4.狩りと罠
襲撃者は淡々とビルのシステムの乗っ取りを行っていた。ジャマーを使用していることは襲撃者にも感じられるが、この程度の出力では襲撃者にとって障害になるはずもなかった。
「俺程の感応力を持った人間などお目にかかったこともあるまい」
襲撃者はフードの奥で唇を歪めた。彼にとっては赤子の手をひねるよりも容易い仕事になりそうだ。あれほどの高額な依頼の標的とは思えない程だ。
先程のパラライザーの攻撃もそうだった。あの程度のパラライザーでは襲撃者が本来所属する階層の水鉄砲のほうがまだマシと言うべきだろう。
ビルのシステムもそうだ。最下層にしてはセキュリティが堅固であることは認めるが、それでも彼の圧倒的な感応力の前では紙でできた家のようなものだ。軽く吹けばそれだけでバラバラになる哀れなあばら家。
もっとも、力任せにシステムを制圧するわけにもいかない。標的たちが脱出できないよう各ロックの制御を行い、室内の様子を見て取れるよう映像ユニットなどの制御も行う必要がある。
それはピンセットで蟻をつまむが如きデリケートな作業だ。圧倒的な力であればある程、デリケートな力の使い方は難しくなる。その点だけは厄介だった。
しかし、全システムの機能を制御する必要はない。映像・音声ユニットなどは無数に配置されているため、全てを制御するのはほとんど不可能と言ってもいい。ビルの全部屋、全通路を見張ることができればそれでいい。それだけであれば50も制御すれば充分だろう。残りは全て非常待機モードにして、自分以外の者には再起動できないようにすればそれでいい。
ビル一棟丸々のシステムをハッキングするなど、なかなかできる体験ではない。
特に、映像・音声ユニットは階層政府直轄のユニットであるため、普通は一般人がどうこうできる代物ではない。はるか上階層からの刺客であるこの襲撃者であるからこそできる芸当といえる。
この最下層の平均レベルをはるかに超える感応力を持つからこそ、階層政府直轄であろうとなかろうと、システムやユニットに干渉できるのだった。
パラライザーによる最初の攻撃以降、標的たちからの反撃はなかった。
「拍子抜けだな」
苦々しげにつぶやく襲撃者は、まるで反撃を待ち望んでいるようにも見える。余りにも歯ごたえのない仕事は、プロとしての矜持を傷つけるものなのかもしれなかった。
システムの制圧は着々と進み、先程のパラライザーによる攻撃後5分足らずで標的者たちがいるフロア以外のシステムの制圧は完了した。
しかし、標的者たちのフロアのシステムは思ったより強固で、この最下層には似つかわしくないレベルのセキュリティ、システムの擬似感応力だと認めざるを得ない。
とはいえ、他のフロアの全隔壁を下ろし、厳重にロックした今、奴らに逃げ場はない。あとはゆっくりと料理するだけだ、と襲撃者は満足げに頷いた。
ーー
「各フロアのシステムは全て乗っ取られました。各フロアは10メートル単位で隔壁が下りている状態です。このフロアはまだ敵の手に落ちてはいませんが、時間の問題でしょう」
ジムは淡々と事実を告げていった。ジェイは脳裏に浮かんだ案を仔細に渡って検討する時間はなかった。最早やるしかない、と覚悟を決める。
敵に面した事務室を去り、エリザとヴァニッシュが避難している客間に急いで駆けつける。
二人はベッドに腰掛け、お互いの手を握り、不安げな表情を浮かべていた。しかし、ジェイが思っていたよりは二人ともしっかりしているように見える。この不幸な状況下でのささやかな吉兆かもしれないと、ジェイは少し気が軽くなった気がした。
ジェイはざっと状況を説明し、このビルから脱出し、逃亡すると告げた。
エリザは驚きに目を見張った。その表情は多くのことを訴えかけていたが、ジェイはエリザの質問に全て答える時間は無いと告げ、全員にキッチンスペースに集まるよう指示を出した。
エリザとヴァニッシュは青い顔をしながらも指示に素早く反応し、キッチンスペースに向けて駆けていった。裾の長いイブニングドレスを着ているヴァニッシュが軽快に走れるという事実にジェイは軽い驚きを覚えたが、その驚きはすぐさま消え、頭の中はこれか対処すべき様々な事柄で一杯になった。
ーー
襲撃者は繊細な感応力の操作により、最後に残されたフロアのシステムの制圧を順調に進めていった。
最早憐れな残骸と化している先程の事務室の制圧は完了し、このフロアの正確な間取り、システムの構成、ユニットの状況などの必要な情報を入手した。もっとも事務室は半壊状態でシステムも同様に半壊状態であったため、制圧というほどの手間もかからなかった。
続けて、各部屋の映像ユニットの制圧に取り掛かる。まずは標的たちがどこにいるのか確認しなければならない。
ふと、このビルごと吹き飛ばせればこんな苦労をしなくても済む、と襲撃者は埒もない考えを弄んだが、小さく嘆息し、映像ユニットの制圧作業に集中した。
ーー
ジェイはキッチンスペースに集まった面々をざっと見渡した。荷物や小物が散乱し狭いキッチンスペースだが、三人が並んで立つくらいのスペースは充分にある。指示を待つ二人に、ジェイはこれから脱出すると告げた。
キッチンスペースはビルの外側に面しておらず、ここから外に出ることはできないはずであり、エリザはなぜここに集められたのか不思議で仕方なかった。時間を無駄にはできないことは重々承知の上で、エリザはどうしても聞かなければならないことがある、と結論付けた。
そして、声が震えないようしっかりと気を落ち着けながら、質問を投げかけた。
「キッチンスペースからどうやって脱出するつもりなんですか?」
「今は詳しく説明している暇はない。ここには魔法の出口があるとだけ言っておく」
さらに口を開こうとするエリザを手で遮り、有無を言わさぬ口調で告げた。
「詳しいことは脱出の道すがら説明する。今はとにかく時間がない」
エリザは質問を飲み込んで、もう一つだけ質問ではなく確認のために口を開いた。
「脱出できるんですよね?」
「ああ。上手くいくはずだ」
ジェイの口調には確信めいたものがあるように感じたが、それは本当に確信によるものなのか、それともジェイ本人がそう信じたいだけなのか、エリザには判別できなかった。
ーー
襲撃者はさらに各部屋の映像ユニットを順調に制圧していった。
制圧が終わったユニットから順次作動させ、生贄の子ウサギたちを追い詰めるため、映像情報を次々とスクリーンに表示させた。スクリーンは襲撃者の目線の高さで身体の右側に浮かんでいた。
フロア入り口・・・人影なし。玄関口・・・人影なし。事務室兼書斎・・・人影なし。セミダブルベッドが配置された、おそらく寝室と思われる部屋・・・人影なし。小さなベッドのみ配置された部屋、おそらく客室か?・・・人影なし。廊下・・・人影なし。
襲撃者は漠然とした違和感を覚えた。
奴らの選択はおそらく「逃亡」となるはずだった。戦っても勝ち目がないのは先程の短い戦闘で充分思い知ったであろうことは想像に難くない。
では、なぜフロアの出入り口に近い、もしくは外部に面した部屋にいないのだ?何かがおかしいと襲撃者は直感した。
さらに、おそらく残された最後の部屋であろうキッチンスペースにも意表を突かれた。
先程入手した情報によれば、そこはただのキッチンスペースのはずである。ところが、この部屋のセキュリティは異常とも言えるほど堅固だった。これまで制圧した部屋のセキュリティが粘土でできた壁だとすると、キッチンスペースのそれは頑強なレンガ造りのものだと言える。
先程までは順調に進んでいた制圧作業も、キッチンスペースに取り掛かった途端に効率が下がった。
もちろん、襲撃者にとって制圧できないほど厄介な代物というわけではない。予想よりも若干時間がかかるという程度のものだが、それでも襲撃者は予定通り物事が運ばない苛立ちを覚えた。
キッチンスペースの制圧を急がなければ。襲撃者はさらに集中し、作業に取り掛かった。
ーー
ジェイが示した脱出方法は呆れるほど単純ではあるが、なるほどと思わせるものだった。確かにこれなら脱出は可能だろう、とエリザは判断した。しかし、問題は残っている。
「確かに、これなら脱出できそうです。ですが・・・追ってこられたらどうするんです?」
ジェイは苦虫を噛み潰したような表情を見せ、それが問題であることを暗にエリザに告げた。
「そうだ。追いかけてこられたら一巻のおしまいだ。脱出口を破壊してもいいが、それだけでは奴の脅威から逃げ切れるという保障にはならない」
「じゃあ?」
「ああ、ここで奴を撃退する。できればこの世からご退場いただく」
ジェイの表情は時間がないことを告げている。
どうやって?という疑問を問いかけそうになるのを必死で抑え、エリザは一つ頷いてジェイの案に乗る意思表示を行った。
ーー
襲撃者は程なく、キッチンスペースの映像ユニットを制圧した。
いた。
標的を含め、全部で三人いることが分かる。三人は部屋の真ん中のテーブルを囲んで何かを話し合っている。いや、男が残りの二人に何かを説明しているようだ。
襲撃者は音声ユニットの制圧が終わっていないことに歯噛みした。おそらく、何らかの作戦なり策のようなものを説明しているのだろうが、映像ユニットからだけでは話している内容までは分からない。
いや。
襲撃者は左手にはめたリストユニットに、先程の会話の映像の分析を命じた。システムによる読唇術だ。もちろん100%の精度ということはありえないが、それでも一定の精度での分析は可能だ。
10秒と経たないうちに分析完了という報告を受けた襲撃者は、早速その会話の内容をスクリーンに表示させた。
『・・・たら一巻のおしまいだ。脱出口を破壊してもいいが、それだけでは奴の脅威から逃げ切れるという保障にはならない。』
『じゃあ?』
すると、ここで不意に映像が途切れていた。襲撃者は戸惑いながら、リストユニットに状況の説明を求めた。
その答えは襲撃者を失望させるものだった。
『キッチンスペース内の全映像ユニットが破壊されました。』
ーー
「ジェイ、敵がトラップに引っかかったようです。キッチンスペース内の全映像・音声ユニットを先程破壊しました」
ジェイは頷き、あらかじめトラップを仕掛けておいたことを、神に感謝した。
いや、ジェイは無神論者であるから、神に感謝したというのは正確な表現ではない。神がいるとは信じていないが、それでも何かに感謝を捧げたい気分だった。脱出作戦を相手に知られては、もはや万に一つの脱出の可能性すら潰されてしまう。
トラップ自体は単純なものである。外部からのハッキングを検知した際には、キッチンスペース内の映像・音声ユニットを破壊するよう建物の構造材内にあらかじめユニット破壊用ユニットを埋め込んでいただけである。もっとも、ユニット破壊用ユニット自体は違法な品であり、またそれなりに値が張ることからキッチンスペースのみに配置している。
通常、悪意を持ってハッキングするような輩は、映像・音声ユニット、遮蔽スクリーン等の防御用のユニット、パラライザー等の攻撃用のユニットを優先して制圧するものだとジェイは理解していた。
まさか、先にユニット破壊用ユニットが存在することを想定して、そちらからハッキングするような奴は多くはいない。少なくとも、この襲撃者はハッキングが本職だというわけではなさそうだとジェイは判断した。
それにしても、とジェイは改めて思った。
なぜ襲撃者はシステムのハッキングなど回りくどい手段を選んでいるのだろうか?単純にヴァニッシュを亡き者にしたいなら、先程の事務室で小型の爆弾一つでも放り込んでやればフロアごと焼き尽くして目的を達していたことだろう。
襲撃者の目的は謎ではあるが、その詰めの甘さを積極的に利用するしかない。
ーー
「脱出だと?」
襲撃者は改めて映像を確認し、耳を疑った。もう一度キッチンスペースの間取り、その他の情報を再確認する。
せいぜい15平方メートル程度の狭い部屋だ。フロアの奥の方に位置し、ビル外部に面していない。もちろん、壁、床、天井に穴などもない。
ふと、感応力で壁なり床などに穴を開ける可能性も考えたが、すぐさま却下した。
この時代、建物の構造材や外の地面(正確には地面を模した一種の繊維構造だが)の表面はある程度感応力で操作できるようになっている。先程ジェイが倒れたヴァニッシュを助けるために、ドアの構造を柔らかくして衝撃を吸収させたように。襲撃者も建物の構造材が操作できることはもちろん知っている。むしろ、この世界に住む人間では常識と言ってもいい。
しかし、全構造材を自由に操作できるわけではない。そんなことができれば、愚にもつかない夫婦喧嘩の末、建物の壁に大穴を開けて夫を外に放り投げるなど、殺人事件や傷害事件が多発していることだろう。
また、感応力で壁に穴が開けられるとなれば、治安など望むべくもない。壁に穴を開けて強盗するなど、悪人にとっての天国になりかねない。
そこは階層政府もよく考えていると見え、二つの防御機構が備えられている。
一つは、構造材に一種の流体特性を持たせ、例えば穴が開きそうなほど構造材が移動させられそうな場合は、その穴を埋めるために、周りの構造材が自動的に水のように流れ込み、穴を埋めるような仕組みになっている。
もう一つは、構造材の奥には通常の感応物質とは異なる、特殊な素材を使用した中心板が備わっている。
その中心板は確かに感応物質の一種ではあるが、特殊な処理が施されており、階層政府直轄のメインシステムからの擬似感応波にしか反応しない特性を持っている。この中心板をサンドイッチ状に挟む格好で通常の構造材が張り付けられており、例え、強力な感応力で表面の構造材に穴を開けられるとしても、構造材の奥にある中心板が穴を開けられる事態を防いでくれる。
おそらく、襲撃者の感応力をもってしても、床に穴を開けるのは相当難儀な仕事になるはずだった。そんな不毛な努力を行うのであれば、そもそも手持ちの武器を使用して穴を開けるほうが遥かに手っ取り早い。
そこまで考えた襲撃者はある可能性に気付き、ギョッとした。すぐさま情報にアクセスし、奴らの持つ武器で床に穴を開けることができるものがあるかどうか確認した。
・・・ある!
襲撃者は舌打ちした。
一次分解された液体爆薬と気体爆薬が少量ずつある。再合成にはほとんど時間がかからないはずであるから、奴らは床に穴を開けるための爆薬を持っていることになる。
襲撃者は一次分解され保存されている材料の量から、再合成される爆薬の量をざっと見積もった。そして、その計算結果に、思わず笑いがこみ上げてきた。
爆薬の量は、確かに床に穴を開けられる程度はある。だが、2~3回の爆破で全量を使い切ってしまうだろう。
標的のいるフロアは13階だった。彼らが床をぶち抜いて地下まで逃げ延びるには、少なくとも13回分の爆薬が必要になる。ビルの外壁に穴を開けて脱出するのは論外だ。ビルの外に出た途端、待ち構えた襲撃者によって消し炭にされてしまうだろう。
襲撃者は念のため他のフロアの構造材の状況をもう一度確かめ、地下に至る脱出口が無いことを確認した。さらに全隔壁を閉鎖しているため、ビル内はどこに逃げても袋のネズミになる。
襲撃者はにんまりとほくそえんだ。彼らの言う脱出計画とやらに俄然興味が湧いてきた様子だった。
「面白い・・・」
先程までは退屈で面倒な仕事とうんざりしていたところだったが、思わぬ余興が始まった。キッチンスペースから下のフロアに移動できたとしても、死に場所が変わるだけだ。それでも、逃げる獲物を追い詰めるという行為の甘美な予感を抑えきれない様子だった。襲撃者は根っからのサディストだった。
ーー
「行くぞ!」
ジェイの言葉にエリザとヴァニッシュは青い顔で小さく頷いた。
ーー
襲撃者は先程自らが攻撃を仕掛け、スクラップの山と化した事務室跡に降り立った。
向かいのビルから自らが着る服を感応力で操作し、身体を浮かせ、宙をふわりと飛んできた。普段であればもっと慎重な行動を取ったかもしれない。しかし、防御兵装を含むこのビルのシステムを全て機能停止させ、一部の機能は襲撃者の意のままとなった今、彼を阻むものは何も無い。
部屋を一瞥し、襲撃者は鼻を鳴らした。かすかに残る残骸は、部屋の持ち主の古代趣味の残り香を感じさせた。
「昔はよかった・・・ってか?」
襲撃者に古代趣味などなかった。それどころか、部屋の装飾、趣味、そういったものに一切興味がなかった。興味は全て依頼と殺しに集中していた。
襲撃者は映像ユニットに命じ、もう一度各部屋の様子を映し出し、様子を再確認した。キッチンスペース以外の部屋は全て無人で、隠れるような場所も無い。
襲撃者は満足げに一つ頷き、映像ユニットが全て破壊されたキッチンスペースの様子を確認するため、廊下に配置された映像ユニットの一つを襲撃者の感応力で操作し、宙を飛ばしてキッチンスペースに向かわせることにした。
これは本来キッチンスペースの映像ユニットが破壊された時点ですぐに行うべき行動だった。しかし、襲撃者は脱出方法への意味の無い興味から、あえてジェイたちに脱出するための隙を与えてやった。
「さっさと逃げろ、逃げろ。足が止まった時が、最期の時だ」
襲撃者はサディスティックな笑みを浮かべ呟いた。
ものの10秒もしないうちに映像ユニットはキッチンスペースに到着し、部屋の様子を襲撃者のリストユニットのスクリーンに送ってきた。
「何だと?!」
襲撃者は目を見張った。キッチンスペースはもぬけの殻だった。
そして、壁にも床にも穴がある様子は無い。そもそも、爆薬を使って穴を開ければ振動、爆音等により襲撃者も気付くはずだが、そういった異常もこれまで感知していない。
「馬鹿な!」
襲撃者は慌ててキッチンスペースに向かって駆け出した。罠の存在も頭の片隅にあったが、このフロア全てのシステムを制圧している上、全ての感応物質の存在も把握しているため、罠があったとしてもその罠に含まれる感応物質により罠の存在そのものを感知できる。したがって、走りながら罠の存在も確認し、罠は無いと結論付けていた。
キッチンスペースには、確かに標的たちの姿がなかった。
熱光学迷彩を施している可能性もない。映像ユニットは可視光線だけではなく、様々な種類の光線を映像化しているため、熱光学迷彩程度ではすぐに見破ることが可能だった。
しかも、襲撃者の目は強化されているため、映像ユニットと同等の機能を備えている。この部屋には確かに誰もいなかった。
襲撃者は慌ててキッチンスペースを観察した。事
務室の古代趣味にふさわしく、ここも同様の趣味が多く見られる。キッチンには流し台があり、その下にはなんとオーブンまで備えられている。このご時世で、いったい何に使うつもりなのか、襲撃者にはさっぱり見当もつかない。あるいは単なる装飾なのだろうか?
そして、テーブルの上には見たことも無い機器が備え付けられている。(知っている人から見れば一目瞭然、コーヒーメーカーである)
部屋の壁に棚は無く、壁内に直接食器類を保管する今時の普通の仕組みとなっているようだ。
清掃用ユニットが壊れていたのか、床はやや散乱した状態になっているが、カード式携帯食料の入れ物など、ごみが投げ捨てられているだけのようだ。
もちろん、下に通じる穴など見当らない。
襲撃者は舌打ちし、熱エネルギーの痕跡を辿った。キッチンスペース内は、ついさっきまで人がいて、部屋内をぐるぐると動いていた形跡が残っている。これは熱エネルギーの痕跡を辿られることを防ぐために、かく乱のためにあえて部屋内を動き回ったのだろうと推論した。
しかし、そのかく乱による痕跡を排除し、この部屋の最後に残った熱エネルギーが、流し台の前で途切れていることを程なく発見した。
「いや・・・」
襲撃者は流し台の前に無造作に歩み寄り、そしてその下に据え付けられたオーブンのドアをおもむろに開いた。
襲撃者はうめき声を上げた。
そこには直径1メートル弱の穴が開いていた。穴の縁、埃が積もった内部を見る限り、その穴は今爆薬で開けたのではなく、以前からずっと開いていたのだと想像できた。
「くそっ!」
襲撃者はもう一度部屋の情報を呼び出し、オーブンのある場所の床を確認した。しかし、情報上は穴など無く、そこには堅い床が存在することになっている。どうやら、ここに穴など無いという情報をずっと流されていたらしい。
しかし、このビルの全システムを乗っ取っているはずなのに、この床の偽情報が流され続けていることがありえないことだった。
襲撃者は先程フロアの制圧を行う際に、必要以上に強い力で負荷をかけないよう細心の注意を払っていたが、それが裏目に出たのかもしれない。最下層にふさわしい程度の微量な感応波による走査をおこなったため、この偽情報を見破ることができなかったのだろう。
それでも、相手が最下層に住むハッカーや治安警察程度の情報操作能力であれば、襲撃者の感応力による走査を騙すことなどまず不可能だ。相手に強力な感応波の持ち主か、あるいは強力なシステムがあることは確かである。襲撃者は標的たちの認識を改める必要があると、渋々ながら認めざるを得なかった。
オーブンに顔を突っ込み、穴の中を覗き込んだ襲撃者は、さらに低く毒づく羽目になった。
穴は下のフロアに繋がっているだけではなく、なんと底が見えない深い穴になっている。おそらく地下までの直通便になっているのだろう。襲撃者は急いで下のフロアの照明ユニットを全て作動させ、穴の内部をもう一度覗き込んだ。
案の定、最下層まで突き抜けた穴になっている。おそらく、ビルのこの部屋の真下にある部屋は全て奴らのものか、借りているのだろう。他の住人がいればこんな真似はできない。
襲撃者は穴に飛び込み、標的たちを追跡しようとした瞬間、目の端で動くものを捕らえた。
それはテーブルの上にあったカップだった。フラフラと揺れながら、床から1メートル程度の高さで不安定に浮いていた。
襲撃者は一瞬呆然とした。
意味が分からない。
だが、襲撃者の本能は何か危険を察知していた。何かが引っかかる。
頭の中でこれまでの情報を一瞬にして整理し、そして、恐るべき可能性に気が付いた。
『液体爆薬!』
宙に浮かんでいたカップが不意に支えを失い、床にめがけて落下を始めた。
襲撃者は見た。その中身は飲み物などではないことを。僅かな衝撃で容易に爆発する危険な代物を。
襲撃者は反射的に手を伸ばした。床に激突すれば爆発は免れない。しかし、まだ間に合う。キャッチできれば間に合う。
だが、カップはテーブルの向こう側にあり、手が届かない。間髪いれず、今度は感応力で支えるために思念を集中した。
ーー
「くそったれが!思い知れ!」
ジェイは見えない襲撃者に向かって言い放った。その目は怒りに燃えている。
「ジェイ・・・」
エリザはジェイを気遣う様子を見せながら、その肩にそっと手を回した。
皆、秘密の出口に繋がる地下道を走り、息は切れている。半重力移動体を全て敵に制圧された以上、自らの足で走るしかない。あの穴から脱出して約2分、全力で走って逃げた。
そして、逃げながらも、敵が事務所を制圧し、あの穴に気付いたであろう兆候が現れるを待った。
兆候はすぐに現れた。薄暗い脱出道の向こう、直線の向こうに明かりが灯った。穴の内部を確認するために、襲撃者が全フロアの照明ユニットを作動させたのだ。
これを合図にジェイは作戦の最後を飾るべく、襲撃者の息の根を止めるため思念を凝らした。今回は精密な操作は必要ない。持ち上げて落とすだけだ!
ーー
襲撃者は落ちるカップを呆然と眺めていた。襲撃者は強い力を加えてカップを揺らすような馬鹿な真似をせず、カップを安定させることを中心に繊細な感応波を放出した。
しかし、カップは止まらなかった。一瞬たりとも動きが止まることは無かった。
襲撃者は自らの愚かしさを痛烈に悟った。
『専用カップ!!』
永遠とも思える一秒が過ぎ、襲撃者は白熱した光に包まれた。床に2~3回穴を開ける程度の爆薬とはいえ、至近距離での爆発である。襲撃者は標的たちに呪詛の言葉を投げつつ、自らの肌が焼かれようとしていることを認識し、慄然とした。
襲撃者の視界全てが白い光で満たされつつあった。
反射的に手で顔を覆うが、それ以外にできることは最早何もない。
襲撃者は苦い思いで現実を受け入れるしかなかった。
第一章 了