2.見えざる意志 (その2)
美桜の育ての親であるフレアと、ジェイの人生の師匠であるエミリア先生は、同一人物である可能性がある。ヴァニッシュからその可能性を指摘され、ジェイは自身がエミリア先生についてほとんど何も知らないことに、改めて気付かされた。『柱』での検問のことも、裏からエミリア先生が手を回していたとしても、それが不思議ではないほど、ジェイの中でエミリア先生への疑念が深まっていた。もちろん、それは悪意のある疑念ではない。だが、エミリア先生が何を考え、行動していたのか、今のジェイには分からなくなっていた。
とは言え、エミリア先生のことをあれこれと詮索するよりも、まずはヴァニッシュへの助言を優先させることにした。エミリア先生への質問を投げかけようとしていたヴァニッシュとジュージューを手で制し、本題へ向かって話を再開した。
「まあ、そこは後で議論しよう。俺が今言いたいのは、別のことだ。無事検問を潜り抜けて、この世界に足を踏み入れた俺を待っていたのは、収容施設でのくそったれな日常だった。自分が感応力を持っているなんて知らなかったガキが、いきなりこの世界に放り込まれたとして、どうなる? 感応力の使い方さえ知らないんだぞ? そういった問題のあるガキをまとめて面倒を見る施設に、俺は放り込まれたってことだ」
ジェイはここで、おもむろに合成タバコに火を点けた。ジュージューの部屋だろうと、構うものかという気分だった。過去の話をしていると、無性にタバコを吸いたくなるのがジェイの性分らしい。おそらく、彼の父親も喫煙者だったことも関係しているのかもしれない。
ジュージューは一瞬眉を寄せたが、合成タバコには健康的な害や、ずっと残るであろう嫌な匂いも存在しないことを思い出し、ここは大目に見ることにしたようだ。
ジェイは、机の感応物質から灰皿を作成し、タバコを置いて話を続けた。
「まあ、ろくでもない環境だったな・・・。俺は2週間もしないうちに脱走したよ」
「・・・そんな簡単に脱走なんてできんのかよ?」
ジェイはジュージューの疑問にニヤリと笑って、返答した。
「あの施設も名ばかりの施設だったってことだろう? 当時の俺は、映像ユニットや音声ユニットなどの監視用ユニットがあることすら知らない、田舎者だぞ? そんなガキがあっさりと脱走できて、しかも、その後追われる事もないってのは、向こうは『脱走なんてお好きにどうぞ』ってことだよ。それで、そのガキがくたばるようなら、向こうの仕事がひとつ減るってだけの話だ」
ジェイの話には、確かな説得力があった。『永遠の理想郷』を謳うこの階層世界ではあるが、実態はそんなお題目とかけ離れていることは、この場にいる全員が理解していることであった。
階層政府により、8900億を超える人口全員に適切な配給がなされているという建前があるとしても、実際には、その日も食うや食わざるやという、生死の狭間で辛うじて生きている者も多い。特に、この第一階層ではその傾向が顕著である。
そういった現実の前で、一人の子供が施設から脱走したからといって、労力をかけて後を追うなど考えられなかった。施設の人間にしてみれば、脱走者がそのまま野垂れ死ぬようであれば、自分たちへの配給が増えることになる、とすら考えているかもしれない。
「そんなわけで、まんまと脱走に成功した俺だが、そこで途方に暮れた。俺はただただ家族の下に、地表に帰りたかった。だが、それが不可能だということは、子供だった俺にもすぐに分かった。そうなると、まず考えないといけないのは、どうやって生き延びるかということだ」
ジェイはタバコを一口吸い、煙を天井に向かってゆっくりと吐き出した。
「ああ、最初は犯罪に手を染めるしかないと考えていた。だが、そんな俺の前に現れたのが、エミリア先生だった。まあ、最初は警戒したさ。知り合いなど誰もいないこの世界で、しかも俺を無理やりここまで連れてきた連中が住んでいる世界だ。見る人すべてが敵に見えたし、最初はエミリア先生も敵だと思っていた」
ジェイは天井に向けてゆっくりと拡散していく煙を見つめながら、当時の光景を懐かしむように、穏やかな口調で先を続ける。
「だが、そうじゃなかった。エミリア先生は、俺に感応力の使い方から、この世界の一般的な知識を教えてくれた。そして、一般には知られていないような知識さえも。当時の俺は、それはこの世界に住む人たちの一般的な知識だと思っていた。だが、この探偵稼業を始めて、いろんな人と出会う中で、エミリア先生が授けてくれた知識は、そんな範疇に収まらないことを知った」
ジェイはヴァニッシュに微笑みかけるような視線を向けた。
「例えば、ヴァニッシュがさっき解説してくれた、最上階に住んでいた彼女だけが知りえたであろう、十二人委員会の件。俺は、エミリア先生から既にその存在を教えてもらっていたんだ。ほかの一般人が知らないそんな知識を、なぜエミリア先生が知っていたのか、不思議で仕方なかった。でも、それも当然だったんだな・・・。ヴァニッシュの話が本当なら、エミリア先生もかつては最上階層に住んでいたことになるもんな」
ジェイはここでまたもや苦笑を浮かべた。本題に入る前に、また話が脇道に逸れていたことに気付いたからである。
「まあ、それはいい。そんなエミリア先生から教わったことは、もう一つある。こないだも言ったよな。『真っ直ぐ、生き延びること』これがエミリア先生の信念であり、俺の信念だ。・・・そこでヴァニッシュに確認したいことがある」
ジェイは視線を真っ直ぐにヴァニッシュの瞳に向けた。
ヴァニッシュもジェイの目を真っ直ぐに見つめ、ジェイの言葉を待っていた。
「お前の依頼を受ける前に、確認しておかなければならないことがある。・・・お前は何がしたいんだ?」
ヴァニッシュは軽く目を見開き、ジェイの言葉に反論しようと口を開きかけた。だが、ジェイは手を振ってヴァニッシュが話そうとするのを封じ、彼女にもう一度問いかけた。
「ああ、言いたいことは分かる。だが、重要な話なんだ。お前は、アリアにもう一度会いたいのか? それとも、自分を捨ててでもアリアを甦らせたいのか?」
ジェイの言葉を聞いたヴァニッシュは、質問の意図を理解し、眉を寄せた。その二つは確かに似ているが、すべてが同じというわけではない。ジェイはヴァニッシュの心の底にある、自身の本当の願望を明らかにしろと迫っていた。
ヴァニッシュは下を向き、唇をかみ締めた。アリアを救うということが目的ということに変わりはないが、自分自身をどうしたいのか? ヴァニッシュは自問自答した。
「ヴァニッシュ、先に言っておくぞ。万難を排してアリアを救い、もう一度彼女に会いたい、という事なら、俺も喜んで協力しよう。お前の依頼を受けて、一緒に戦いたいと思う。俺だって、こんな訳の分からん刑罰のために死にたくはないからな。だが・・・」
ジェイは、その続きの言葉を、自身が出し得る最も冷たい口調でヴァニッシュに伝えた。
「だが、自分の身を捨ててでもアリアを甦らせたい、ということであれば、俺は協力できん。当然、依頼を受けることはない。エミリア先生に育てられたお前が、エミリア先生の信条に背くような行動をするのであれば、同じ教え子として見過ごせん」
「ちょっと、ジェイの旦那・・・。落ち着きなって。そんなことになったら、あんたも死ぬし、アリアさんもヴァニッシュも救われないし、最悪じゃないか」
ジェイはジュージューに向かって、断固とした口調で告げた。
「そういう問題じゃないんだ。俺はエミリア先生の弟子として、エミリア先生の子に聞いているんだ。さあ、どうなんだ? ヴァニッシュ」
ヴァニッシュは、しばらく下を向いたまま目を瞑り、考え込んでいた。もう一度、ヴァニッシュを名乗ると決めた日の決意を思い出していた。
やがて、ヴァニッシュは顔を上げ、ジェイの目を見つめながら、ゆっくりと答えた。
「・・・うん。私はもう一度アリアに会いたい。アリアに会って、謝りたい。そして、アリアの笑顔を見たい。確かに、何があってもアリアを救いたいのは確かだけど、私も『生き延びて』彼女に再会したい。うん。それが私の偽らざる願望だよ」
ヴァニッシュは晴れ晴れとした笑顔を浮かべていた。
そうか、とジェイは一言呟き、右手を差し出した。
ヴァニッシュは一瞬怪訝な表情を浮かべたが、ジェイの意図に気付き、同じように右手を差し出して、しっかりと握手をした。
だが、ジェイはまだ半信半疑だった。確かにこの場では、自分も生き延びるという答えを出したようだが、実際にその覚悟が試されるのは、そういう選択を容赦なく迫られる切羽詰った状況になるということは、ジェイにとってみれば火を見るより明らかなことだった。
『まあ、そういう場面がやってこないことを願うしかあるまい』
ジェイは、不器用ながらも心からの助言をしたつもりだった。それが本当にヴァニッシュの身になるのかどうかは、まだ分からない。
兎にも角にも、これでヴァニッシュの依頼は契約が成された。
ヴァニッシュが一年間、襲来する刺客からジェイを守り抜くという、私立探偵であるジェイと主客が逆転したような奇妙な依頼である。
もちろん、ジェイ自身は自分が守られるだけの立場に甘んじるつもりは毛頭なく、むしろ、ヴァニッシュをいかに守っていくか、それが自分の責務だと決めていた。
「それにしても、ジェイの旦那・・・。何だってまた、そんな柄にもなく説教くさいことをしちゃったのさ?」
ジュージューがジェイの心理を見透かすかのように、ニヤニヤしながら問いかけてきた。その、古代の子鬼さながらの、いたずら心を浮かべたジュージューの表情を見て、いつもの調子に戻ったと、ジェイは半ば安心感を覚えていた。ジュージューはやはりこうでなくては始まらない。
「ふん。子供を導くのは大人の役目だ。悔しかったら、お前も早く大人になるんだな」
そんなジェイの言葉を聞いたヴァニッシュが、ジュージューと同じような表情を浮かべ、明るい口調でジェイに一言告げた。
「あれ? さっきの私の話を聞いてなかったの? 私はこれでも年齢的にはジェイのお姉さんなんですからね!」
ヴァニッシュの言葉を聞いて、ジュージューは大きく吹き出し、ゲラゲラと笑い始めた。ヴァニッシュはいたずら心を表情に浮かべたまま、澄ました顔でジェイを見ている。
まさか、ヴァニッシュにもからかわれる事になろうとは夢にも思っていなかったジェイは、苦笑を浮かべながら、黙って合成タバコを吹かした。
しかし、これはいい兆候だと、ジェイは考えた。いつまで落ち込んでいても、事態は何も好転しない。もちろん、明るくなれば好転するというわけでもないが、これからの作戦会議で前向きな意見も出やすくなることだろう。そのためなら、自分がからかわれることくらい安い代価だと、ジェイは苦笑しながら自分を納得させた。
ただし。
ヴァニッシュが自分より年上というのは、やはり納得がいかないジェイでもあった。