4.見果てぬ世界 (その3)
本来は、一般人には伏せされているはずの『記憶操作』について、その場にいる者全員がその存在を知っていた。だが、実際にそれを使ったという話を聞くのは初めてである。それは、対象の記憶を操作するには、相手よりもかなり強大な感応力が必要なことと、それ以上に厄介なのが、恐ろしく精密な感応力操作が必要になってくるからである。
人の記憶というのは、例えばコンピュータの記憶装置のような構造物に記録されたデータとは、その性質が根本的に異なり、ひどく曖昧な部分がある。忘れていたと思った記憶も、別の記憶に刺激されて思い出すこともある。また、ある場面を視覚的に記憶しているだけではなく、匂い、味、触覚など複合的な要素もある。
したがって、完全な記憶操作というものは、たとえ熟練者が時間をかけて行ったとしても非常に難しい。どれだけ精密に操作しようが、どうしても記憶の不整合が出てきてしまうのだ。
これに対し、『刷り込み』は単純に植え付けたい知識を記憶として上書きするだけなので、他の記憶との整合性などに留意する必要は無く、難易度は比較にならないほど低い。
だから、ヴァニッシュはひどく驚いた。
「信じられない・・・。たった二日で、3年もの記憶を操作するだなんて・・・」
エリザは苦笑を浮かべた。ヴァニッシュの言葉が少し心外だったのだろう。
「あら。私を誰だと思ってます? 十二人委員会の肩書きは伊達じゃないんですよ。相応の能力がなければ、十二人委員になることなどできません。それと、あなたはひとつ勘違いしています。私は記憶操作に二日もかけていませんよ。1時間もかけずに行いましたから」
「1時間ですって!?」
エリザの言葉に、ヴァニッシュの目はますます丸くなった。ヴァニッシュの常識からすれば、それは途方もない行為だった。
「ええ。まあ、正直に白状しますと、今回の私の役目から考えて、そこまで精妙な記憶操作が求められていたわけではありません。ヴァニッシュがジェイと出会うまでの、ごく短期間だけジェイを騙して秘書役に収まっていればいいだけでしたから、記憶操作も必要最小限で済み、時間がかからなかったというだけです」
「・・・どういうことだ?」
ジェイはまだ記憶操作という事実に抵抗があるように、険しい表情を浮かべエリザに詰問した。
「つまり、今回は記憶の整合性などは、あまり意識していません。幸いなことに、ジェイの交友範囲は広くありませんでしたし、客もごく限られた人数しかいませんでした。これで、客が多かったりしたら、ジェイの中の三年分の客の記憶全てに、私も絡んでいたという記憶も紐付けないといけなかったので、大変だったでしょうね。それから、私の秘書としての役割は、あくまでもジェイの事務所限定にしたので、操作すべき記憶の範囲をかなり絞ることができました。ジェイ、あなたの記憶の中の私は、事務所にしか存在しないんじゃありませんか?」
ジェイは自身の記憶の中のエリザを、思い出せる範囲すべてで確認した。
事務所で笑っているエリザ。
依頼人と折衝しているエリザ。
コーヒーを片手に談笑しているエリザ。
依頼内容についてジェイと打ち合わせているエリザ。
エリザの言うとおり、確かに彼女に関する記憶はすべて事務所の中に限定されていた。多くはないとはいえ、3年間の中にあったいくつかの依頼でエリザを一緒に連れ出したり、暇な時に外に食事に誘ったりするなど、そういった記憶は一切無かった。
ジェイは愕然とした。
「ね? そうでしょう? そういうわけで、『記憶操作』といっても、かなり軽度なものです。それで充分なはずでしたから。ただ、二つだけ困ったことがありました」
エリザは肩をすくめて苦笑していた。
「あなたにコーヒーを淹れてくれと言われた時は、さすがに焦りましたよ。今時、挽いた天然豆からコーヒーを淹れるだなんて、そんなことをしている古代趣味の人はまずいません。でも、あなたの記憶の中のエリザはそういうことをやっていたんでしょうね。たぶん、以前の秘書にさせていたことの記憶と私とが、結びついちゃったのかな。だから、キッチンスペースから元老院付属図書館のデータにアクセスして、何とかコーヒーメーカーの使い方を覚えましたよ」
「ふん・・・。そんな急ごしらえの割りには、結構美味いコーヒーを淹れてくれたな」
「あら、どうも。何でもこなす『有能秘書エリザ』の面目躍如というところですかね」
エリザはコロコロと笑っていた。コーヒーを入れる腕前を褒められて、案外本当に喜んでいるのかもしれない、とジェイは感じた。
こうして話しているエリザは、ジェイの記憶の中のエリザと同じだった。だが、記憶の中のエリザのほとんどが虚像だと告げられ、彼の心は沈んでいた。
「もうひとつの困ったことは、ジュージューです」
「え? ボク?」
ジュージューは自分を指差して驚く。
「ええ。あなたは今回の記憶操作に対する矛盾でしたから。具体的に言うと・・・というか、ジュージュー自身が言ってましたよね。ジェイにエリザなんて秘書がいることを知らなかったって」
「あ!」
ジュージューは、エリザの言いたいことを察して、驚きの声を上げた。
確かに、ジュージューは終戦塔からジェイの事務所を偵察するという任務から帰ってきた後、ジェイとの他愛も無い会話の中で、そのことを話していた。ジュージューはジェイとの付き合いは長いはずなのに、3年前からいたはずのエリザを知らなかった。
「思い出しましたか? そうです。情報屋というジェイの重要な仕事仲間のはずが、彼にエリザという秘書がいたことさえ知らない。もちろん、直接会う機会は無かったかもしれませんが、ジェイとの会話で必ず秘書の存在は出てくるはずです。それなのに、ジュージューは知らなかった。これは立派な記憶の矛盾です。これも焦りましたよ」
ジュージューは悔しそうに下を向いた。そんなところに、エリザの正体を見破るきっかけが隠れているとは、想像もしていなかった。
あの時はパルサーへのデータ入力などの作業中で、そこまで気が回らなかったということもあるが、注意力が不足していたのもまた確かで、ジュージューは唇を噛んだ。
それはジェイも同様ではあるが、彼の場合は多少事情が違っていた。
「・・・俺がそれを疑問に思わなかったのは、既にかけられていた『暗示』の影響ということか?」
「ええ、そうでしょうね。私を疑ったりしないように、思考を誘導されていましたから。まあ、本来であれば、完全な記憶操作を行う場合は、関係者全員の記憶を操作し、こういった矛盾が起こらないように気を配るのです。ですが、今回の役目の性質上、事務所外で誰かに会う可能性までは考慮していませんでした」
「そうか、ようやく本題に入ってもらえそうだな。俺の記憶が操作されていたのは分かった。で、俺の質問をもう一度繰り返すぞ。お前は、なぜ俺の秘書役なんかやっていたんだ? それが三年前だろうが五日前だろうが、関係ない」
エリザは大きく息を吐いた。どこから説明すべきか、多少迷っているのかもしれない。
「そうですね・・・。事の始まりは、神流 美桜の刑が確定した時です。刑の執行にあたり、その執行状況を観察し、あらゆる障害を排除し適切に刑を執行させる任を負った刑務官が必要になりました。あなた達も感じたように、このような刑は前代未聞です。そんな前例の無い刑を確実に執行するためには、通常の刑務官では手に負えない可能性があると、あの方は考えたんでしょうね。だから、これも前代未聞の話ですが、十二人委員会の人間が刑務官役として任命されました。それが私です」
「・・・あの方、っていうのは誰なんだ!? 仮にも元老院十二人委員会のエリザに命令できる存在がいるってのか!?」
エリザは突然笑みを消し、厳かな口調で告げる。
「ええ。人が三人以上集まれば、必ず主導権争いが生じます。そして、権力と階層が生まれていきます。それは十二人委員会内部でも例外ではありません・・・。委員会の十二人は、決して平等ではないのです。特に、第一席から第四席までの四人は、『天上の四人』と呼ばれ、私のような末席など足元にも及ばぬほどの権力、財力、知識、感応力をお持ちです。今回、私は『天上の四人』の一角を占められる、第四席から直々に命令を賜りました。だからこそ、このような刑務官役などを勤め上げているのです」
「『天上の四人』・・・」
ヴァニッシュは呆然と呟いた。
最上階層で育ち、十二人委員会直属の実働部隊に所属していたヴァニッシュですら、その存在は初耳だった。おそらく、この世界で『天上の四人』という存在を知るものは、当の十二人委員会を除けば、他にいないとすら思える。
そんな重大な情報をこの場で話したエリザに対し、ジェイは逆に心配になってきた。
「おい、エリザ。そんなことまで話しても大丈夫なのか!?」
エリザはジェイの言葉を聞き、厳かな表情が多少緩んだ。
「ええ、十二人委員会第十二席たる私が、話しても問題ないと判断しました。まあ、あなたたちがこの話を広めようとしても、階層政府の、いえ、元老院の統制で広まりようがありませんし。彼らのメディアや感応波ネットの統制は完璧です。もっとも、都市伝説のようなものは残るかもしれませんがね」
エリザは小さく肩をすくめ、すぐにジェイに向き直った。
「そういう経緯で、私は刑務官として派遣されました。その職務は、大きく分けて二つです。刑が開始されるまでに準備を整えること。そして、刑が開始されたら、スムーズに執行されるよう図ること。そして、その準備を行うために、あなたの秘書役に偽装しました」
「どういうことだ・・・?」
「準備にもいくつかの段階があります。まず、第四席に指定された刺客役であるルクレツィアに数々の事情を説明し、彼女に『極衣』を与え、戦闘技能の『刷り込み』を行い、刺客役として恥ずかしくないよう仕立て上げました」
その時、エリザの顔に一瞬同情めいた表情が広がった。
その表情を見てジェイは突然気付いた。エリザ自身は、ルクレツィアを刺客役とすることに反対していたのではないかと。先ほどの、敗れたルクレツィアに対し浮かべていた表情を思い出すと、そう考えざるを得ない。
「そして、狙われる側にも準備作業を施す必要がありました。まあ、標的であるジェイに事情を説明しても何の意味も無いので、それは特に行いませんでした。ですが、標的であるジェイとヴァニッシュが出会った瞬間から、この刑は始まります。逆に言えば、それ以前に刺客の攻撃があった場合は、それはフライング行為です。それは絶対に止めなければなりません」
「・・・そういうことか」
「ええ。万が一、刺客役が先走った場合、私はその攻撃からあなたを守る必要がありました。ルクレツィアのことは信用していましたが、彼女が雇ったハ・ラダーはそうもいかない可能性がありましたし」
そこまで聞いたジュージューが口を挟んだ。
「いや、ちょっと待ってよ。例えば、ハ・ラダーが先走ってジェイの旦那を襲ったとして、『制御装置』で感応力を封じられているエリザさんで、旦那を守りきれるの?」
ジュージューの疑問に対し、エリザは事も無げに答える。
「ええ、何の問題もありません。知ってのとおり、『制御装置』はすぐに外すことができますし、私が着ているこのスーツも、『法衣』と呼ばれる最上級のものです。戦闘能力は『極衣』には及びませんが、『極衣』には無い様々な能力もありますし、ハ・ラダーやルクレツィアなどに遅れをとることは、万が一にもありえません」
ジェイは、ハ・ラダーが最初に事務所を襲って来た時のことを思い出していた。あの時、エリザは攻撃に面食らい、顔を青くしているように見えた。だが、それも演技だったということになる。
実際の彼女は、ルクレツィアや今のヴァニッシュすら寄せ付けないほどの戦闘能力を有していた。彼は、完全にエリザに騙されていた自分に腹が立ってきた。
「そして、もうひとつの準備も必要でした。ヴァニッシュとジェイが会った瞬間、刑の執行が開始したことを関係者に通知することです。この二つの準備のためには、ジェイの傍に控えておく必要がありました。ですから、秘書役として偽装し、あなたの隣でこの事態に巻き込まれた振りをしていたということです」
「なるほどな・・・納得がいったよ。だが、刑の開始の通知ってのは何だ? そんな通知を発していたような記憶は無いぞ?」
エリザはジェイの指摘に、満面の笑みを浮かべた。
「ふふっ。それこそが、あなたの喉に引っかかっていた小骨の、例のアラームですよ。ヴァニッシュがジェイの事務所に訪れた瞬間、私が感応波を送って、アラームを鳴らしました。あのアラームが鳴り始めた時点が刑の執行開始です。そして、キッカリその一年後まで、この刑は続くのです」
エリザの返答にジェイは呆れ返った。
「いや、ちょっと待て、エリザ。何でわざわざ、そんな意味不明な方法で?? あんなアラームを使わなくても、ヴァニッシュとルクレツィアに通信機なり、感応波のイメージ通信で通知すればいいだけだろう?」
エリザは小さく苦笑する。彼女も胸中ではジェイを同じ意見だったからである。
「ええ。私もそう思わないではないです。ただ、このアラーム使用は第四席の直々のご命令なのです」
「『天上の四人』の?」
「ええ。第四席は、こういう派手でケレン味のあるやり方を好まれますので」
「・・・趣味が悪いな」
「・・・私もそう思います」
エリザの苦笑が大きくなっていた。エリザも、あのアラーム使用にはあまり感銘を受けていない様子だった。命令だから仕方なく、ということだったのだろう。
エリザの正直さに、ジェイは小さく笑い、それに連られて、エリザも笑顔を見せた。
そして、気を取り直して続きを話し始めた。
「それはともかく、こういった準備作業も終わり、いよいよヴァニッシュとジェイは出会いました。そして、それは私の秘書役が終わる瞬間となるはずでした。刑の執行が始まれば、あとは執行がスムーズに行われるよう取り計らうことだけが私の任務だったからです」
ここで、エリザは少し声を落とした。
「ですが、想定外の事態のおかげで、そうも言っていられなくなりました」
「想定外の事態?」
「ええ。それは、ヴァニッシュの記憶障害です。刑のことを忘れた人間に、刑の執行を開始したことを告げても何の意味もありません。さらに、ろくに戦うことなく刺客にアッサリ敗れてしまう可能性さえあります。ヴァニッシュの記憶障害を知り、私はどうすべきなのか迷いました」