4.見果てぬ世界 (その5)
エリザの沈痛な声に引きずられるかのように、ジェイたちの気持ちも暗くなりかけたが、それを好奇心が圧倒的に上回った。好奇心の対象が、ヴァニッシュの育ての親であり、ジェイの師匠であるからには、それも当然のことだろう。特にヴァニッシュにとっては、親代わりに自身を育ててくれた相手のことをほとんど何も知らないという特殊な事情もある。
「フレアがエリザさんたちの敵っていうのは、どういうことなんですか? それが、実働部隊に命を狙われていた理由なんですか!?」
エリザは申し訳なさそうな視線をヴァニッシュに送る。
「ヴァニッシュ、申し訳ないけど、これも私の権限では話すわけにはいかないの。エミリア様は十二人委員会の、ううん、私の敵になったということだけしか言えない」
ヴァニッシュは歯噛みした。厳選した質問をぶつけたつもりが、回答がこれでは熟慮した甲斐がなさすぎる。ヴァニッシュは先ほどまでよりも若干強い口調でエリザに詰め寄る。
「話せる範囲だけでもいいから、もう少し教えて! フレアはあなたにとっても大事な人なんでしょう? だって、あなたはずっと『エミリア様』って敬意を払っているもの」
エリザは苦笑していた。
「そうね・・・。でも、私が『エミリア様』と呼んでいるのは、長年そう呼び続けていた癖みたいなものなの。私がどれくらいの期間あの方の秘書として仕えていたか、想像できる? たぶん、あなたが頭に思い浮かべた年数の10倍は超えていると思いますよ」
これにはジェイたちも驚いた。30年前のエミリア失踪時点で既に彼女の秘書を勤めていたとエリザが言ったことから、ジェイの偽の記憶の中の23歳というのは真っ赤な嘘だということは想像できていた。だが、エリザの口振りでは、彼女はジェイたちが想像しているよりもはるかに齢を重ねていることになる。
もっとも、それは当然と言ってもいいのかもしれない。エリザはこの2000階層を超える階層社会全体を統べる元老院の、その中でも圧倒的な権力を持つ十二人委員会の一員なのである。老化防止処置、若返り処置など、あらゆる手段を使って延命しているのは、彼女たちの生への願望というだけでなく、義務であるとすら言える。この歪んだ世界が曲がりなりにも発展を続けることができたのは、階層政府の強力な推進力があったからに他ならない。であればこそ、その最高指導者たちは、この世界を前へと導き続ける義務があるのだ。
エリザは苦笑を浮かべたまま、淡々と続ける。
「エミリア様が十二人委員会に敵対している理由までは分かりません。いえ、推測することはできますが、明確な根拠がある話でもありませんし、ここで話す意味はないでしょう。ともかく、エミリア様の敵対行動についての詳細を話すことはできません。ごめんなさいね」
「そんな・・・」
ヴァニッシュは悔しげな表情を隠すこともしなかった。ジェイやジュージューの質問に対する返答では、いくつか重要な情報を得ることができた。しかし、ヴァニッシュのそれに対する返答は、何ら有用な情報をもたらさなかったからである。貴重な質問の機会が空振りしたことに、ヴァニッシュは落胆していた。
ヴァニッシュの表情を見たエリザが多少哀れに感じたのか、いきなり視線を上空に外し、誰に語るでもなく独り言のように呟く。
「エミリア様は今どこで何をしていらっしゃるんでしょうね。先日の実働部隊の強襲も退けられたようですし、その後の行方は分かりません。ですが、エミリア様の弟子が二人、育ての子が一人いるこの場には、興味を持たれても不思議じゃないでしょうね」
「えっ?」
「エミリア先生は実働部隊から逃げおおせたのか? いや、それよりも、やっぱりこの刑罰の目的はエミリア先生をおびき出すためのものなのか!?」
エリザは肩をすくめた。
「さあ? 想像するのはあなたたちの自由です。私はその想像に一々答える義務はありませんから。あとは、ジェイご自慢の推理力で、真実を解き明かしてみればよろしいでしょう」
ジェイは鼻を鳴らした。
エミリアが実働部隊の強襲から逃げ延びたことが知れただけでも、充分だった。もう一度エミリアと再会し、事実を確認することができる機会は残されているからだ。
いや、ジェイにはエミリアと再会するという、予感めいたものすらあった。この後も続くジェイとヴァニッシュの戦いの中で、そのどこかで再会できるだろうという予感が。
そのとき、ジェイはふと疑問を覚えた。
「エリザ、そういえば、今後の刑の執行のことでひとつ確認させてもらいたい。今回の刑務官はお前が派遣されたわけだが、今後も同様なのか?」
エリザはもう一度肩をすくめた。
「確定してはいませんが、おそらく次回以降は私ではなく、通常の刑務官が派遣されることでしょう。この刑罰の難しいところは、最初の一回目だけですから。もう既に刑罰は開始されています。今後、あなたが刺客に倒されれば当然ヴァニッシュの負けですが、刺客以外に殺された場合や、最悪の話ではジェイが自殺した場合なども、当然ヴァニッシュの負けです。今後のジャッジは非常にシンプルですから、わざわざ私が出張するほどのことでもないでしょう。私も多忙な身ですし」
「なるほどな・・・。ということは?」
「ええ、私とあなたが再会することは、もう二度とないでしょう」
エリザは淡々と、何の感情も込めず返答した。
エリザにとってはジェイとの記憶など、ここ1週間程度の話であり、彼に対して特に何の感情も持ち合わせていないのだろう。
だが、ジェイにとってはそうもいかない。例え偽の記憶とはいえ、3年間の思い出がある。そして、この1週間の本物の記憶がある。エリザの正体が十二人委員会だったと判明した今でも、ジェイはエリザに対して悪感情を持つことはなかった。
「さて」
エリザは優雅な身のこなしで、ソファから立ち上がった。それに連られて、ジェイたちも立ち上がった。
「そろそろ時間です。名残惜しいところですが、私も本来の第十二席の職務に帰るべきでしょう。ジェイの秘書『エリザ』役はここで終了です」
エリザはジェイに微笑みかけた。
「では、この時点を以って、私は第十二席エリザベータ・デル・ファリアに戻ります。それでは、さらばです」
エリザはそのまま踵を返し、この場から立ち去ろうとしていた。それが今生の別れになるかもしれないと知りながら。
ジェイは慌てて手を伸ばしながら呼び止める。
「いや、ちょっと待て! エリザ! まだ聞きたいことはたくさんある!」
エリザの肩に伸ばそうとしたジェイの手は、一瞬にしてそのままの姿勢で固まってしまった。それどころか、ヴァニッシュも含めたジェイたち三人は、見えない力によって無理やり跪かされることになった。
それはエリザの『強制』だった。
ジェイはヴァニッシュの『極衣』の一部を、まだ頭に巻きつけたままだった。ルクレツィアが放った『暗示』は、それに邪魔されてまったく効果を発揮しなかった。
しかし、エリザにとっては、特に障害になるものではなかったらしい。声を上げるどころか、身振りひとつ見せることなく、ジェイを『強制』によって跪かせてしまった。
ジェイに比べ強大な感応力を持つはずのヴァニッシュですら同様だった。エリザの感応力の強さは、十二人委員会に相応しい強大さだった。
「無礼な。戯れの時間は終了しました。本来はお前たちなど、私の声を聞くことすら許されぬ身分の者です。控えなさい」
エリザのその声は、先ほどまでとは打って変わり、親しさなど微塵もない鋭く尖った氷のようなものだった。
ジェイは無念の思いで跪きながら、エリザの変貌にゾッとしていた。
エリザの言葉によれば、先ほどまでの秘書役はあくまでも仮面を被っていたということらしい。であれば、今のこの姿こそがエリザの本来のものだということになる。
だが、ジェイにはどうしても信じられなかった。偽の記憶の中のエリザはともかく、彼と実際に過ごしたわずかな期間、エリザは実に楽しそうだった。先ほどは冗談めいた口調で済ませたコーヒーを淹れることへの文句ですら、最後には楽しそうに、しかも実に上手く淹れることができるようになっていた。
ジェイはエリザの笑顔が好きだった。
ろくな事がないこの世界だが、事務所でエリザとコーヒーを飲みながら他愛もない会話をし、エリザの笑顔を眺めるのが好きだった。
そんな時に、心の底から楽しそうに笑うエリザが好きだった。
だからこそ、エリザの正体が明らかになった今でさえ、ジェイにはエリザの変貌が信じられなかった。
その時、ジェイの脳裏にひとつの考えが浮かんだ。
「分かった・・・。いや、分かりました。ですが、最後に戯言をひとつ聞き届けてもらえませんか?」
エリザは背を向けたまま歩き出した。ジェイの言葉は届いているはずだが、特に興味はないと言いたげに、何の反応も見せずに歩き始めた。
「俺とルクレツィアの戦いで、ひとつ不思議に思うことがありました。ファリア殿はどう感じましたか?」
このジェイの言葉で、エリザの足がピタリと止まった。ジェイはその姿を見て、彼女はジェイの言葉に興味を持ったか、もしくはジェイの疑問を感づいているのか、どちらかだと判断した。そこで、このまま畳み掛けるべく、多少早口になりながらエリザの背に話しかけた。
「自慢じゃありませんが、俺の感応力は精密さなどかけらもありません。専用カップの扱いなど、秘書の『エリザ』にいつも小言を言われていたくらいです。それなのに・・・」
ジェイは効果を出すべく、勿体つけるかのように一呼吸置いた。
「ルクレツィアとの最後の戦いの時、俺のほとんど一か八かの作戦が上手くいきました」
「一か八かって?」
ヴァニッシュが跪いたまま、ジェイに疑問を投げかけた。ジェイが武器を捨ててからの、ルクレツィアの心につけこんで大逆転した作戦は、ヴァニッシュにとって感嘆の域に達していた。
その作戦は確かに一か八かの要素が多かったとヴァニッシュも思うが、それをなぜこのタイミングでエリザに話そうとしているのか、見当もつかない。
「ああ。俺の最後の作戦は、ジュージューが作ってくれた隙に、俺がルクレツィアの『極衣』の自動防御の弱点を突き、空から彼女の背後を取るというものだった。そして、反撃を許さないように間髪入れずに彼女の感脳に、俺の死体のイメージを送った。あとは・・・これは黙っているつもりだったんだがな。ヴァニッシュにも同時にイメージを送っていたんだ。アリアとの別れの場面を思い出すようにな」
ヴァニッシュは驚いた。確かに、あの時脳裏にアリアとの別れの場面が思い浮かんできた。もちろん、その場面自体をジェイが見たことはない。おそらく、その記憶を想起させるよう、きっかけを与えたに過ぎない。
だが、その記憶があってこそ、ヴァニッシュはルクレツィアを救うために、生き延びる覚悟を固めたのだ。
ジェイの周到な行動に、ヴァニッシュは舌を巻いた。
「というわけです。どう思われましたか? ファリア殿?」
エリザは黙ったまま背を向けていた。
「ジェイの旦那、追い詰められた状況で、よくそこまでできたな・・・」
実際にその場にいなかったジュージューは、ジェイの行動を見てはいない。今初めてジェイの口から聞き、驚きを隠せないでいた。
「ジュージューがそう思うのも無理はないさ。俺自身、そう思うからな」
ジェイはもう一度エリザの背中に向き直り、もう一度問いかける。
「ファリア殿、あの追い詰められた場面で、空を飛ぶ、着地と同時にイメージを二人に送る、というのは、俺にとって難易度の高さは尋常ではないと思います。それなのに、難なく成功した。俺には出来すぎなことだと思いませんか? まるで、俺が子供のころ階層社会に連れて来られた時に、『柱』の検問で『原初弾』の持ち込みが見逃された時のように。あの時は係官に『暗示』が掛けられたんでしょうが、俺にそんな真似が出来るはずもない。あれは、エミリア先生の仕業じゃなかったのかと、今の俺はそう考えています。では、今回はどうでしょう?」
「・・・何が言いたい? 今、エミリア様がこの近辺にいて、お前を手助けしたということか?」
エリザがようやく反応を見せた。その声には何の感情も込められてはいなかったが、ジェイにはエリザの困惑を感じ取ることが出来たように思えた。
「もちろん、その可能性はあります。ですが、俺が言いたいのは別の人物のことです。その人物は、かつて俺の秘書をやっており、いつも感応力操作が雑な俺の手助けをしてくれていました。今回も、見るに見かねて、黙って手を貸してくれた、という推理はいかがでしょうか?」
エリザは振り向き、ジェイと目を合わせた。その目にも、何の感情も浮かんでいなかった。だが、ジェイにとってみれば、その反応だけで充分だった。
「お前が何を言っているか分からんな。だが、さっきも言ったとおり、何を想像するのもお前の自由だ。そして、私はそれに一々答えてやる義理もない。言いたいことはそれだけか?」
「いいえ。もうひとつだけあります」
ジェイはここで、全身の力を振り絞った。こんな、跪いたままでは、言いたいことも言えない。対等の立場で話すためには、こんな『強制』などに屈している場合ではなかった。
そして、全身に力を込めると同時に、自身の感脳にも働きかけた。ジェイが出せる感応力のすべてを全開にして、この忌々しい呪縛から解き放たれるために。
最初、ジェイの全身は強制された姿勢のまま、ピクリとも動かなかった。
だが、そのうち、足の指一本が何とか動かせることに気づいた。
次の瞬間には、もう一本。
ジェイの全身は縛鎖に全力で抗い、少しずつ自由を取り戻していった。
やがて、まだ完全な自由とはいかないまでも、ジェイは不恰好ながらにしっかりと自分の二本の足で立ち上がった。
ヴァニッシュとジュージューは驚きに目を見張った。二人は相変わらず跪いた姿勢を強いられたままだったからだ。
ジェイは震える足で何とか立ち上がり、エリザの目を正面から見据えた。
「ふん。これで、ようやく対等な目線で会話することができるな」
エリザは立ち上がったジェイに対して感嘆の視線を向けるでもなく、またもや何の感情も見せないまま肩をすくめた。
「さて、エリザベータ・デル・ファリア殿。俺はひとつ決めたよ。この刑罰を生き延びるのは当然として、俺はヴァニッシュと一緒に、一年間でこのくそったれな階層社会を全部登って行く。そして、最上階層、2894階層だっけか? そこまで必ず辿り着いて、勝手に退職した秘書を無理やりにでも連れ戻す!」
エリザが秘書役を辞してから初めて、驚きに目を見張った。
そして、その驚愕はヴァニッシュも同様だった。