
「ま、まさか……」
玄関のほうをダニーが見ると、再び呼び鈴の音がリビングにこだまする。
「出なくてよいのですか?」
ホンドアウル卿は涼しい顔で、立ち尽くしているダニーを見上げる。
「お、おい! エマだ! ドッペルゲンガーが来たんだ! 早く退治しろ!」
「まだ、そうと決まったわけでは……」
「何を言って――」
今度は、呼び鈴の音ではなく、ガチャリという金属音が聞こえた。ドアの鍵が解錠される音だった。
「か、鍵は掛けたのに……」
ダニーの表情が恐怖の色を見せた。
こつ、こつと床を踏む足音が徐々に近づいてくる。そして、
「ひゃうぁ!」
後ずさりしたダニーは、ソファに足を取られて倒れ込んだ。リビングに現れたのは、ベージュのワンピースを着た女性だった。しっかりと見開かれた双眸で、床に転がるダニーを見下ろしている。
「お、おい!」ダニーは、悠然とソファに座ったままのホンドアウル卿を見て、「そいつを殺せ! 何をやってるんだ!」
「私が手に掛けるのは、魔物だけです」
ホンドアウル卿は冷静な声で返した。
「だから――」
「彼女は」とホンドアウル卿は、そばに立つワンピースの女性に手を向けて、「本物のエマさんです。鍵を開けられたのも、あなたから預かっていた合鍵を使用しただけのことです」
「……えっ?」
ダニーは呆然とした顔で、自分を見下ろす女性、エマを見てから、
「ど、どういうことなんだ?」
ホンドアウル卿に目を向けた。
「経緯はこうです。確かに、エマさんはドッペルゲンガーの標的にされていました。あなたがエマさんの殺害を実行に移した夜、そのドッペルゲンガーもまた、エマさんを亡き者にして入れ替わろうと、彼女を狙っていたのですよ。残業で帰りが遅くなり、人通りのない夜のオフィス街をひとりで歩いているという状況は、殺害するのに格好の舞台と映ったのでしょうね。魔物にも、人間の殺人犯にとっても」
「……ま、まさか」
「ええ、そのまさかです」と、ここでホンドアウル卿はダニーの目をじっと見つめて、「あなたが殺したのは、ドッペルゲンガーのほうだったのですよ」
「なっ……」
「ドッペルゲンガーにしても、自分が入れ替わろうと狙っている対象者を、自分以外に殺そうとしている人間がいて、その人間に自分が本物と間違われて殺されてしまうことになるとは、夢にも思わなかったでしょうね」
「私……」とエマが口を開き、「あの夜、歩いていたら物音を聞いて、何だろうって行ってみたの。そうしたら……そこで見てしまったの。あなたが、私を殺して、その死体を運び去る一部始終を。あんまりびっくりしたものだから、声もかけられないでいて。あなた、あれ以来、全然私に連絡してくれなくなったわよね。でも正直、私、あなたのことが怖くなったから、連絡がなくなって、ほっとしていたの。町で偶然会ったときも、私、すぐに逃げようとしたけれど、足がすくんで動けなかった。でも、あなたのほうから先に逃げだしたから……」
エマの言葉が途切れると、ホンドアウル卿が、
「ダニーさん、あなたが町で見た彼女の表情は、殺意や敵意を孕んだものではなく、恐怖のそれだったのですよ。あなたのほうに彼女を殺したという負い目があるため、そんなふうに見えてしまったのでしょうね。
聞きましたよ、ダニーさん、あなた、近々こちらのエマさんと婚約される予定だそうじゃないですか。彼女のお腹には、あなたとの愛の結晶がすでに宿っているそうですね。そこまで愛した女性の殺害を目論み、相手が違えど実行に至ったからには、相当な理由があるのでしょうね。あなたが凶行に及んだ夜は、彼女がご自身の懐妊をあなたに告げた数日後だとか。そういえば最近、務めている会社主催のパーティで出会った、さる貴族のご令嬢と親しくなられたそうですが、今回のこととどういう関係があるのでしょうかね」
「ちっ……違うんだ! エマ! ぼ、僕は、君のことを今でも……そ、そうだ、あの夜だって、僕は君を狙う魔物を見つけたから殺したんだ! 君を守ったんだよ! 僕は!」
「結果的にそうなったことは、まあ、何かの因果なのでしょうかね」
ホンドアウル卿は笑みを浮かべると、エマを見て、
「どうですか、エマさん。あなたさえよければ、このまま彼とやり直すという選択肢もありますが……」
ダニーも期待を込めるような目でエマを見上げた。が、エマは小さく首を横に振った。彼女の表情からは、もう、恨みも敵意も感じられない。そこに湛えられていたのは、侮蔑と諦めだった。
「答えは出ましたね」
ホンドアウル卿は立ち上がり、ダニーに向いた。
「な、何だ? 僕を警察に突き出すのか? 魔物を殺して罪になるのか? そもそも、ドッペルゲンガーを殺したなんて話、警察が相手にするものか!」
「ええ、あなたを裁く法はありません。ですが、あなたがエマさんの殺害を実行に移したということは紛れもない事実です」
「僕が殺したのはドッペルゲンガーだった!」
「それは関係ありません。〈殺意を持ってやった〉という事実は動かせません」
「じゃ、じゃあ、どうすると――」
そのとき、また呼び鈴が鳴った。
数日後、エマは休日に女友達数人と、テムズ川の見えるオープンカフェで談笑していた。
「エマの彼氏、最近雰囲気変わったわよね?」
「そう? そんなことないわよ」
エマはそう答えたが、口調には肯定するような含みがあった。
「いえ、絶対変わったわ。何て言うか、前はちょっと険がある怖い雰囲気があったけれど、この前会ったら、随分やさしそうな感じだったじゃない。まるで、性格が正反対になったみたいに……」