4.見果てぬ世界 (その1)
ヴァニッシュは、刑務官の衣装から現れたエリザの姿を、呆然と眺めるしかなかった。彼女と出会ってまだ10日程度ではあるが、その優しさに何度か救われてきたヴァニッシュである。目の前の真実をとても信じられないと、そう考えるのも無理はなかった。
「エ、エリザさん・・・?」
ヴァニッシュの問いかけに、エリザはいつものにこやかな笑顔を向け、まだ少しクスクス笑いながら返答する。
「はい、私ですよ、ヴァニッシュさん。あ、そうそう。記憶を取り戻すことができて、おめでとう、美桜。おかげで、私も窮屈な役目から開放されることができました」
「や、役目・・・?」
ヴァニッシュはまだ混乱していた。エリザの発する言葉の半分も頭に入ってこない。
対するエリザはにこやかな笑みを絶やさず、二人を眺めている。
そんな彼女を、ジェイは冷静なまま真っ直ぐに見つめていた。だが、その口元は固く引き結ばれ、あごに力を込めた首の筋肉が、見るからに盛り上がってた。
エリザはジェイの表情を愉快そうに眺めながら、またもクスクスと笑いながら話しかける。
「ジェイ、そういうことですので、今日であなたの探偵事務所は辞めさせていただきます。短い間でしたが、お世話になりました」
「・・・ふん。今日付けでの退職ということか。やむを得んな。だが、今日いっぱいはまだ俺の秘書だ。いろいろ謎を解明しなければならないし、力を貸してもらわないとな」
エリザはジェイの返答を聞き、笑みが広がった。
「ふふっ。いいでしょう。本来なら、十二人委員会第十二席である私と対等に話せる人間など、この世界にはいません。ましてや、秘書にしようなどと言う人間など。ですが、今日だけは、あなたの秘書役を勤め上げましょう」
エリザは口では軽口を楽しんでいるようだったが、ジェイの見たところ、その様子にはやや無理が感じられた。おそらく、ジェイが刑務官の正体を見破ったことが、あまりにも予想外だったのだろうと、ジェイは想像した。
「おっと、その前に」
エリザは何かを思い出したかのように、急に動き始めた。彼女は真っ直ぐに、まだ意識が朦朧としているルクレツィアの下に歩み寄った。その歩く様は、ジェイが何度も事務所で見惚れていたそれと、何も変わらない。
エリザは、ジェイとヴァニッシュの視線をまったく気にもせず目の前を横切り、まだ横になっているルクレツィアの傍に膝をついた。
ルクレツィアは霞む視界の中にエリザを捕らえ、やや意識がハッキリしたようだった。いきなりエリザの腕を取り、自分の方に引き寄せようとする。そして、全身の力を振り絞って、エリザに訴えかける。
「ま、待って。私はまだ負けてなんかいない。まだやれる・・・! アリアを、アリアを・・・」
エリザは痛ましげな表情を一瞬浮かべた。だが、次の瞬間には、元のにこやかな表情に戻り、赤ん坊をあやすかのようにルクレツィアの頭をなでながら、ジェイが聞いたこともないような優しい口調で答えた。
「いいえ、あなたの負けです。刑務官たる私が、そう認定しました。さあ、疲れたでしょう? ゆっくりお休みなさい・・・」
エリザの言葉に、ジェイはギョッとした。エリザの口調に不吉なものを感じたのである。よく考えれば、最上階層の刑罰に参加するために、ルクレツィアは分不相応の装備や経験を与えられ、また十二人委員会直属の実働部隊の情報まで与えられてしまっている。それは口封じの対象となっても不思議ではないレベルのものだった。
ジェイは慌ててエリザに手を伸ばした。
「おい、エリザ!」
だが、伸ばした手は、そのまま空中で止まることになった。
エリザの手の下で、ルクレツィアはまるで子供のような笑みを浮かべながら、寝入っていたのである。ジェイはホッと一息吐いた。
「ジェイ、私がそんな真似をするとでも思いました? 正直に申し上げて、彼女のような450階層程度の人間など、どうでもいいのです。わざわざ私の手を汚すまでのことではありません」
エリザはまたしてもジェイをからかうように、笑顔で声を掛けた。だが、その発言内容は、酷薄と言ってもいい内容だった。彼女の発言の裏を返せば、どうでもいい人間でなければ手を汚すのも厭わない、という宣言に等しいからである。
ジェイは心の中でゾッとした。目の前にいる人間は確かにエリザだが、ジェイの知る彼女と違うことに、混乱を覚えていた。
「ああ、役者も揃いましたね」
エリザの言葉を聞き、その視線を辿ると、ジェイの事務所に通じる大通りの方向から、ジュージューが移動体を全速力で飛ばして、こちらに向かってきていた。おそらく、ルクレツィアに対する勝利と、その後のエリザの衝撃の発言を聞いて仰天したジュージューが全速力でジェイたちの下に向かってきたのだろう。
戦闘終了から2分と経たずに終戦塔までやって来るとは、移動体の速度違反で治安警察が大挙飛んできても不思議ではないレベルだった。
「エ、エリザさん! どういうことなんだよ!?」
ジュージューは到着するなり移動体を盛大に乗り捨て、エリザの下に大股で歩み寄った。ジュージューもエリザによく懐いていたため、ヴァニッシュに負けないほどの衝撃を受けたのだろう。顔を真っ赤にしてエリザに詰め寄ろうとする姿も仕方ないと言える。
そんな近付いてくるジュージューをエリザは興味なさそうに一瞥し、ジェイに向き直った。
「さあ、役者も揃いました。ヴァニッシュとジュージューも知りたいことでしょう。・・・なぜ、あなたは私が刑務官だと気付いたんですか?」
ヴァニッシュとジュージューの視線が、同時にジェイに向いた。確かに、二人ともエリザの正体には驚いたが、ジェイの指摘にも同じように驚いていたのだ。
ジェイは困ったように頭を軽く掻いた。そして、痛む右足に耐えかねたかのように、そのままその場所に座り込もうとした。
それを見たエリザは、四人の傍にそれぞれ高級そうなソファを地面から作り上げた。その様は、ジェイの事務所で見せていたものを思い出させるものだった。
まず最初にエリザが優雅に座った。そして、ジェイがどっかと腰を下ろした。残った二人は若干迷っていたが、今日の戦いの疲れからか、ソファの誘惑に耐えることができず、そのまま腰を下ろした。
すると、さらに四つのソファの中心に、いきなり大きなパラソルまで地面から生えてきた。
「さあ、これで長話になっても大丈夫でしょう。もう一度聞きます。ジェイ、あなたはなぜ、私が刑務官だと気付いたんですか?」
「・・・そこまで確信があったわけじゃないさ。まあ、五分五分といったところかな?」
ジェイはここ数日の記憶を手繰りながら、ポツポツと話し始めた。
「刑務官がエリザじゃないかと初めて疑ったのは、恥ずかしながら、昨日の夜だ。赤ドレスと戦うための作戦のすべてを再確認して、ヴァニッシュとジュージューとの打ち合わせもやり尽くして、最後に寝入る寸前だったんだ。だが、なぜか急にそんなことを思いついたんだ。それまではずっと、エリザのことを疑ってもいなかったのにな」
ジェイのその言葉に、エリザが静かに答える。
「それは、私の『暗示』が解けたからでしょうね・・・。あなたには、私のことを疑わないように、余計なことを詮索しないように、初めて出会った時に軽度の『暗示』をかけていました。あれは、私の役目をスムーズに進行させるために、必要な処置でした。・・・ジェイ、あなたはハ・ラダーに一度『暗示』をかけられましたよね?」
ああ、と小さく同意するジェイ。それを見て一つうなずき、エリザは続きを話し始めた。
「ハ・ラダーの『暗示』を解除するために、ヴァニッシュがあなたの頬を張り飛ばしたと記憶しています。その時、図らずも私の『暗示』も一緒に解けてしまったんでしょうね。軽度な『暗示』とはいえ、あなたでは解除は絶対にできないレベルのものでしたが、ヴァニッシュの感応力が相手では、そうもいきませんね」
「そういうことか・・・。だから、俺はこないだまでエリザを疑うということ自体ができなかったのか」
ジェイはエリザが自身に『暗示』をかけていたことに、特に気分は害していない様子だった。それどころか、またひとつ謎が解けて、納得したような表情を浮かべている。
「そういうわけで、昨夜いきなりエリザを疑うという気持ちが芽生えたんだ。そのきっかけになったのは、どうしても分からなかったひとつの謎のことだ」
ジェイはもったいつけるように一拍置いた。
「それはな、俺たちがジュージューの事務所から脱出して、キングキャッスルに向かっていたときの話だ。俺たちはハ・ラダーを撒くために、細心の注意を払っていた。それなのに、あいつは地下道からの出口で俺たちを待ち構えていた。俺たちに追いついてくるなら分かる。地上に出た俺たちを何らかの方法で発見し遭遇する、というのも分かる。だが、待ち構えているというのは、ありえない」
ジェイはチラリとジュージューを見て、少しだけ言いにくそうに、続きを話す。
「だから、スパイの存在を疑ったよ。俺たちの誰かが敵に情報を流しているのであれば、待ち構えるのも容易な話だからな。そういうわけで、申し訳ないが最初はジュージューを疑っていた」
「なんだと!? ボクを疑ってたって? いくらジェイの旦那でも、それはちょっと聞き捨てならないぞ!」
「いや、悪かったって。その疑いもすぐ晴れたんだから、勘弁してくれ」
案の定、ジュージューが憤慨したため、ジェイは慌てて弁解した。
「そう、ジュージューへの疑いは、ハ・ラダーとの戦闘の経緯で解けた。ジュージューがスパイなら、辻褄の合わないことが多すぎたから。そして、ヴァニッシュがスパイじゃないかと考えていたこともあったが、こっちもジュージューの場合と同様だ。しかも、赤ドレスのヴァニッシュに対する執着を見て、その後でヴァニッシュの過去を知り、彼女がスパイというのもありえないと知った。では、残ったエリザは? そう、最初は俺の信頼する秘書だから、スパイというのはありえないと考えていた。・・・それは『暗示』による思考操作による思い込みだったんだな」
「ええ、そういうことになりますね」
「ふん・・・。だが、昨夜ふとエリザがスパイだったらどうなるか、と考えた。そうすると、恐ろしいことに、他の疑問に対する答えもいくつか得ることができたんだ」
「他の疑問?」
ヴァニッシュの問いに、ジェイは深くうなずいて答える。
「ああ。まず、ヴァニッシュに初めて会ったときの事だ。アラームユニットの件、覚えてるか?」
「ああ、ジェイの旦那がかなり気にしていた、アレか? アレがどうかしたのか?」
「あのアラームは、俺の事務所の本棚の奥に、ジムの監視網すら潜り抜けて、誰にも知られずに設置されていた。正直、誰がそれを設置したのかなんて、見当も付かなかった。そもそも、どうやって設置したのかすら分からないんだからな。だが、その疑問に対して、ヴァニッシュがヒントをくれた」
「え? 私が? 何か言ったっけ??」
突然自分に話を振られて、ヴァニッシュは驚いて目を白黒させた。その表情を見たジェイは、小さく笑った。
「ああ。ある部屋の、制御ユニットを含めた全ユニットの目と耳を盗み、誰にも知られずに事を起こす。その方法をヴァニッシュが教えてくれたんじゃないか」
「あっ! 分かった!」
ジュージューとヴァニッシュが同時に叫んだ。
「『偽情報送信』だ!」
「ご名答。俺は、そんな技能があるとすら知らなかった。その技能をヴァニッシュが教えてくれた。部屋の全ユニットに対して同時に偽情報を送信することができれば、ユニットには何も映っていないと思い込ませている裏で、何でもできる。そうすれば、本棚の裏にアラームユニットを設置することなんて楽な仕事だ」
そこまで黙っていたエリザが口を挟んだ。
「しかし、ジェイ。その『偽情報送信』を行ったのが、なぜ私だと?」
「簡単なことさ。いいか? 『学校』とやらでその技能を学んで、実働部隊で実践していたヴァニッシュでさえ、元老院議員の邸宅から脱出する際の『偽情報送信』は失敗した。彼女が言ったように『偽情報送信』は難易度が高い技能なんだろう。だが、一日かけて部屋の全ユニットを走査した、アリアの部屋での送信は成功した。ということは、時間をかけてじっくり準備すれば、成功率が上がるということだ」
「それで?」
「俺の事務所でも同様だろう。通りすがりの人間がいきなりやって来て、ごく短時間で事務所全体に『偽情報送信』を行うというのは、まず不可能だ。どんな名人だろうと、ユニット一つのタイミングを誤っただけで、ジムは必ず気付く。さらに、あまり大声で話したくもないが、俺の事務所はここのところ客がまったく来ていない。だから、客の振りをして、部屋の全ユニットを走査するような人間もいなかった。残るは、内部の人間が工作した可能性しかない。・・・そうだ。秘書で、なおかつ俺と同等の事務所権限を持ったエリザだったら、時間をかけて事務所の全ユニットを走査して、『偽情報送信』を行うことは不可能じゃない。しかも、エリザの感応力操作の精密性は、ヴァニッシュにも引けを取らないと、ジュージューの事務所の掃除で自ら立証してくれている。つまり、アラームを設置できたのは、エリザしかありえないんだ」
エリザはにこやかな表情のまま、ジェイの言葉に耳を傾けていた。そして、ジェイの言葉が終わると同時に、感じ入ったように拍手した。
「素晴らしいです、ジェイ。探偵の肩書きも伊達じゃないといったところですね。でも、状況証拠だけで、私がやったという証拠は何もありませんよね? それに、それ以外の方法でアラームを設置した別の人間がいる可能性は、否定できませんよ」
「ふん・・・。じゃあ、続きを話させてもらおうか。まあ、小さな疑問の積み重ねなんだけどな。俺が初めてエミリア先生の話をした時のことを覚えているか? 俺の専用カップの話をした時だよ」
「ええ、覚えているわ」
ヴァニッシュが小さくうなずいた。やや遅れてジュージューもうなずいたところを見ると、多少記憶があやふやだったのだろう。
「あの時、エリザはなぜかエミリア先生のフルネームを聞きたがった。そして、エミリア・フラッシュフォートだと知ると、やたらと話に絡んできた。普段のエリザは、そういう話にあまり興味を示さないのにな。だが、その答えも今なら分かるよ。エリザもエミリア先生の知人だったんだな。失踪した知人の情報だったから、思わず話に食い付いてしまったんだろ?」
エリザは肩をすくめて苦笑している。
「他にもある。例えば、今回の一連の騒動の中で、エリザは常に役に立っていなかった・・・とまで言うと失礼かな? エリザは常に俺の決定に従い、足手まといにはなっていなかった。だが、自分から提案したり、意見を言うことが、あまりにも無さすぎた。いつもは俺にはもったいないくらいの優秀な秘書であるエリザが、だ」
「いえいえ、それは買い被りというものですよ、ジェイ。初めての荒事に身がすくんで、状況に受身になっていただけです」
エリザはいつものようなジェイをからかう口調で、クスクス笑いながら他人事のように反論した。
「ああ、俺も最初はそう考えていた。だが、エリザがスパイなら、もっと言えば刑務官であれば、話は別だ。刑務官であれば、俺たちに味方して助力することができないからだ。なんせ、刺客側にやたらと肩入れしている、公正さのかけらも無い刑務官様だ。俺たちに助力するなんてありえない。だから、エリザは常に俺たちの後を付いて歩いていただけだったんだ」
「ジェイ。さっきから憶測だらけで、私が刑務官だと判断するには小さすぎる話だけじゃないですか? それだけなら、迷探偵と呼ばれるほうが相応しいと思いますよ」
エリザはまだクスクス笑っていた。
「まあな。ここまでの疑問とその答えでは、エリザを疑う根拠としては弱すぎる。だが、エリザを疑うに足る決定的な場面を、俺はようやく思い出したのさ」