4.見果てぬ世界 (その2)
「決定的な場面?」
ヴァニッシュとジュージューは首を傾げている。二人もエリザに関する記憶を掘り起こしているのだろうが、ジェイが言うその場面が思い当たらないようだった。
対するエリザは、にこやかな表情を浮かべたまま、ジェイの推理を楽しんでいるように見える。エリザはその決定的な場面に心当たりがあるのではないかと、ジェイは当たりを付けた。であれば、ここで正しい解答を選択できればエリザは満足し、ひいてはジェイからの質問に対する答えも得やすくなるはずだと、ジェイは気を引き締め、慎重に続きを話し始めた。
「ハ・ラダーとの戦いの後、赤ドレスとその隣にいた大柄の奴にエリザが『攫われた』場面を覚えているか?」
「・・・うん。あの時は疲れてたし、いろんな出来事が重なってたけど、そこはよく覚えてるよ。ボクたちが赤ドレスに神経を集中していた隙を突かれて、いつの間にかエリザさんが攫われたと思ったんだよね。でも、まさかこんな・・・」
ジュージューは当時のことを思い出しながら、思わずエリザに複雑な視線を送る。ジュージューにはエリザに裏切られたという憤りもあるが、数日前どころか、ほんの数十分前まではエリザを救おうと奮闘していたのだから、気持ちが整理しきれていないのも当然だろう。
エリザはそんなジュージューの視線に気付きながらも、そ知らぬ顔でジュージューを見つめ返していた。
「じゃあ、その場面を思い出しながら聞いてくれ。まず、俺が不思議に思ったのは、なぜ赤ドレスたちは、人質であるエリザを俺たちに見せなかったのか、ってことだ」
「・・・ああ、言われてみれば確かに不自然かも」
ヴァニッシュも首を小さくうなずかせながら同意した。
「そうだろう? 人質であれば、無事であることを俺たちに見せ付けて、ついでにエリザが泣きながら『助けて、ジェイ!』とか言えば、さらに効果抜群だ。俺たちを揺さぶるには持って来いだ」
「あら、ジェイ。私はそんな簡単に泣いたりしませんよ? ふふっ。これでも、ジェイ探偵事務所の有能な秘書なんですからね」
ジェイはエリザの軽口に乗る気分ではなさそうだった。エリザの言葉に特に反応せず、続きを話す。
「だが、赤ドレスたちは人質であるエリザを、俺たちにまったく見せなかった。これは不自然というか、わざわざそうする理由が思い付かない」
「そうですか? ひょっとしたら、気絶した人質さんは、あなたたちの死角に放り出されていただけなのかもしれませんよ? あの時、ルクレツィアともう一人の人物はビルの屋上に立っていたはずです。ということは、屋上の真ん中あたりに放置しておけば、あなたからは見えなくて当然じゃありませんか?」
ジェイはエリザの言葉を聞いてニヤリとした。エリザが指摘したことこそ、ジェイが次に話を進めたいと思っていたことだったのだ。
「さすが、わが有能なる秘書殿だ。その指摘こそが、俺の言う『決定的な場面』に繋がるんだよ」
ジェイのこの言葉で、エリザが初めてにこやかな表情を崩し、ほんの少し眉根を寄せた。
「確かに、赤ドレスたちが屋上にいた時に、その周りに人質のエリザがいなかったというだけなら、ここで大騒ぎするほどの話でもない。実際、屋上の死角にいようが、ビルのその辺の階に放り込まれていようが、俺たちには分からないんだからな。だが、その後の決定的な場面が問題なんだ。次はハ・ラダーとの戦いの後、赤ドレスたちが空を飛んで去った場面を思い出してくれ。あの時、傷つき疲れ果てた俺たちは、黙って見送るしかなかった。あの時、空を飛んで去ったのは、赤ドレスと・・・」
「赤ドレスが抱きかかえて運んでいた、気を失ったハ・ラダーと・・・」
「もう一人の大柄な奴だけだったよ!」
ヴァニッシュとジュージューが、驚愕の声を上げた。ジェイは大きくうなずいた。
「そのとおりだ。あの場面で空を飛んで去って行ったのは、ハ・ラダーを含めて三人だけだ。さっきのエリザの指摘のとおり、赤ドレスたちがビルの屋上に立っていた時は、俺たちの死角なんていくらでもあった。確かに、大柄な奴の傍にエリザがいなくても、そこまで不思議じゃない。だが、去る時に人質を連れて行かないのは、どう考えてもありえない」
ここでエリザの笑みが完全に消え、無表情の仮面をかぶり、ジェイに鋭い視線を投げつけていた。ジェイは構わず続きを話した。
「ということは、飛んでいく際に、マントの下にエリザを見えないように隠していたのかもしれない。あの時の俺は、頭に血が上っていしたし、そう考えた。だが、比較的大柄なエリザをマントの下に隠して、その上でさらに空を飛んで、マントの下にもう一人いるという痕跡を出さないというのは、結構難しいことだと思う。もちろん、やろうと思えばルクレツィアも刑務官もできただろう。ただ、そうなると、赤ドレスたちはそんな苦労をしてまで、エリザを俺たちに見せないように気を配っていたことになる。それは、なぜだ? そこまで徹底して人質を連れていることを俺たちに隠す理由が、ルクレツィアたちにあるのか? むしろ、人質を積極的にアピールする場面なのにな。そうは思わないか? エリザ」
エリザは小さく嘆息した。同時に、先ほどまでの無表情から、またいつものにこやかな表情に戻った。そして、小さく肩をすくめて、続きを話すようジェイに促した。
「ここまで考えて、俺は初めて赤ドレスか大柄な奴のどちらかが、エリザなのではないかと疑い始めた。エリザという人物が消えたと同時に、別の人物が現れる。それが同一人物だというのは、ミステリーだったら、よくあるトリックと言ってもいいな。そして、赤ドレスは体格やヴァニッシュに執着する言動から、エリザとは考えづらかった。となると、残る人物は一人しかいない。体格的にも似通っていたしな」
「なるほど、と言わせていただきましょうか。しかし、ジェイ。疑問には思いませんでしたか? あなたの知る有能な秘書『エリザ』が、そんな初歩的なミスを犯すはずがないでしょう? 例えば、人質に似せたダミーを用意しておくとか、いくらでも偽装する手段はあると思いますけど?」
ジェイはエリザの反論を受け、大きくうなずいた。ジェイもそれを疑問に思い、ひとつの結論に達していたからだ。だが、それは推理というよりも、単なる憶測という分類になるだろう。そんな心もとない理屈ではあったが、ジェイはそれを素直にエリザに開陳した。
「それには、俺なりの答えがある。またもや状況証拠だけなんだけどな」
「ええ、どうぞ」
「赤ドレスの計画、いや、お前たちの計画の中で、『秘書エリザ』を人質に取るというプロセスは、そもそも存在していなかったんじゃないか?」
エリザはにこやかな表情を顔に貼り付けたまま、驚きに目を見張った。ジェイは、その表情を見て、自身の推測が正しかったことを確信した。
「やっぱり、そういうことなのか?」
「どういうことなんだい!? ジェイの旦那!」
ジュージューの疑問に対しジェイは、エリザが攫われた直後の場面をもう一度思い出すように告げた。特に、赤ドレスの言動を。
「最初、エリザの姿が見えなくなった時、俺は赤ドレスに『エリザをどこにやった?』と聞いた。その時の赤ドレスの返答は、確かこうだった」
『おいおい、いまさら何を言っている。鈍いにも程があるな、お前は! まあ、その秘書のことなら、こいつに聞けばいいさ』
「そして、それを聞いた俺は、てっきり奴らがエリザを攫ったものだと勘違いした。だが、奴らは一言も『エリザを攫った』とは言っていないんだ。さらに、赤ドレスは俺の反応を見て大笑いしていた。ルクレツィアの言う俺の鈍さってのは、『俺たちがエリザが攫われていたことに気付けなかった』ことに対するものじゃなく、『赤ドレスの隣にいる大柄な人物こそがエリザだということに、俺たちが気付かない』ことに対する嘲笑だったんだよ。そして、その後いきなり赤ドレスは態度を変えて、エリザを人質に取ったことを積極的に認めた。あいつはそこで俺たちの勘違いを利用することにしたんだろうな。ハ・ラダーのように追いかけっこをするのではなく、俺たちを指定した日時に指定した場所に呼び出すために。そうすれば、ルクレツィアも万全の準備を整えることができるから、あいつにとってみれば、俺たちの勘違いは実に好都合だったんだ」
「そうか! もともと計画に無かった行動だったから、エリザさんは私たちを欺くための準備ができていなかったということなのね!」
ヴァニッシュはジェイの推理に感嘆していた。
ここまで聞いたエリザは、大きく息を吐くと、下を向いてまた小さく笑い始めた。今度の笑いは先ほどまでの相手を意識したような外向けのものではなく、自然にこぼれてきたもののようにジェイは感じた。
エリザの小さな笑いはしばらく続いた。そして、おもむろに顔を上げ、ジェイに向かってひとつウインクした。
「あはははは。いい推理ですね、ジェイ。そのとおりです。あれは計画に無い行動でした。いきなりルクレツィアがあんなことを言い出すから、さすがにちょっと焦りましたよ。だから、私が人質に取られているように見せかける工作が不充分だったことは、自分でも気付いていました。私の正体がバレる可能性があるとしたら、あれが原因だろうな、と思っていました。案の定でしたね。でも、ひとつ疑問があります」
「うん?」
エリザはまだ小さく笑いながら、彼女の中にあった最後の疑問をジェイに投げかけた。
「あなたの推理は中々のものでした。でも、状況証拠の積み重ねだけですし、決定的というわけじゃありません。私が潔く正体を明かさなかったら、どうするつもりだったんです?」
確かにエリザの言うとおりだった。ジェイの推理は最終的に正しかったことは今では明らかだが、ジェイが問い詰めた際に刑務官がとぼけてしまえば、それ以上追求することはできなかっただろう。
しかし、ジェイにはひとつの切り札があった。
「ああ、最後にもうひとつだけ推理を披露してもいいかな? 俺が正しければ、刑務官がエリザだったという物証がひとつ生まれることになる」
「物証ですって!?」
さすがのエリザも、ジェイのこの一言には驚いたようだった。『人質を取る』際の不手際から刑務官の正体がバレることは想像していたのだろうが、物証があるというのは心底予想外だったのだろう。エリザのそれまでの余裕は消え、思わず大声を出してしまっていた。
ジェイは懐に手を伸ばした。
その仕草を見て、エリザは一瞬緊張したが、ジェイが取り出したものは武器などではなかった。
そこにあったのは、一対のピアスだった。
エリザは思わずうめき声を上げた。
「これ、エリザのピアスだよな? お前が攫われたと思われる場所に、2つ仲良く転がってたよ」
「ちょ、ちょっと待ってよ、ジェイの旦那!? あんた、それを見て、エリザさんを助けなきゃな、とか言ってただろ!? なんでそれが物証になるんだよ?」
ジェイはジュージューの疑問に、少しだけ苦笑した。ジェイも別に女性経験が多いほうではないが、これから話すことは子供のジュージューにはあまり馴染みのない話だろうと思ったからだ。
「なんて言えばいいのかな。イヤリングに比べたら、ピアスってのは比較的落としにくいものなんだが、それでも何かの拍子で落としてしまうこともある。女の子によっては、結構な頻度で落とす子もいるしな。だがな、普通は片方無くすものなんだ。両方同時に無くすというのは、なかなかあることじゃない」
「でも、今回は攫われた時の拍子にピアスを落としたってことだろ? 確率は低いとしても、ありえるんじゃね?」
そこはジュージューの言うことももっともだった。だが、ジェイはヴァニッシュに向き直り、質問を投げかけた。
「なあ、ヴァニッシュ。『極衣』を使うお前の意見を教えてくれ。あの場面、隙を見て誰かを攫おうとした時、『衛星』以外の手段はありそうか?」
ヴァニッシュは眉根を寄せて、少しの間思考を巡らした。そして、ジェイに向かってキッパリと答えた。
「エリザさんの装備をよく知らないから100%じゃないけど、そういう目的なら『衛星』が一番適してると思う。実際、私がハ・ラダーに止めを刺されようとしていたジェイを助けた時は、『衛星』を伸ばして、それであなたを巻き上げて回収したんだから」
「そういえば、そうだったな。しかも、2回も助けてもらったな」
「ふふっ。どういたしまして」
「じゃあ、そういう時はどうやって攫うんだ? 対象の体の一部に『衛星』を巻き付けて、自分のほうに引き寄せるのか?」
「いえ、そうじゃないわ。例えば、体だけに巻き付けて引き寄せた場合、対象の首より上が置き去りになっちゃうから、上手くいってもむち打ち、下手したら首の骨が折れちゃうから。だから、全身に巻き付けて、衝撃が均等になるようにするの。それに、『極衣』のエネルギー転換装で、Gを軽減させることもできるしね。あなたを助けた時みたいに」
ジェイはエリザに向き直った。エリザの表情は、「それで?」と告げているようにジェイの目には映った。
「つまりはそういうことさ。赤ドレスたちがエリザを攫おうとするなら、『衛星』を使うのが最も合理的だ。そして、その際は全身を『衛星』で巻き取る必要がある。それも、誰も気付かないような一瞬で、頭部を含めた全身を、だ。ということは・・・」
「仮に『衛星』がピアスに触れた時の衝撃で外れたとしても、その後すぐにピアスごと巻き取られて攫われていないとおかしい!!」
ヴァニッシュが驚きの声で、ジェイの後を引き取った。ジェイは確信を込めて、続きを話す。
「そういうことだ。この2つのピアスがあの場に落ちていたという事実は、攫われた時の衝撃で落ちたものじゃないことを示唆している。通常の行動では、2つ同時に落とす可能性も低い。そうなると、これはエリザ自身が外したと考えざるを得ない」
「それは、どう意味かしら?」
エリザは穏やかにジェイに問いかけた。ジェイはエリザの目をまっすぐ見つめ、最後の推理を披露する。
「なあ、ヴァニッシュ、ジュージュー、ひとつ不思議に思わなかったか? エリザは十二人委員会の人間だと言う。それなら、第一階層の俺なんて比べ物にならないほどの感応力を持ってるはずだよな?」
「うん。それどころか、実働部隊時代ならともかく、今の私と比べても、天と地ほどの差がある。ジェイ、あなたが言いたいこと分かったわ・・・」
「そうか・・・。そんな強大すぎる感応力を持ったエリザが、俺たちと行動を共にしていた時に、それらしい素振りを見せたことがあるか? 俺の目からエリザの感応力は、第一階層平均からは多少強い程度だが、能力使用の精密さにかけては第一階層随一、というふうに映っていた」
「まさか・・・」
ここでジュージューも気付いたようだった。さらに、その言葉の続きをポツリと呟く。
「それは、そのピアスは、ヴァニッシュの話に出てきたような『制御装置』なのか?」
「ああ、俺はそう思う。十二人委員会のお偉方が、なぜ俺の秘書なんてやっているのかは知らないが、ここで暮らしていくためには強大すぎる感応力はむしろ足かせだろう。俺に『暗示』をかけてまで、俺に疑われないように企てていたんだから、『制御装置』で自身の感応力の出力を絞っていたとしても不思議じゃない。いや、そうせざるを得ないんだ」
エリザはいつの間にか下を向いていた。そんな彼女に向かって、ジェイは推理の仕上げに入った。
「そうだ。エリザはあの場で俺の秘書役を投げ捨て、本来の刑務官役に戻るために、ピアスを自分から外して本来の感応力を取り戻したんだ。そして、このピアスが『制御装置』であると言うなら、これをヴァニッシュに付けてもらえば、その真偽はすぐに判明する。ピアスを付けたヴァニッシュの感応力の強さが第一階層レベルまで抑えられるようであれば、それは『制御装置』だという証明になる。そうすれば、このピアスを常時付けていたエリザは・・・」
ジェイは、その言葉と共に立ち上がり、エリザに歩み寄った。エリザは下を向いたままだったが、ジェイはその手にピアスを握らせた。
エリザはぼんやりとした表情で、掌の中のピアスを眺める。エリザの瞳の色と同じ、真っ赤な色を燃え立たせた紅玉をはめ込んだピアスは、いつもと変わらない輝きを見せていた。
エリザは手を握り込み、小さく肩を振るわせたかと思うと、次の瞬間には大声で笑い始めていた。その笑い声はいつもの社交的なものではなく、心の底から大笑いしているという類のものだった。笑い声はどんどん大きくなり、仕舞いには涙まで流し始めた。
しばらくエリザの笑いの発作は続き、2~3分後にようやく止んだ。それでもまだ小さく肩を震わせながら、涙を拭っていた。
多少落ち着いた彼女が、ようやくジェイに向かって声をかけた。しかも、その両手を天に上げていた。
「ふふっ。降参です、ジェイ。これは降参のポーズでしたよね? いや、あなたのおっしゃるとおりです。このピアスは『制御装置』です。なるほど、物証になりえますね、これは。そこまで見抜かれているとは本当に想像していませんでした」
エリザはもう一度涙を拭った。
「ああ、こんなに愉快な気分になったのは久しぶりです。まさか、ここまで完全に見抜かれているとは思いませんでした。ジェイ、あなたは思った以上に使えそうな人ですね。エミリア様の薫陶のおかげかしら? 今回の推理といい、ハ・ラダーやルクレツィアとの戦闘といい、感心するしかありません。惜しむらくは、感応力が弱すぎることです。もし、ある程度の感応力の強さがあるようでしたら、私の手足として、諜報員として使ってあげてもいいと思うくらいです」
「・・・そりゃどうも。どうせなら、秘書として雇ってくれてもいいんだがな?」
エリザはジェイの軽口に思わず吹き出した。
「ふふっ。あなたのそういう所は嫌いじゃありませんよ。でも、あなたのようないい加減さを持った人物が秘書というのは、ちょっと無理ですね。秘書というのは、私のようなしっかりした人間にしか勤まりませんから」
「そりゃ、そうだな」
ジェイは憮然としながら答えた。
今この瞬間だけは、二人の間に流れる空気は、ジェイの事務所でのそれに戻っていた。二人とも軽口を叩き、大抵の場合はエリザがジェイをやり込めるのが常だった、あの日常に。
「それはともかく、刑務官が私だと見抜いたこと、そして、それが当てずっぽうではなく見事な推理に裏打ちされていたこと。ジェイ、あなたは私を2回も驚かせてくれました。それに対して、私はあなたに2つの褒美を与えて返そうと思います」
「褒美だと?」
「ええ。まず一つ目は・・・実はもう与えています。あなたの足の怪我を治しておきました。応急措置ですけどね」
ジェイは驚いて自分の足を確認した。確かに、話に夢中になっている間に、いつの間にか怪我の痛みを忘れてしまっていた。
おそらく、エリザはハ・ラダーを癒した布型の医療ユニットか、それとも別の医療ユニットを目立たないように使用し、ジェイが気付かない間に癒してくれていたらしい。
「もうひとつの褒美は、今のあなたたちが心底欲しているものでしょう。今回の件に関連することで疑問があれば、一人につき一問ずつ答えますよ。もちろん、私の権限では回答できないこともありますけど、そこはご承知おきください」
ジェイは自分の目的を達成したことに安堵した。ジェイがわざわざ長々と推理を披露したのは、推理をエリザに楽しませ、満足させ、その後の自分からの質問に答えやすくさせるためであった。これは、知的好奇心を抑えられないというエリザの性格を知る、ジェイならではの発想だった。
早速ジェイは質問を投げかけようとするが、聞きたいことがあまりにも多く、質問がまとまらない。
エリザは笑いながら、ジェイたちの質問を待っている。
そこに、ようやく質問を整理したジェイが口を開いた。だが、その場に発せられた声はジェイだけではなかった。
「よし、エリザ、教えてくれ」
「じゃあ、ボクの質問に答えてよ」
「エリザさん、なぜあなたは」
ジェイたち三人が同時に声を発していた。エリザは笑いながらジェイを指差し、ジェイから順番に発言するよう促した。
「よし、悪いがまず俺から質問させてもらう。・・・エリザ、お前はなぜ俺の秘書なんてやっていたんだ?」
「なぜ、とは?」
「だって、そうだろう? 仮にも十二人委員会に属するやんごとなきお方が、なぜ最下層の俺のような探偵の秘書をやっていたんだ? ヴァニッシュの刑罰に対する刑務官としてヴァニッシュを監視するためといっても、ヴァニッシュがその判決を受けたのは、せいぜいここ1ヶ月以内じゃないか。それなのに、なぜお前は3年前から俺の秘書なんてやっていたんだ?」
エリザは一瞬きょとんとした後で、またもや小さく吹き出した。
「ジェイ、あなたの推理力をもってしても、その謎は解けなかったんですね。ふふっ。おかげで、また愉快な気持ちにさせてもらいました。・・・そうですね。ジェイ、あなたは私と初めて会った日のことを覚えていますか?」
ジェイは目を細めて、当時の記憶を蘇らせた。暦上は春とはいえ、結構冷えた日のことだった。
「・・・ああ。三年前の春だ。大学を卒業したばかりというお前が、なぜか俺の探偵事務所を訪れたんだよな? なぜ俺の事務所に来たんだ?」
エリザはジェイの答えを予想していたのか、案の定、といった表情で小さく笑い声を上げた。そして、クスクス笑いながら、ジェイにとっては衝撃の事実を突きつける。
「ジェイ、あなたの記憶と私の記憶とは少々食い違っているようです。そうですね。出会った時期が、ちょっとだけズレています。正確に言えば、私たちが初めて出会ったのは、三年前の春じゃありません。あれは、ヴァニッシュがあなたの事務所を訪れた日の二日前のことですよ」
ジェイは唖然とした。そんなはずはない、と反論が喉まで出かかるが、嫌な予感に支配された心がそれを押し潰した。
ジェイの反論の代わりに、あとはヴァニッシュが目を見張りながら答える。
「まさか・・・! 『記憶操作』なの!?」
エリザはにこやかに小さく拍手した。




