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Angel:Vanish  作者: 桂里 万
第一章 始まりの鐘が鳴る
3/42

3.窮鼠の檻

 それから30分程経って、少女はようやく目を覚ました。ジムの見立てよりも随分回復が遅く、余程衰弱していたのだろうと推察された。

 その間に、映像記録の再検証を終えたジムからの結果報告があったが、前回の報告と何も変わることはなかった。事務所内の壁面に埋め込まれた約23,000に及ぶ全映像ユニットの記録を精査しても、仕掛けられたアラームユニットについては詳細が全く分からないという異常事態はまったく解消されていない。

 となれば、必然的に少女の証言に期待が集まることになる。



「う・・・ん・・・」


 少女はゆっくり目を開け、ソファから頭を持ち上げて周囲を見回した。


「・・・ここは?」


 少女は戸惑った口調で誰にともなく疑問を投げかける。その様子を見たエリザは少女の傍にしゃがみこみ、少女の手を握り、優しく微笑みながらあやすように声をかける。

 ジェイは思わずその光景に見とれていた。美女と美少女の邂逅。素晴らしく絵になる光景である。


「ここは、ジェイ私立探偵時事務所よ。あなたは1時間くらい前に、ここの入り口で倒れたの。気分はどう?大丈夫?」


 少女はまだ意識が混乱しているのだろう。ぼんやりとエリザの顔を見ながら、エリザの質問には答えることなく、自らの疑問をエリザに投げかける。


「あなたは、・・・誰?」

「私はエリザ。この事務所の秘書です」

「エリザ・・・さん?」


 少女の言葉にエリザはこくりと頷き、そして少女の手のひらをぽんぽんと叩き、もう一度同じ質問をする。


「具合は大丈夫?」


 少女はまだぼんやりとしているが、頭を小さく振って意識をはっきりさせると、先程よりは幾分ハッキリした声で返答する。


「はい・・・大丈夫です」


 少女の意識がハッキリしてきたことを察したエリザは、慎重に質問を続ける。


「あなたのお名前は?」


 すると、なぜか少女はひどく驚いた表情を見せた。その表情を見たジェイは眉根を寄せる。自分の名前を問われて、驚く少女?

 少女は目を瞑って何か思案しているようだったが、やがて口を開き自らの名を告げた。


「ヴァニッシュ・・・」

「ヴァニッシュ!?」


 今度はなぜかエリザが驚いた表情を見せている。不思議に思ったジェイがエリザを見つめると、その視線に気付いたエリザが、驚いた理由を説明する。


「ヴァニッシュというのは、古代の共通語で『消え去る』と言う意味を持つ単語なんです。こんな可愛らしいお嬢さんに古代共通語にちなんだ名前が付けられているので、少し驚いてしまいました」


 そして、少女のほうに向き直って謝罪する。少女は小さな頭をこくりと頷かせ、気にしていない、と告げた。

 ジェイはわざとらしく咳払いし、ヴァニッシュと名乗る少女の注意を自分に向けさせて、笑顔らしきものを浮かべながら質問を始める。


「あー、お嬢さん。俺はこの事務所の所長のジェイだ。さっき挨拶は済ませたね。早速だけど、お嬢さんはうちにどういった御用があるのかな?」

「ジェイさん?」


 少女は眉をひそめてジェイの顔をじっと見つめ、そして、当惑の表情を浮かべる。

 ジェイは自分の頬が引きつりそうになっていることを自覚しながら、それでも精一杯の努力で笑顔らしきものを顔に貼り付けたまま、再度ヴァニッシュに問いかけた。しかし、少女は当惑の色をますます深め、ついにはポツリと一言漏らした。


「・・・思い出せない」

「・・・なんだって?」


 ジェイは思わず聞き返した。


「・・・何も思い出せないんです。・・・自分の名前以外は何も。どうして!?」


 少女は混乱の兆しを見せ始めていた。それはそうだろう。目を覚ましてみれば、記憶が無いとなれば、混乱しないほうがおかしいというものだ。

 少女の様子を見たジェイとエリザは思わず顔を見合わせる。ジェイは渋面を浮かべているが、エリザは少女を安心させるためか、柔らかく微笑んだまま、表面上は当惑した様子を見せていない。

 エリザの表情を見たジェイは、少女に対する質問は彼女に任せたほうが無難そうだと結論付けた。このままジェイが質問を続けていけば、いつの間にか尋問になりかねない。

 ジェイの思惑を察したエリザは、ヴァニッシュに優しく話しかける。


「落ち着いて、ヴァニッシュさん。もう一度ゆっくりと考えて」


 エリザの口調に多少安心したのか、ヴァニッシュは少しだけほっとしたような表情を浮かべると、もう一度じっと考え込み始めた。しかし、その努力も報われることなく、結局は先程と同じ答えを返すのみであった。


「わからないんです。どこから来たのか、ここへ何しに来たのか、家族の顔も名前も、他のことも何も!」


 少女の目にはみるみるうちに大粒の涙が溜まりはじめ、やがて頬を伝って豪奢なドレスの上に滴り落ちる。


「わかったから、落ち着いて、ヴァニッシュさん」


 エリザはヴァニッシュを胸に抱き寄せ、ゆっくりと背中を叩きながら、彼女を落ち着かせようとする。

 衝撃を受けたヴァニッシュは素直にエリザの胸に顔を埋め、声を殺しながら肩を震わせた。



 5分程度はそうしていただろうか。やがてヴァニッシュは落ち着きを取り戻し、エリザからそっと離れた。まだ鼻をすすり上げてはいるが、泣き止んだ様子だ。


「・・・取り乱したりして、すみません」


 ジェイは、おや、という風に少女を見た。体つきからして15歳前後と思っていたが、その口調は意外と大人びている。見た目だけで判断してはいけないな、とジェイは密かに気を引き締める。

 そして、ジムに疑問を投げかける。


「ジム、医療ユニットの診断では、特に頭部への影響は見られなかったはずだよな?」

「ええ、そのとおりです」

「だが、実際には記憶障害が起こっているようだが?」


 ここでジムは一瞬考え込むかのように返答が遅れたが、次の瞬間、きっぱりと返答する。


「あの時点で頭部への衝撃が無かったことは間違いありません」


 ふん、とジェイは鼻を鳴らした。しかし、医療ユニットの診断に異を唱えるつもりはないようだった。

 ジェイは手をヴァニッシュのほうに伸ばし、そして、手のひらを開き、その上に乗る物体をヴァニッシュに見せた。


「ヴァニッシュさん、これに見覚えはあるかな?」


 それは、先程エリザが発見したアラームユニットだった。それはジェイの手のひらの上で鈍く輝いていた。

 ヴァニッシュはアラームユニットをじっと見つめ、やや困惑の表情を見せながら、ジェイに向かって小さく首を振り、見覚えがないと伝えた。

 ジェイは考え込んだ。記憶障害とはまた珍しい症状だが、病院に連れて行けば、かなりの確率で記憶を取り戻すことはできるだろう。現代の医学は人体の構造はほとんど全て解明されており、脳の活動についても大部分が解明されている。事務所の医療ユニットはあくまで簡易型のものであるため、複雑な診断、治療を施すことはできないが、専門の病院であれば治せない病気はほとんど無いと断言できる。

 ジェイは質問を変えた。


「ヴァニッシュさん、あなたは先程俺に『私を守ってほしい』といったことを告げていたが、あれはどういうことなのかな?」


 ヴァニッシュは眉根を寄せて眉間にかわいらしい皺を刻みながらも必死に記憶を探り、ジェイに向かって返答する。


「よく覚えていません・・・。ただ、あなたの顔を見て名前を聞いた瞬間に、あの言葉が頭に浮かんできたんです・・・」

「頭に浮かんできた・・・か」


 少女の言葉を信じるならば、これは本格的な記憶障害ということになる。ジェイは少女に対して虚偽判定用心理ユニットの作動させるよう密かにジムに命じた。

 今日はありえない事が起こりすぎており、少女の言葉を額面どおりそのまま信じるわけにはいかない。

 様々な人物との虚虚実実の駆け引きを経験しているジェイは、年端もいかない少女の嘘に騙されたりはしない自負はあるが、それでもジムのサポートがあれば、なお万全となる。

 少女はあらゆるスキャンを遮断しているドレスを着ているため、本来であれば心臓音、体温、発汗といった身体的反応は検知できないが、幸いなことに帽子は先程エリザが外してくれたため、頭部のスキャンは可能な状態になっている。

 脳内のスキャン、特に感応波による感脳のスキャンが可能であれば、脳のどの部位の活動が活発なのか、電気信号の流れ、血流、など様々なデータにより心理的な状態を推測することができ、そして虚偽を見破ることも可能になる。

 もっとも、嘘をつく際、相手を騙そうとする際の脳の活動パターン、心理的状態は個人個人で千差万別であり、初めてスキャンするこの少女に対して100%の精度で虚実を判定することは難しいこともジェイは承知している。それでも、充分試してみる価値はある。

 ジェイは少女が記憶を蘇らせるために、あるいは少女の嘘を暴くためにさらに質問を重ねることにした。少女が本当に記憶を失っているなら少々可哀想ではあるが、これは必要なことだと自分に言い聞かせながら。



 30分程度は質問を浴びせ続けただろうか。

 ジェイは労力に見合うほどの成果を全く得ることができないまま、質問を打ち切ることにした。

 ヴァニッシュはジェイの質問にほとんど答えることができなかったが、少女は質問の都度、記憶の一片でも引き出そうと懸命に考え込み、その結果として疲労困憊の状態になってしまったのだ。

 もともと玄関先で倒れたほど疲労の極地にあった少女に対してジェイが容赦なく質問の雨を浴びせたものであるから、それも仕方ないことである。

 少女の青い顔を見、そしてエリザの警告するような視線を見た後では、さすがのジェイもこれ以上質問を続ける気にはならなかった。

 更に、ジェイの観察でもジムのスキャンでも、少女が嘘をついていないだろうということがハッキリしたことも、質問を中止する判断に拍車をかけた。


「ヴァニッシュさん、質問はここまでにしましょう。お疲れのところ、すみませんでした」


 ジェイがぶっきらぼうにそう告げると、少女は小さく吐息を漏らし、肩の力を抜いた。その様子を見たエリザがヴァニッシュの隣にゆっくりと腰を掛け、そしてその小さく震えている肩にそっと手を回した。


「疲れたでしょう?少し休みましょう。お腹は空いてないかしら?」


 ヴァニッシュは一時エリザの肩にその小さな頭を預け、目を瞑っていたが、やがてエリザに向き直った。


「ごめんなさい。面倒事を引き起こしてしまって・・・」


 エリザは小さく目を見張りヴァニッシュを見つめ、そして少女を慰めるようにゆっくりと言葉を発した。


「面倒事なんかじゃないわ。あなたはうちの事務所に助けを求めにきた大事なお客様。それにね、例え依頼が有ろうが無かろうが、記憶を失くして困っている人を放っておくことなんかできないわ。それからもうひとつ・・・」


 そして、エリザはいたずらっぽい笑みを浮かべ、ウインクしながら付け加える。


「なんと言っても、うちの事務所は面倒事大歓迎なのよ」


 エリザの言葉を聞いたヴァニッシュは小さく微笑んだ。疲労によって顔は青く、生気が失われているとはいえ、少女の笑顔は一つの美術品といってもいい輝きを放っていた。

 そういえば、少女の笑顔を初めて見た、とジェイは気付いた。無理もあるまい。事務所に現れてから肉体的には疲労し、精神的にはずっと緊張していたのだろうから。


「さあ、奥の部屋で少し休みましょう」


 エリザの言葉にヴァニッシュは小さく頷いた。エリザはジムに命じ客用の居室を用意させ、ヴァニッシュをそっと運んだ。

 ジェイも驚いたことに、エリザは自らの手で運ぶのではなく、またジェイがそうしたようにジムに反重力ユニットを用意させるのでもなく、何の躊躇も無く少女と自らが座るソファを5センチばかり宙に浮かべ、ソファごと奥の部屋に移動させた。

 自分の感応力ではあそこまで見事には行えまい、とジェイは感嘆した。エリザの感応力はその強さ、精度とも、この第一階層の人間の中では最上の部類に入るとジェイは確信を持って断言できる。

 やがて、エリザはジェイの待つ事務室に歩いて帰ってきたが、その足取りはいつものエリザらしくなく、ややうつむいた顔の表情から、考え事に心を奪われていることが察せられた。


「お嬢さんの様子はどうだ?」


 エリザはジェイの問いかけに顔を上げ、心ここにあらずといった表情のまま、少女を客用のベッドに寝かせてきたことを手短に報告した。

 客用の個室。ジェイの依頼人の中には自宅に帰ることができない、あるいはそもそも自宅が無いという人間も珍しくなかったため、狭くはあるが客用に空室を用意している。調度といえばベッドと棚がそれぞれ一つずつという殺風景かつ手狭な部屋ではあるが、寝泊りするだけであれば充分だろう。

 報告後、エリザはヴァニッシュを運ぶために移動させたソファの代わりに、新たにソファを床から生み出した。その形状は先程までそこにあったソファと瓜二つだった。

 新たなソファに静かに座り、その背もたれに大きく背を預けたエリザはヴァニッシュほどではないが、疲れているようだ。


「お疲れさん」


 ジェイは立ったままエリザに声をかけ、不器用ながらもエリザを気遣ってみせる。エリザはニコリと微笑むが、すぐに表情を暗くし、ジェイに問いかける。


「あの娘について、どう思われますか?」

「さて・・・」


 ジェイは考え込みながらゆっくりと部屋を横断し、窓際の自分のデスクに腰掛け、エリザの質問に答える。


「お嬢ちゃんには酷だっただろうが、俺の質問の山で一つの事実を確認することができた」

「それは?」


 エリザはソファから僅かに身を起こしてジェイに向き直った。


「それは、記憶障害がどうやら本物らしい、ということだ」


 ジェイはそれが冗談のつもりだったらしくニヤリとするが、エリザは顔をしかめて面白くもなさそうに答える。


「で、どうなさるおつもりですか?」

「彼女が万が一誰かに狙われているのであれば、病院に連れて行く危険は冒せない。・・・まあ、病院からヤブ医者を呼びつけるしかないな。例え彼女が本当に依頼人だとしても、記憶が無いんじゃ話にならない。医療ユニットにはどうしようもないが、専門の医者ならまず間違いなく記憶を取り戻せるはずだ」

「病院とここを直接結べば、わざわざ病院に向かう必要はありませんが?」

「それも考えたが、できるだけ事務所のメインシステムは外部と繋ぎたくない。確かに、ヤブ医者の仮想人にご足労願えば楽だが、ジムを外部に晒したくない。敵が多い身分だしな。幸い、お嬢ちゃんは今すぐ医者に診せないといけない状態でもないしな」


 エリザは小さく吐息を漏らし、ジェイの意見に賛同する。


「そうするしかなさそうですね」

「とりあえず、医者に連絡を取ろう」


 そして、ジェイはエリザから目を離し、壁に向かって声を上げた。


「ジム、脳総合科のある病院をリストアップして、一番近所の病院に連絡を入れてくれ。さすがに依頼人の脳をいじるのは、いつもの闇医者には任せられないからな」

「了解しました。・・・一番近所となりますと、第8街区のモルフィア・ストリート沿いにある『エルマン病院』になりますが、そこでよろしいですか?」


 ジェイは何かを問いかけるかのようにエリザをちらりと見ると、その意を敏感に察したエリザはジェイが望む答えを簡潔に述べた。


「移動体を使用して約10分といったところです」


 ジェイは一つ頷いて、ジムに指示を出す。


「よし、そこでいい。医者と専用医療ユニットをここに寄こすよう依頼してくれ。グズグズ言うようなら、報酬は規定の三倍出すと伝えてやれ」

「三倍ですか!?」


 エリザはジェイの大盤振る舞いに目を見張った。ヴァニッシュの身なりを見て、高額な依頼料を請求できると踏んでいるのだろうか?それとも、多少なりともヴァニッシュに同情を覚えたのだろうか?どちらにせよ、事務所の会計を預かるエリザとしては嘆息を漏らさずにはいられない。しかし、これが最善の方法だと認めないわけにもいかなかった。



 ジェイとエリザは医者の訪問予約の完了、あるいはヴァニッシュの目覚めを待つ間に昼食を済ませることにした。しかし、依頼人を事務所に残したまま外食に出るわけにもいかず、また依頼人をガードするという観点から食事の配送等、外部から事務所に物を入れることも憚られた。

 結局、キッチンスペースにいくらか買い置きしてあったカード式の携帯食料で間に合わせることにした。

 カード式の携帯食料は名刺サイズのカードに圧縮された料理で、机の上においた状態で上から叩くと、30秒ほどで圧縮前の元の大きさに戻り、なおかつその温度も最適な状態に調整されるという優れものだ。しかし、所詮大量生産品であるがゆえに味は画一的で飽きがきやすいため、ジェイはともかくエリザには不評であった。

 とはいえ、一旦食べ始めるとエリザも旺盛な食欲をみせ、クリームシチュー、サラダ、パン、とあっという間に平らげてしまった。もちろんジェイも同じメニューを平らげ、キッチンスペースでの簡単な昼食を早々に終わらせた。

 ジェイはナプキンで口を拭いながら、左手の手首に装着した携帯用ターミナルユニットをチラリと見て時刻を確認する。エリザは両手を上げ、うーんと唸りながら、背伸びをしている。

 今日一日で様々な問題を抱え込むことになった二人は食後にゆっくりすることも無く、揃って立ち上がり事務室へと向かった。

 すると、事務室の扉の前には、驚いたことに少女が立って二人を待っていた。先程の様子であれば、あと1時間は寝ていても不思議ではないのだが、予想以上に早く回復したということだろうか。

 エリザは慌ててヴァニッシュに駆け寄り、容態を確認する。少女は幾分生気の戻った顔で、心配そうなエリザの質問にハッキリと答えている。その様子を見たジェイは、多少なりとも少女の体力が回復したことにホッとしていた。あとは記憶が問題である。


「まあ、立ち話もなんだから、事務室でゆっくり寛いで話をしよう」


 ジェイの現実的な提案は早速受け入れられ、事務室のドアを開けた三人はジェイを先頭に事務室に入ったが、ドアが小さな音を立てて閉められた瞬間、ジェイは異変に気が付いた。それは、勘と呼ばれる類のものだった。背中から首筋が粟立つ、これまで何度も遭遇した危険な感覚。


 ジェイはとっさに叫んだ。


「伏せろ!!」


 叫ぶと同時にエリザとヴァニッシュの頭を抑えて床に倒れ込む。一瞬遅れて、窓の外が目も眩むほどの光を炸裂させ、続いて窓ガラスが割れる音が部屋中に響き渡り、伏せた三人の頭上を熱い塊りが通過していく。明らかに何らかの武器による襲撃である。窓ガラスはあっという間に粉々になり、窓際のジェイの椅子、デスクも熟練の解体工よろしく、見事な手際でゴミの山に分解されていく。


「くそっ!!」


 ジェイは謎の襲撃に小さく毒づき、頭脳を猛回転させて対応策をひねり出し、そして部屋を破壊する音に負けないように精一杯の大声でジムに指示を出した。


「ジム、ビル表面全体に遮蔽スクリーンを展開!それから、反重力フィールド、感応波ジャマーも出力最大で展開しろ!」


 ジムはジェイの指示を素早く実行し、その瞬間、先程まで部屋を蹂躙していた破壊の嵐は唐突に止んだ。

 ビルの防御機構により襲撃者の攻撃が遮断されたためだが、これも永遠に機能するというわけではないことは、ジェイもエリザもよく分かっていた。それでも、ここまでの防御機構を備えたビルは第一階層には珍しく、襲撃者も多少は意表を突かれているはずである。

 いや、意表を突かれていてくれ、とジェイは願った。


「二人とも大丈夫か?」


 ジェイは床に伏せたまま二人に声をかけた。二人は小さく頷き、大丈夫だとジェイに伝えた。普通、こういった突然の攻撃を受けた場合、素人はパニックを起こし金切り声の一つでも上げるものだが、曲がりなりにも探偵事務所の助手であるエリザはともかく、驚いたことにヴァニッシュも声一つ上げずに床に伏せていた。


「ジム、このクソッタレの襲撃者はどこだ?映像を出せ!」


 ジェイは意志を集中して目の前の床から小型のスクリーンを出現させ、ジムの報告を待った。


「襲撃者は通りを挟んだ向かいのビルの屋上のようです。確認できるのは一人です。武器はおそらく、実体弾マテリアルブレッド電磁砲ブラスター光子砲フォトンブラスターを併用している、軍用の複合銃だと思われます」

実体弾マテリアルブレッドとはまた、古風な敵さんだな」


 ジェイはふんと鼻を鳴らし、スクリーンを見つめた。すると、向かいのビルの屋上に黒いマントを羽織った人物が立ち、こちらをじっと見ている映像が現れた。その顔はフードに隠れて判別できない。その手に武器は見えないが、これは、先程遮蔽スクリーンを出力最大で展開したため、ビルの外壁部に設置された映像記録ユニットは現在活動しておらず、この映像は、襲撃前に記録されたものだからだろう。

 武器もそうだが、出で立ちも古風な奴だ、とジェイは苦笑した。


「よし、その武器だけなら、遮蔽スクリーンと反重力フィールドはしばらく破れまい」


 ジェイはスクリーンからヴァニッシュに視線を向けた。少女の顔色はよくないが目の光はしっかりしており、特に震える様子も無く、落ち着いているように見える。あるいは度を越えた驚愕により、感情が麻痺しているだけなのかもしれない。


「これはあんたを狙った襲撃か?」


 ジェイにとっては当然の質問であるが、ヴァニッシュは申し訳なさそうにジェイの予想通りの答えを返した。


「ごめんなさい。わからないの・・・」

「だろうな・・・」


 ヴァニッシュから答えを得られないだろうと予想していたジェイは、まずは襲撃者の正体を探るよりも、事務室の現状を素早く確認することを優先した。

 見ると、一瞬の襲撃だったとはいえ、窓、デスク、椅子はもちろん、壁際の本棚も見事なまでに破壊されている。

 黒ずんだ椅子の残骸は電磁砲ブラスター、本棚にめり込んだ拳大の穴は実体弾マテリアルブレッド、壁に一文字に走った大きな切り傷は光子砲フォトンブラスター、と、襲撃者はあの短い時間の中で、実に効率的に3種類の武器を使って事務所を破壊したようだ。

 当然、ジェイの趣味である本(の形をした光記憶端末)もその役目を永遠に終えてしまっていた。襲撃者は目当ての人物は殺し損ねたが、ジェイを不機嫌の極みに追い込むことには立派に成功したようだ。


「ジム、事務所の全機能を至急チェックしろ」


 反撃するにせよ逃げるにせよ、まずは状況を把握しなければ話にもならない。非常時にはジェイが最も頼りにする事務所の機能と、そしてそれら全てを統括するジムは真っ先に状況を確認すべき相手だった。


「事務室内各種ユニットのうち、光学系ユニットの87%損壊、重力系ユニット77%損壊、音声系ユニット64%損壊、その他ユニット44%損壊。また、感応物質材のうち正常動作可能なものは35%前後」


 ジェイは無意識に顔をしかめる。思ったよりも被害は甚大のようだ。


「その他の部屋は?それから、兵装、防御設備はどうだ?」

「事務室以外の部屋に被害はありません。また、ビル全体、事務所も含めた兵装、防御施設は、この部屋を除き被害はありません」


 事務室以外に被害がほとんど無いこと自体は、もちろん朗報である。これならば様々な手を打つこともできるが、ジェイには何とも言えない違和感が残った。


「変だな・・・?」

「変?」


 青い顔をしたエリザがジェイに問いかける。この事務所の秘書になってそれなりの時間は経っているが、事務所に襲撃を受けるなどという荒事はさすがに初めてである。取り乱さないだけでも立派なものだとジェイは密かに感心した。


「ああ。お嬢ちゃんの命を狙った襲撃にしてはおかしい。何と言うか、攻撃が手ぬるい・・・」


 え?といった顔でエリザが聞き返す。


「手ぬるいって・・・この襲撃であなたの事務室はメチャメチャですよ!あなたが声を掛けなければ、ヴァニッシュさんはもちろん、私もブラスターで薙ぎ払われていたところです!」


「ああ、もちろん分かってるさ。ただな、相手の武器は軍用の複合銃だ。おいそれと手に入る代物じゃない。そして、複合銃の扱いは見事なものだ!」


 ジェイは部屋の惨状を一瞥し、原型を留めていない本棚を一瞬確認した後で忌々しげに先を続ける。


「こいつは統合軍崩れか、治安警察崩れの破壊工作のプロだよ。ただ、それにしては攻撃が手ぬるいから変なんだよ」

「どういうことです?」

「説明は後だ。とにかく対処しないと」


 ジェイは一旦エリザとの会話を打ち切り、ジムに問いかける。


「ジム、襲撃者の様子はどうだ?」


 ジムはジェイの問いかけに、いつも以上の素早さで反応する。


「先程遮蔽スクリーンを展開したため、光学系ユニットでは建物外部の状況を把握できません。また、感応波ジャマーも最大出力で展開していますので、建物内からの感応波によるスキャン、建物外の光学系ユニットに対する感応波による干渉も行えません」


 言われてみれば、確かにそのとおりだった。外部からの物理的な干渉をある程度遮蔽してくれる遮蔽スクリーンは実体弾やブラスターを防いでくれるが、可視光線、赤外線といったものまで遮蔽するため、遮蔽スクリーン内部から外部を見ることができなくなってしまう。

 また、ジムの擬似感応波の能力をもってすれば、建物外部のユニット、例えば襲撃者がいた当のビルに埋め込まれた映像記録ユニットを操作し、襲撃者の映像をこちらの事務室に転送することも容易に行うことができるのだが、これも感応波ジャマーのおかげで行うことができない。防御が完全であればあるほど、こちらも相手の行動を把握しづらくなる。痛し痒しといったところか。

 ちっ、とジェイは一つ舌打ちし、イライラしている素振りを見せつつも、矢継ぎ早に次の指示を出した。


「それなら、まず事務室内に残された、まだ反応がある感応物質をかき集めて、窓のところに盾を作れ。窓だけじゃなく、向こうのビルに面した壁全体を覆う形で、複合繊維の四重装甲、表面はエネルギー反射コーティングを施せ」


 ジェイの指示が終わるか早いか、かつて窓であった箇所のすぐ内側に、巨大な壁が立ち上がっていた。その姿を見たジェイは体を起こし、おもむろに盾に近寄った。そして、エリザとヴァニッシュにはそのまま伏せているように伝えようとしたが、ふと思い直し、いつでも事務室から退避できるよう、部屋の入り口から出し壁の陰に隠れるよう指示した。


「よし、次は盾のさっきまでの窓部分に当たるところに、光学系ユニット、センサー系ユニットを配置しろ。それから、俺が合図したらその窓の部分だけ5秒だけ遮蔽スクリーンと感応波ジャマーを弱めて、外の様子が探れるようにしろ。感応波による外部の建物のユニットのチェックは、そうだな、半径100メートルで行ってくれ」


 そして、思い出したかのように付け加える。


「チャンスがあればパラライザーをお見舞いしてやれ。それから、ジムの擬似感応波であいつの武器を操れるようなら自分の手を吹っ飛ばしてやれ!」


 ジムはまたしてもジェイの指示が終わるか否かのタイミングで、準備が完了したことを伝えた。

 ジェイはデータを表示するスクリーンを壁から取り出そうとしたが、事務室のエネルギーは全て襲襲撃者のデータ採りに回したほうがいいと思い直し、自らの左手にはめた携帯型ターミナルユニットに思念を集中させた。

 すると、腕時計然としたそのユニットの側部から、折り畳まれた紙切れのようなものが飛び出し、丁寧に折り畳まれた紙を広げるかのようにパタパタと開かれていき、見る間に光学スクリーンになった。

 ジェイはスクリーンが稼動しているのを確認し、盾から離れてエリザとヴァニッシュの元に向かった。そして、二人に客用の寝室に退避するよう合図した。


「一体何を始めるんですか?」

「ああ、ビルの防御の一部を一旦解いて、敵さんの情報を集めるのさ」

「しかし、危険が伴うのでは?」

「もちろん、危険が無いとは言わない。ただし、開放時間は5秒だけで、あの盾もある。とにかく情報を集めない限り、手の打ちようがない。いくぞ!」


 ーー


 襲撃者はビルの屋上から冷ややかな視線でジェイの事務所を見下ろしていた。その頬は上気し、興奮の色は隠せないが、冷静さを失ってはいない。襲撃者は値踏みするように遮蔽スクリーンを見つめている。


「ふん」


 その声はザラザラした機械音にも似て、お世辞にも耳に心地よいとは言えない。

 まさかこんな最下層でこの出力の遮蔽スクリーンにお目にかかれるとは、想像していなかった。曲がりなりにも探偵事務所を名乗る以上、それなりの防御は備えていたということか?とはいえ、最下層での装備としては、少々オーバースペックと言わざるを得ないところは気になるが。


「もっとも、時間稼ぎ程度にしかなるまい」


 襲撃者は自らの能力と事務所の機能を冷徹に分析し、新たな攻撃の準備を始めた。


 ーー


 ジェイの合図とともにジムは指示通りの行動を行った。防御兵装の出力を弱めた瞬間、またもや猛烈な攻撃に晒され、その行動の迅速さからも襲撃者の有能さが伝わってくる。

 頼みの盾はよく保っていた。

 轟音は響くが、あらゆる攻撃に耐え、多少の熱すらも内側に通すことなく三人を守りきった。ジェイは刻々と収集される情報をスクリーンで確認し続けた。

 そして、キッチリ5秒後に防御兵装の出力が最大に戻されると、先程までの轟音は嘘のように鳴り止んだ。


「ジム、報告しろ!」

「襲撃者は先程までと同様、向かいのビルの屋上に陣取っています。攻撃方法も先程と同様です。向かいのビルの映像ユニットを強制的に使用した映像を出します」


 ジェイのスクリーンに襲撃者の鮮明な映像が映し出される。

 黒いフードに覆われた襲撃者の表情が映った映像は無く、あくまでも全身像、使用する武器が映し出される。全身黒ずくめの衣装のため、男女の区別すら判断できない。身長は190センチといったところか。


「武器はSTS-77軍用複合銃です」

「STS-77だと?確か・・・」

「そうです。通常の人間に扱える武器ではありません。強化人間、もしくはそれに類する外骨格の強度が無ければ、一発撃っただけで体がバラバラになるか高熱であの世行きです」


 本来、この時代の技術はエネルギー変換効率が極めて高いため、音や熱、反動といった余分なエネルギーロスはほとんど発生しない軍用銃が主流となっている。しかし、エネルギー変換効率を高めるユニットは精密機器で故障しやすく、また小型化に限度があるため、一部では強化人間専用にエネルギー効率化ユニットを外した武器も開発されている。

 ジェイは小さく舌打ちした。強化人間とはまた厄介な相手だ。少なくとも単純な戦闘能力ではジェイ個人は比較にもならない。


「他には?」

「半径100メートル内には襲撃者と我々しかいません。近所の住人は慌てて非難したようです」

「ということは、襲撃者は一人の可能性が高いってことか?」

「そのようです。それから、襲撃者に向けてパラライザーを3発撃ちました。このビルから2発陽動で撃ち、向かいのビルのシステムに干渉して襲撃者の足元から1発撃ちました。しかしながら、効果はありませんでした」

「効果がない、だと?全部避けられたのか?」

「いえ、襲撃者は避ける素振りすら見せませんでした。三発とも襲撃者に命中しましたが、効果が全く現れません」

「どういうことだ?!」

「わかりません。パラライザーの出力が弱かったのか、襲撃者に耐性があるのか。もしくは何らかの防御装備を使用しているのかもしれません」


 ジェイは唇を噛んだ。これは想像以上に厄介な相手のようだ。


「感応波による干渉はどうだった?」

「解釈は非常に難しいのですが、事実だけを申し上げます。襲撃者の装備一式、身に付けている物全てに至るまで、感応物質を検知できませんでした。したがって、干渉による操作は不可能です」


 ジェイは呻きたくなった。アラームユニット、少女に続いて、今度はこの襲撃者までもか。この3つの要素が全て同じ日に現れるなど、偶然であろうはずもない。

 ジェイは焦る気持ちを抑えて打開策を必死で検討した。様々な愚にもつかない案は瞬時に却下し、辛うじて実現可能と思われるただ一つの案に絞り込んだ。だが、その案にはかなりの心理的な抵抗が伴った。


「全兵装をあの疫病神に叩きつけている間に、地下の脱出路から逃げるしかないな」


 パラライザーが通用しない時点で、このビルに設置された兵装では襲撃者に通用しない可能性が高い。通常のビルよりは充実した兵装を備えているとはいえ、ここは要塞ではなく所詮はただのビルである。パラライザー以外に設置されているのはショックバスター、音響弾、など相手の無力化を主目的としたもので、物理的な殺傷力は低い。

 ご禁制の品ではあるが、以前の依頼で使用し、そのまま一次分解して保存している気体爆薬、液体爆薬などもあるにはある。

 しかし、それを爆弾に作り直すほどの時間もなければ設備もない。爆薬の状態のまま使うにしても、それを敵にぶつける手段もない。むしろ、液体爆薬は軽い衝撃でも反応し爆発する恐れがあるため、おいそれと使うわけにもいかない。

 このまま防御を固めて耐えるにしても、外部からの干渉を全て排除するために全防御設備を最大出力で稼動させている関係上、外部からのエネルギー供給すら遮断している状態になっている。

 こうなっては、ビル内部に蓄えられたエネルギーが最後の頼みの綱だった。そして、そのエネルギーも無限ではない。

 それに、防御しているうちに治安警察が駆けつけてくれればよいが、そんな期待は無駄だということはジェイがよく知っている。せいぜいジェイの死体とご対面するのが関の山だ。そもそも治安警察の世話になるなど、ジェイにとってみれば選択肢に入れるはずもない。

 したがって、消去法の結果、長年居を構えているこの事務所を放棄し、逃げるしか方法がないことをジェイは苦々しく悟った。

 とはいえ、ただ逃げても容易に発見されるに違いなく、そこで全兵装で相手を攻撃し、陽動として相手の注意を引き付ける。大げさであれば治安警察の重い腰も浮かせやすくなり、襲撃者の攻撃が鈍る可能性も無くはない。古典的で単純な作戦ではあるが、唯一効果的な作戦と思われた。

 しかし、ジムの回答はジェイの背筋を寒くさせるものだった。


「ジェイ、だめです。襲撃者はこのビルのシステムの乗っ取りを始めました。ビル内全移動体は凍結され、各フロアの全てのシャッターが下ろされました。また、この事務所以外の全居室の入り口のロックも掛けられました」

「クソッ!なんとかできないのか?」

「極めて強力な感応波による各システムへの干渉です。ジャマーが全く役に立っていません。今のところ、この事務所の各ユニットが乗っ取られないよう制御するだけで精一杯です」

「持ちこたえられるか?」

「非常に難しいと言わざるを得ません。このままですと、27分18秒後に私の全機能が乗っ取られます」


 ジェイは唇を噛み締めた。せめて地下通路までたどり着ければ、脱出の成算はあるはずだ。

 だが、どうやって?限られた時間の中で、できる限りのことをするしかないが、相手は軍用の重装備を持ち、感応波を検知できない素材に身を包み、なおかつジムの能力すら軽く上回るほどの感応力の持ち主である。

 襲撃者に毒づきながら必死で策を練るジェイだったが、焦りが先立ちうまく集中できない。ジェイの集中を妨げるように、今日の出来事の記憶が脳裏に浮かんでは消え、消えては浮かんだ。


『クソッ、今日の午前中はのんびりタバコを吸って、それからエリザとコーヒーを飲んで寛いでいたのに、なんでこんな面倒なことに!・・・いや、待てよ?』


 ある閃きとともに、ジェイの瞳に微かな希望の光が灯った。


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