4.果ての紫嵐 (その5)
その音は、かつて神の怒りの表われとも言われた、雷鳴のごとき凄まじいものだった。金属を無理やり引きちぎるような、通常の生活では絶対に聞こえてくるはずのない類の音。
ジェイに止めを刺そうとしていたハ・ラダーの動きが、その音でピタリと止まる。
一瞬の静寂の後、檻の一面が文字通り四散した。檻を構成していたいくつもの金属の棒は、引きちぎられ、捻じ曲げられ、その理不尽な暴力に翻弄された哀れな姿で飛び散り、一部は元の地面に帰っていった。
ハ・ラダーもジェイも唖然としていた。
ハ・ラダーの感応力で構築された檻を、いとも容易く破壊した者。それはヴァニッシュだった。
「お、おい、お前・・・」
ヴァニッシュの姿と力を目の当たりにしたジェイは思わず彼女に声をかけた。しかし、その返答は言葉ではなく行動であった。
ヴァニッシュはおもむろにジェイの手を掴むと、そのまま自らが開けた檻の大穴から外にジャンプした。ジェイの感覚では、ヴァニッシュに手を掴まれたと思った次の瞬間には、すでに外に出ていたという早業である。しかも、寸分違わずエリザとジュージューの傍に見事な着地を見せるという芸当までやってのけていた。
改めてヴァニッシュの姿を見たジェイは目を見張った。
『まるで古代のミイラ姿じゃないか』
ヴァニッシュと言えば、古風なドレス姿が似合う、可憐な少女のはずだった。しかし、今ジェイの傍に立っている少女は、可憐さとは程遠い風体だった。
ヴァニッシュのドレスは古風なだけではなく、大きく余らせた布地を後方に漂わせているという、特異な点があった。その余らせた布地が、今ではヴァニッシュの細い体にピッチリと巻きつけられ、さながら全身を覆うボディスーツのようになっている。その布は無造作に巻きつけられているのではなく、何かの意図に沿っていることは、布が織り成す幾何学的な模様からも推測できる。
さらに、いつもの帽子も余らせた布地が顔をほとんど隙間無く覆い、見事な金髪すらすべて覆い隠してしまっている。
それでも、いつもは余らせている布地がすべてヴァニッシュの体を覆っているのではなく、一部はそのまま頭上の帽子があった部分と背中から、さながら天使の羽根のように後ろにたなびかせている。
今のヴァニッシュの姿は、優美さとは無縁のものだった。しかし、ジェイは別の美しさが潜んでいることに気付いた。
それは機能美だった。
一切の無駄を排除し、極限まで機能を追及した結果備わった美しさ。ジェイは一瞬息を呑んだ。
「おい、ヴァニッシュ」
ヴァニッシュに事情を確認したいジェイと、彼女を心配するジュージューの声が見事に重なった。ヴァニッシュは、その視線をハ・ラダーに向けたまま、無造作に二人に答える。
「話は後で。私はあいつを排除しなければならないから」
その言葉を発し終わると同時に、ヴァニッシュは一気にダッシュし、ハ・ラダーとの距離を詰める。いや、それは「ダッシュ」などという生易しいものではない。ヴァニッシュは何十メートルという距離を一足飛びに、時間にすれば一秒もかからない間に、一気に敵との距離を詰めていた。
それは、とても人間業ではない。
ジェイとジュージューは、ヴァニッシュの変貌に目を飛び出さんばかりに見開き、唖然とした。
そして、唖然としたのはハ・ラダーも同様である。昨日から予想外のことが起き続けているが、今回は極め付けである。ようやく標的を感応物質の檻に閉じ込めたはずが、外部から圧倒的な力で破壊され、しかもその張本人は人間とは思えない速度で攻撃を加えてきている。そのあまりの速度に、ハ・ラダーは身をかわすこともできなかった。
小さな弾丸と化したヴァニッシュが、そのままハ・ラダーに激突する。
ヴァニッシュの小さな右手が、まっすぐにハ・ラダーの腕のガードごと腹部にめり込んでいた。二人はそのままもつれ合うように、ヴァニッシュの突撃の速度のままひと塊となって檻の反対側の格子に叩きつけられる。
しかし、それも一瞬のことで、二人の身体がぶつかった衝撃に格子が耐え切れなかったのか、大きな穴が開いてしまった。二人はそのまま檻を突き破り、ジェイたちのはるか彼方にまで飛んで行ってしまった。
『何だ? こいつは!?』
ハ・ラダーは、これまで喰らったことも無い衝撃に全身が支配されていた。これに比べれば、先ほどの『原初弾』の衝撃など、子供のお遊戯に等しい。
強化人間であるハ・ラダーであるからこそ、耐えられた衝撃であろう。いかに『闘衣』がある程度の運動エネルギーを吸収してくれるとは言え、普通の人間であれば身体が真っ二つにされても不思議ではない衝撃だった。
ハ・ラダーは状況を整理するために、さらにこの想定外の状況から逃れるために、ヴァニッシュから距離を取ろうと必死に抗う。単純な速度では、高軌道型の強化人間であるハ・ラダーですら、先ほど見せたヴァニッシュのそれには及ばない。
驚愕を押し殺して、冷静に彼我の戦闘能力の差を見極めるハ・ラダーは、確かに戦闘のプロだった。そんな彼が選択したのは、空だった。陸上での機動力に差がある以上、活路を見出すには空しかなかった。
ハ・ラダーは自身の装備を感応力で操り、空に飛んだ。しかも、速度は限界まで振り絞った。
これでハ・ラダーはようやくヴァニッシュから距離を取ることができた。全身を貫く衝撃を断固無視しながら、これからどうすべきか、頭脳をフル回転させる。
ハ・ラダーにとってもっとも厄介なのは、ヴァニッシュの謎めいた強さではない。相手の強さに合わせて戦い勝機を見出すことなど、戦闘のプロにかかれば日常茶飯事と言ってもいい。
問題は『強制』にあった。『強制』がかかったままでは、ヴァニッシュに攻撃を加えることができない。彼は喉の奥でうなり声を上げながら、依頼人に対する呪詛の言葉を吐いた。
しかし、愚痴を垂れても状況は何一つ好転しないことも重々承知しているハ・ラダーは、地上からこちらを見上げているヴァニッシュに対し、上空からブラスターを撃とうと試みる。『強制』がまだ継続していれば、当然そんな行動には制限がかかるはずだった。
ハ・ラダーにしてみれば、そこまで期待を持って行動していたわけではなかったが、予想外にもブラスターはその先端から熱線を勢いよく吐き出した。
もちろん、試しに撃ったエネルギー弾は、ヴァニッシュにはかすりもしていない。それは想定済みの事態ではあったが、『強制』が解除されていることに、ハ・ラダーは心底感謝した。先ほどの解除の試みが成功していたのか、それとも他の理由によって解除されたのか、それはハ・ラダー本人にも分からない。だが、これで、戦うにせよ逃げるにせよ、行動を掣肘されることが無くなったのだ。
ハ・ラダーは改めてヴァニッシュに向き直った。
まともに戦うことができるようになったとはいえ、ヴァニッシュの戦闘能力には謎が多く、真正面から戦うのはためらわれた。さらに、ヴァニッシュは標的ではなく、倒したところでハ・ラダーの懐に一銭すら転がり込んでくることは無い。となれば、ここは一旦退いて、標的であるジェイを後からゆっくりと始末するほうが得策であると、彼は判断した。
そう決断したハ・ラダーは躊躇なく空を駆け、逃走を開始した。万が一の追跡を撒くために、この開けた場所を逃げるのではなく、ビルと廃墟が乱立しているここに来た方角に帰っていく。
だが、その背を呼び止める声があった。
「逃がさない!!」
その声に振り返ったハ・ラダーは、彼と同様に空中を疾走しているヴァニッシュを見ることになった。
『嘘だろ!?』
空を飛ぶ技術は、実は誰にでもできるという簡単なものではない。感応力で物を投げるのは簡単である。物は痛みを感じないからである。対象が人間であれば、そうはいかない。
例えば、自身の服を感応力で持ち上げるとする。ここまでは比較的容易く行うことができる。しかし、これを一定の方角に飛ばそうとすると、繊細な感応力操作が必要になってくる。
上半身の服と下半身のズボンが向かう先が、ほんの一度でもズレていたとすると、上半身と下半身が違う方角へ向かうことになってしまう。さらに、それを超スピードで行おうとすると、最悪の場合は上半身と下半身がサヨナラすることもありえるのだ。
そういう理由で、戦闘中に超スピードで空を飛ぶというのは、長く厳しい訓練を受けた者でしか行えない難事なのである。
だが、ヴァニッシュは平然とそれを行っている。ドレスの余らせている生地が天使の翼どころか、航空機の翼のように広がり、威圧的な姿で何の苦労も見せず、優雅に舞うかのように鮮やかに飛行している。
さらに、その疾駆の速度はハ・ラダーを上回っていた。ハ・ラダーにとっては予想外という言葉では表現しきれないほどの驚きだったことだろう。
遥か上空を飛ぶハ・ラダーに対し、ヴァニッシュは地面から3メートルほどという低空を駆けていた。空中戦を望むのであれば、より高い位置にあるほうが有利になるはずである。しかし、ヴァニッシュはあえて低空を飛んでいた。ジェイは戸惑いながらもその点に疑問を覚えたが、その答えはすぐに明らかになった。
ヴァニッシュは大きく開けたこの場所から、ハ・ラダーを追いながら、ビルが乱立する路地に飛び込んだ。ハ・ラダーはヴァニッシュの意図がまったく掴めなかったが、次の瞬間、またもや驚愕に襲われることになった。
ヴァニッシュは飛びながら右手を差し出し、目の前のビルの壁面におもむろに突き刺した。感応力で壁面の硬度を下げたようには見えず、超スピードで繰り出した右の抜き手がそのまま壁面に刺さっていた。
突然、ドレスの布地で何重にも覆われたヴァニッシュの右手の太さが、倍以上に膨れ上がった。
なんと、ヴァニッシュはそのまま10階建てはあろうかというビルを右手一本で、いとも容易く引き抜いてしまった。
ジェイの目からは、ヴァニッシュが感応力を使っているようには見えなかった。何の集中も見せず、まるでジェイが道端の石を拾うかのように、何の抵抗もなくアッサリとビルを引き抜いてみせた。
ハ・ラダーは上空で逃げることも忘れて、唖然としていた。彼自身も先ほどビルを空に舞わせてみせたが、何秒か集中して感応力を使ってのことである。さらに、ビルの質量が違いすぎる。ハ・ラダーから見ても、ヴァニッシュの力は異常なものだった。
次の瞬間、ヴァニッシュが右手を強烈に振り切ると、引き抜かれた哀れなビルは音速すら超えて、衝撃波を放ちながらハ・ラダーに襲い掛かった。
ハ・ラダーはその異様な光景を見て正気を取り戻したのか、こちらに向かってくる大質量の物体を避けるために慌てて最高速度で飛行を再開する。自身に近寄る感応物質を自動的に弾くフィールドは健在であったが、この質量と速度相手ではまったく役に立たない。まともに食らえば、『闘衣』の運動エネルギー変換装の限界すら遥かに超え、致命傷になるのは間違いない。
ハ・ラダーは感応力を振り絞り、命がけで飛んだ。かなり上空に位置取っていたのが幸いした。ハ・ラダーはギリギリのタイミングで、かつてビルだった凶悪な兵器を辛うじてかわすことができた。だが、ビル本体は避けることができたが、超音速の物体が放つ衝撃波まではかわすことができなかった。
『闘衣』による相殺があったにもかかわらず、ハ・ラダーはまるで全身がバラバラにされるかのような衝撃を味わった。さらに、鼓膜は破裂し、三半規管は揺さぶられ、平衡感覚が完全に消失してしまった。
その結果、先ほどの檻を破壊したヴァニッシュの一撃もかくやという盛大な音を上げ、ハ・ラダーは成す術なく地上に墜落することになってしまった。
今度は演技ではなく、完全に身体を動かすこともできずに地面に横たわるハ・ラダーに向かい、ヴァニッシュが一気に間合いを詰める。そして、そのままの勢いのまま、ハ・ラダーの腹部に一撃を加える。
ハ・ラダーの身体から、肋骨が砕ける音がする。それは、遠く離れているジェイの耳にも届くほどの凄まじいものだった。
ヴァニッシュの一撃で敵は完全に意識を失い、沈黙していた。
その敵をヴァニッシュは無表情に眺め、彼の身体にまたがったまま右手を大きく振り上げた。その掌は抜き手を形作っており、ハ・ラダーの喉かどこかをえぐり出して止めを刺そうとしていた。
その異様な光景を見たジェイは思わず叫んでいた。
「ま、待て! ヴァニッシュ!!」
その声が届いたのか、ヴァニッシュは振り下ろそうとしていた手をピタリと止めた。そして、ジェイに振り返り、ゆっくりと右手を下ろした。
ジェイとジュージューは急いでヴァニッシュに駆け寄った。ヴァニッシュの異様な姿と異常な戦闘力を目の当たりにし、ハ・ラダーに負けないほど困惑していた二人だったが、ヴァニッシュのような少女に戦わせることも、そして人殺しをさせることも望んでおらず、そのような行為から彼女を引き剥がしたい一心で、何の躊躇いも見せず駆け寄った。
ヴァニッシュはいつの間にか立ち上がり、元のドレス姿に戻っていた。その表情は暗く、思いつめた表情でジェイを見つめていた。
そんな表情をしている彼女になんと声をかければいいのか分からず、ジェイは一瞬声に詰まった。だが、確認しなければならないことがあった。
「ヴァニッシュ・・・ひょっとして記憶が戻ったのか?」
ヴァニッシュはジェイの質問に、肯定の意を見せ首を頷かせた。
「うん。まだ思い出せないことも、いくつかあるみたいだけど」
「じゃあ・・・」
「ううん。私から先に言わせて」
ヴァニッシュはジュージューの質問を遮り、ジェイの瞳を真っ直ぐ見つめながら、何かを決心したような表情で口を開いた。
「ジェイ。改めてあなたに依頼します。事務所では中途半端な形で終わってしまったから」
ここでヴァニッシュは自身を落ち着かせるように深く息を吸い、続きを話す。
「ジェイ、お願い。私にあなたを守らせて」
ジェイの思考が停止した。一体何を言っているんだ?と、ジェイの表情は告げていた。
それもそうであろう。ハ・ラダーの標的はヴァニッシュだと思い込み、彼女を守るのが依頼だと思い込んでいたジェイにとって、まったく逆の事実を告げられたのだから。
ハ・ラダーの標的はジェイであり、そのジェイを守りたいと可憐な少女であるヴァニッシュが告げている。ヴァニッシュの戦闘能力を見る前であれば、性質の悪い冗談だと一笑に付すこともできただろうが、ハ・ラダーを圧倒した彼女の力と、真剣なその表情を見た後では、そうも言っていられない。
混乱し呆然とする、ジェイとジュージュー。そして、真剣にジェイを見つめるヴァニッシュ。
何とか千々に乱れた心を落ち着かせ、ヴァニッシュに質問の雨を降らせようとしたジェイだったが、そこに乾いた拍手が割り込んできた。
「おめでとう! 美桜! 記憶を取り戻したようだね」
ジェイはギョッとして音の出所を探った。今回もジュージューとパルサーの反応が早く、即座にその位置を特定し、ジェイに告げた。
「あそこの離れたビルの屋上だ! 二人いるぞ!?」
ヴァニッシュが放り投げたビルから三棟離れたビルの屋上に、確かに二つの人影があった。そのうちの小柄な人物が大仰に拍手を響かせていた。
何者か見極めようとするジェイだったが、二人は深くフードと帽子をかぶっており、顔までは確認できない。しかし、ジェイの勘は、こいつらがハ・ラダーに依頼した人物だと告げていた。
ヴァニッシュは屋上の二人をジッと睨んでいる。その表情は、先ほどまでよりもさらに険しいものになっていた。
「貴様らは何者だ!?」
ジェイの当然の疑問に対し、小柄なほうの人物が冷ややかに返答する。
「ふん。美桜の記憶が戻ったのだから、彼女に聞けばいいことだろう。時間を無駄に使わせるな。哀れな羊の分際で」
その返答を聞いて頭に血が上ったジェイは、舌鋒鋭く嫌味交じりの質問を再度ぶつけようとしたが、ここであることに気付いた。
二人のうち、小柄な人物が着ていたのは、真っ赤なドレスだった。しかも、ヴァニッシュのそれと瓜二つといっていいものだった。ドレスだけではなく、風変わりな帽子までもそっくりだった。
さらに、もう一人の大柄な人物も、ドレスではないが大きく布の束を余らせたマント姿という異様な出で立ちだった。余らせた布束は、身体の回りをヒラヒラと舞い、ゆっくりと波打つように回転していた。
最早、勘に頼るまでもなく明らかな事実が一つあった。
「ジェイ、あの二人の装備からも感応物質を検出できません」
「だろうな・・・」
ジムの分析を待つまでもなく、それは予想できることだった。ヴァニッシュに似た装備を持つ二人。
そして、恐らくはハ・ラダーの依頼人で、彼に『強制』すらかけることができる人物。
この二人が、遥か上階層の人間だということだけは明らかだった。