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Angel:Vanish  作者: 桂里 万
第一章 始まりの鐘が鳴る
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1.鐘の色

 男が一人、狭くはあるがよく整えられた部屋のなかで、タバコをくゆらせながら椅子の背にもたれかかっていた。

 安物の椅子は男の体重に苦情を寄せるかのように小さな悲鳴を上げるが、男は特に気にする様子もなくタバコを楽しんでいた。

 その口元には微かに笑みを浮かべているようにも見えるが、もともと表情を顔に出さないタイプなのか、彼をよく知らない者が見れば仏頂面と断言しそうな表情である。


 男の前に備わっている机の上にはガラス製と思われる丸い灰皿が一つ置かれ、その傍には、他愛もないニュースを深刻な表情で喧伝するニュースキャスターの、愚にもつかない立体映像が表示されていた。

 男はしばらくニュース映像を見つめ、やがて興味なさそうに映像に向かってタバコの煙を吹きかけると、立体映像は煙とともに瞬く間に消え失せ、机の上には灰皿だけが寂しく取り残されることになった。


 男の背後には、狭い部屋には不釣合いなほど大きな両開きの窓があり、その表面を小降りの雨が静かに叩いている。

 窓の外は午前11時という時刻に不似合いなほど薄暗く、男は『ここ数年、人工太陽の出力が下がっている』という勝手な自説に対する確信を深めていた。

 もっとも、これは人工太陽の出力不足などではなく、雨の空には雲がかかり薄暗くなるという、古代の法則を天候局が忠実に再現しているだけのことである。天候局のこだわりなど税金の無駄遣いの最たるものだ、と男は決め付けているが、古代の天候を再現する行為自体は大衆から大いに歓迎されているという点を認めないわけにはいかない。

 どんな雨であろうと雷雲であろうと、完全に発生時刻まで天候局に管理されているのであれば、大衆にとって不都合なことなど何も無い。結局、無駄と思える行為こそ人間には必要なのだ、というある種の真理はいつの時代であろうと変わらないらしい。

 しばらく雨音とタバコを道連れに、穏やかではあるが無為な時間を過ごしていた男の耳に、部屋の片隅から来訪者を告げる無機質な電子音が響く。男は天井に向けタバコの煙を一息で吹き出し、電子音に負けじと無機質な一声を上げた。


「通していいぞ、ジム」


 男の声を待っていたかのように電子音は何事も無かったかのように鳴り止み、代わりにフロアの入り口を守るロックが音も無く解除される。

 続いて、男にはお馴染みの、ヒールの高い靴が響かせる、きびきびとした足音が部屋の入り口に近付いてくる。男にとっては、いつもと変わらない日常が今日も始まることを告げる聖なるラッパの音だ。


「失礼します」


 ノックも無く、黒のタイトスカートと胸元を開いた真っ白なブラウスに身を包んだ女が、軽やかに舞う風のように、部屋に入ってくる。


「おはようございます、ジェイ」


 女は男に向かってニコリとしながら挨拶する。


「ああ、おはよう、エリザ」


 ジェイと呼ばれた男は幾分ぶっきらぼうに、それでも先程までよりは僅かに唇の端をゆがませて挨拶をする。どうやら彼なりに微笑んだということなのだろう。

  それを聞いて、エリザと呼ばれた女性はもう一度ニコリと微笑むが、ジェイの咥えたタバコを見て僅かながらも眉をひそめる。エリザの視線を敏感に察知したジェイは、やや気まずそうに言い訳をした。


「合成ものだよ。君の健康に悪影響を及ぼすようなことは無い」

「あら、天然ものが買えるような財政状況でしたら、事務所の未来について私があれこれ悩む必要はありませんよ」


 エリザの身も蓋もない言葉に、ジェイは小さく首を振る。そんなジェイの姿を見つつ、エリザは更に追い討ちをかけるように、そしてジェイをからかう様に一言付け加える。


「合成ものでも天然ものでもいいのですが、その匂いにはまだ慣れることができない、というのが率直な意見ですね」


 それもそうだろう。はるか古代より伝えられたタバコという人類の友、あるいは悪友と呼ばれるべき存在は、既に一般社会からその姿をほとんど消し去っており、喫煙者は社会のごく少数、さらに天然ものの喫煙となると、金をドブに捨てるのが趣味という気まぐれな富豪のみに許された行為である。合成ものとはいえ、ジェイ以外の喫煙者はこの地区に存在しないのではないか、とエリザは考えており、おそらくは事実からそう大きく外れた予測でもないのだろう。


「ああ、悪かったよ」


 ジェイは僅かに苦笑めいた表情を浮かべながら、タバコの先を机上の灰皿に押し付け、そのささやかな灯火を永遠に消し去った。

 その様子を眺めていたエリザはもう一度ニコリとし、そして唇を尖らせ皮肉っぽく言う。


「そうですよ。タバコの煙はあなたの大事な蔵書にも悪影響を及ぼしますよ」


 その言葉を聞いて、ジェイは先程よりもう少しはっきりとした苦笑を表情に浮かべる。

(そんなわけはないだろう)

 天然の木材の繊維を使用した紙と呼ばれる記録媒体をまとめた、本と呼ばれる存在。

 タバコは未だごく一部の物好きに愛される友ではあるが、本に至っては、上位階層にあると噂される元老院付属博物館にすら現物は存在しないだろう。

 もちろん、この部屋の脇の本棚に申し訳なさげにまばらに並んでいる蔵書も、本の形を真似た単なる光記録端末であって、もちろんタバコの煙などに影響されることはない。

 しかも、先程から室内の空気を清浄化するために、部屋の壁面、床面、天井面に存在する清浄化ユニットの全てが自動的にタバコの煙を分解しているはずである。「はずである」・・・というのは、その作業を部屋の住人に気付かせるような動き、音、熱、そういった類のものは全く発せられないことから、ジェイたちにはユニットの作動を確認することができないためである。

 エリザはいつもの微笑を浮かべながら、ジェイに言った。


「まずは、コーヒーでも淹れましょうか?」

「ああ、頼む」


 エリザは微かに首を傾け同意のサインを見せ、自慢の髪を揺らしながらクルリと翻り、入室した際と同様の軽やかな足取りでドアを出て、キッチンスペースに向かって行った。



「エリザにはかなわないな・・・」


 部屋から出るエリザの後姿を見ながら、ジェイはぼんやりとエリザについて考えていた。どう控え目に表現しても、自分の事務所にはもったいない人材と言う他ない。

 肩まで広がる濃い目の茶色の髪、見るものを惹きつけて止まない貴重な天然物の紅玉(もっとも、ジェイは天然物の紅玉を実際に見たことはないのだが)にも似た赤い瞳、透き通るように白く、しかし病的な白さではなく肌の下に潜む血の流れが透けて見えるような健康的な白さを誇る肌、すらりと伸びた長い手足、豊かな胸。そして、それらの美点すら霞ませるほどの類いまれな美貌。やや切れ長な目、スッと通った鼻筋、やや薄いながらも常に微笑をたたえる唇が絶妙なバランスで配置され、芸術的な美貌を作り上げている。

 しかし、それはあくまで彼女と対面している時の印象であって、後に彼女のことを思い出そうとするとなぜか細部の印象がぼやけ、敬慕すべき美貌の持ち主という印象だけが残される。

 おそらく、あまりにも見事に整いすぎているため、逆に記憶に残りづらいのかもしれない。確かに、ある程度独特な特徴があったほうが記憶には残りやすいのだろう。

 彼女を見て、その美貌を最大限に生かす仕事こそが天職であると誰もが考えることだろうし、ジェイもその意見には積極的に賛成したいところではあるが、現実には小さな私立探偵事務所の所長付きの秘書を生業としている。所長付きの秘書といえば聞こえはいいが、何のことはない、所長1名、秘書1名の最少人員で構成された最小の組織の構成員である。

 ジェイにとってエリザの美貌は他の男と同様に非常に価値のあるものであったが、ジェイはそれ以上にエリザの事務処理能力を高く評価していた。

 昨年飛び級で大学を出たばかりの20才という若輩にも関わらず、各種端末の操作、情報の分析、整理、依頼者や関係者との細かい折衝、調査に必要な知識、など秘書としての能力はどこをとっても水準以上であり、ジェイが必要としている以上の能力でもある。噂によれば、大学で素材工学を専攻し、卒業後は研究室に是非残ってほしいとの熱烈なお誘いもあったらしい。

 それがなぜ、こんな場末の探偵事務所で冴えない所長の秘書をやっているのか?それはジェイ自身も不思議に思ってはいるが、女性の過去をあれこれ詮索するのは何となく憚られ、結局詳しい事情は知らずじまいである。なにやら、つまらない現状に見切りを付けた、とかそんなことを言っていた気もする。

 とはいえ、そんな事情に関係なく、エリザが立派な秘書であることに疑いの余地はない。古代の勝利の女神二ケーを髣髴とさせる秘書をいただくこの探偵事務所に足りないものは、エリザの美貌に釣り合うだけの、あらゆる危険を顧みず、あらゆる困難に打ち勝つ男の中の男である探偵と、そして、エリザの事務処理能力に相応しい、数々の華やかな依頼である。もっとも、現状ではその双方とも望むべくもないことは、所長のジェイ自身が身に染みて分かっていることだ。



「砂糖とミルクはいつもと同じでよろしいですか?」


 扉の向こう、キッチンスペースの方からエリザの声が聞こえてくる。

 ジェイは小さくニヤリとし、右の壁に並ぶ本棚の上方に向かって思念を凝らした。

 すると、壁面から小さく透明なスクリーンが現れ、ジェイのいる机上まで、まるで羽が生えているかのごとく文字どおり飛んできた。その机上にやってきた双方向通信用スクリーンは、一枚の紙以下の薄さにも関わらず、特に何かに支えられているわけでもないのに、ジェイが見やすい位置にしっかりと立ち、その表面にはキッチンスペースでコーヒーを淹れているエリザが映っていた。

 ジェイはスクリーンに向かって話しかけた。


「エリザ、砂糖とミルクはいつもどおりたっぷりと、な」


 その声を聞き、エリザはスクリーンを真っ直ぐ見つめ返し、返事をする。


「了解です。いつもどおり、『天使のように純粋で、愛のように甘いコーヒー』ですね」


 その返答を聞いたジェイは今度こそ笑い声を上げた。


「そのとおり。君もようやく古代の作法が身についてきたようだね」

「それはお褒めの言葉と受け取ってよろしいのでしょうか、ジェイ?」


 スクリーンの中のエリザも小さく笑っている。ジェイはエリザの疑問には答えず、別の一言を付け加える。


「それから、エリザ。事務所の全機能の使用を許可するよ」

「はい、ありがとうございます」


 エリザは一言礼を言い、ジェイに向かってウインクすると、不意にスクリーンからエリザが消え、元の白い画面に戻った。どうやらキッチンスペース側のスクリーンをエリザが壁に戻したようだ。

 エリザの長所でもあり、また愛すべき短所でもあるのだが、彼女には生真面目な一面があり、事務所内の機能の使用は、所長であるジェイが許可するまでは絶対に行わないのである。

 ジェイにしてみれば、そんな許可など求めなくても自由に機能を使ってくれて構わないのだが、エリザにとっては事務所の一応のボスであるジェイの許可なく事務所の機能を使用することは、天に弓引くがごとき大罪であるらしい。

 スクリーンの使用許可が出ていなかったから使用せず、キッチンスペースから声を張り上げるなど、いかにもエリザらしい行動だと言う他ない。しかし、彼女の愛すべき生真面目な一面は、本人の言によれば、いい加減なところがあるジェイと釣り合いが取れていてちょうどいい、ということらしい。いい加減なところがある・・・それはかなり控えめな表現だ、とジェイは他人事のように論評した。


 間もなく、ジェイがいる居室のドアが音もなく開き、凝った作りのコーヒーカップ2つとコーヒーポットを載せたトレイを、その豊かな胸の前に浮かべたエリザが靴音も高らかに入ってきた。

 トレイはエリザの前の空間に何の支えもなく浮かんでおり、エリザが歩き出すと、同じ速度で空中を滑るように移動を始める。

 エリザが床を軽く見つめると、その床から、形はいいがやや小さなテーブルと、座り心地のよさそうなゆったりした一人掛け用のソファが、窓辺の椅子に座るジェイに向き合う格好で突然現れた。

 これは床の一部がテーブルとソファに変化しただけであり、現れたというよりは生えてきた、という表現のほうがより正確だろう。傍目から見れば、エリザの容貌と相まって、まるで美しい魔女に恋した魔物が、魔女の願いに応じて一瞬にしてテーブルに化けたかのような錯覚さえ覚えさせる。

 しかし、これもまた単なる事務所の機能であり、世間一般の家に大抵備わっている機能でもある。

 エリザがトレイに視線を投げると、トレイは音もなく空中を移動し、テーブルの上にふわりと着地する。一連の動きはジェイから見ても舌を巻くほど滑らかなものであり、エリザの『感応力』の確かさに感心せずにはいられない。

 エリザの前任者は、テーブルの上にトレイを叩きつけるかのような操作しかできなかったことをジェイは不意に思い出し、苦笑する。もっとも、以前の秘書は『感応力』が低かったわけではなく、単にジェイが命じる雑用に嫌気が差していただけなのかもしれない。

 テーブルの上にトレイが落ち着いたのを確認したエリザは、少しばかりスカートの丈を気にしながらソファにゆっくりと腰を下ろした。

 ソファは堅い床から生み出されたものであるはずだが、そのクッション性、座り心地は、極上のソファと言っても差し支えないように見え、実際、エリザも気持ちよさそうにゆったりとくつろいでいる。

 二人はテーブル上のコーヒーカップを見つめ、その瞬間、二人の合図を待っていたかのように2つのカップがふわりと浮き上がり、そして、それぞれが自分の主人の手元に向けて空中を滑っていった。

 空中を浮遊するカップを見比べてみると、幾分エリザのカップのほうが滑らかな動きを見せているようで、ジェイのカップはごく微かではあるが、細かく振動しているように見える。

 エリザは優雅な仕草で空中を飛んできたカップとランデブーを果たし、少しうつむいてカップに顔を近付け、形のいい鼻をふくらませてコーヒーの香りを満喫し始めた。


「あっ!」


 焦ったようなジェイの声が耳に届いたエリザは、はっと顔を上げる。見ると、ジェイのカップが到着を待つ本人の目の前の空中で少し傾き、中身が危ういバランスを保っていた。エリザは反射的にジェイのカップに意識を集中し、カップの傾きを修正しようと試みるが、ジェイのカップは不安定に傾いたまま、ゆっくりとした動きでジェイに近寄るだけである。

 ジェイは慌てて椅子から立ち上がり、手を目いっぱい伸ばし、傾いていたカップをなんとか手に取り、エリザがわざわざ淹れてくれたその中身を、床や机にこぼすことを防いだ。


「ふう・・・」


 安堵の吐息を漏らしつつ、ジェイとエリザは顔を見合わせて小さく笑った。


「気を付けてくださいよ。あなたのカップは私の感応力じゃ操作できないんですから、落としても助けてあげられませんよ」

「ああ、驚かせて悪かった。やっぱり細かい操作はどうも苦手でね・・・。結構な金を払って作った、折角の専用カップだし、気を付けないとな」


 ジェイは自慢の専用カップを軽く撫で、机上に置いた。




『感応力』

 それは、人類が進化の過程で獲得した新たな脳から生じる新たな力のことである。今では感脳と呼ばれるその脳は、旧人類が獲得した前頭葉の更に前部に位置している。

 この脳の機能、役割について、発見当初は謎に包まれたものであったが、研究が進むにつれ、感応力の存在が徐々に解明されていき、感脳は特定の波長を有する一種の電波のようなものの送受信を行うことができることが証明された。便宜上、一種の電波、と表現したが、強い電磁波の影響下でも出力を減衰することなく送受信を行うことができ、今では、自然界を支配する重力、電磁気力、弱い力、強い力の4つの力に続く第5の力『感応力』として認知されている。

 もっとも、感応力の存在が証明された当初は、感応力の重要性は全く認識されておらず、稀に感脳を持つもの同士で、それもかなり強い力を持ったものであれば、相手の感脳に働きかけ、超一流の催眠術師による催眠のように相手の意志を操ることができる、といった事例が報告されているに過ぎなかった。

 そんな中、感応力について一大転機となる発見があった。

 感応力に反応する物質『感応物質』の発見である。

 その物質は一種の合金であり様々な特性を有していたが、最大の特徴は、感応力に反応し運動エネルギーを得ることにあった。感脳から発した感応力を受信した感応物質は、その念じられた内容通りの動きを見せる。感応力の強い者であれば感応物質を自由自在に飛ばすこともでき、感脳を持たない旧人類からすれば、感応力とはまさに超能力と呼んでも差し支えない力であった。

 ただ、それだけであれば旧人類にとって大きな問題にはならなかったであろうが、不幸なことに、感応物質は様々な物質に組み込むことができることが、早々に発見されてしまったのである。日常生活に使う金属はもとより、プラスチック、合成繊維、紙、等ありとあらゆる物に感応物質は組み込まれていき、感脳を持つ新人類は感応力により旧人類以上に便利な生活を謳歌することになった。

 更に、新人類たちによる科学上の様々な重要な発見も重なり、次第に旧人類が新人類を敵視するようになったのは必然と言う他ない。その後の旧人類と新人類の対立の詳細は、最早歴史の闇の中に消え去ってしまっているが、新人類たちは自らが住む『階層世界』を作り上げ、そして現在に至っている。


 旧人類由来のコーヒーを飲みながら、二人はゆったりくつろいでいた。

 ジェイは農耕世界として名だたる第5階層産のとっておきの逸品の芳しい香りを楽しんでいたが、エリザはややせわしげにコーヒーを飲み干そうとしている。エリザの次の台詞が想像できたジェイは、残ったコーヒーを名残惜しそうな素振りを見せつつも一気に飲み干し、エリザが口を開くのを待った。


「ジェイ、そろそろ仕事の話を始めてもよろしいでしょうか?」


 先程までよりも、やや事務的な口調になったエリザの言葉を聞き、ジェイもやや背筋を伸ばし、そして首を頷かせてエリザに話を続けるよう合図した。

 エリザが空のカップの置かれたテーブルに向かって思念を凝らすと、テーブル上の空中に様々な情報を表示した画面が現れる。もちろんこれもエリザの感応力に応えた事務所がスクリーンを表示しているのである。


「残念ながら、今日は依頼人の予定は入っていません」


 エリザは画面を確認しながら、努めて事務的な口調で淡々と告げるが、心中は苦々しく思っていることと容易に想像が付いた。


「今日『は』じゃなく、今日『も』と言うべきじゃないかな?」


 ジェイはやや憮然としながらそう告げる。


「治安警察からの依頼ならいくつかあるのですが・・・」

「悪いが却下だ。却下」


 ジェイは片手を振りながら、エリザの報告を途中で遮った。治安維持の名の下に上階層から派遣されている治安警察は、この第1層の平均的な住民よりもかなり強い感応力を持ち、またそれに根差した選民意識も相まって、警察組織としてはかなり下級と言わざるを得ないほど綱紀が緩んでいる。

 これまで治安警察の横暴の被害に遭った住民は数知れず、必然的に住民からは忌み嫌われる存在になっており、自称模範的な住民たるジェイもまた、その例外ではなかった。


「治安警察絡みの依頼なんて受ける気は全く無いぞ。治安警察を相手取る依頼なら喜んで受けるがな」

「そう言われましても・・・」

「ああ、治安警察と面と向かって戦おうなんて依頼があるはず無いよな。とにかく、治安警察からの依頼はすべて却下だ。俺に無実の人間を陥れたりする趣味は無いからな」


 この話はここまでだと言わんばかりの断固とした口調でジェイが告げると、エリザはため息混じりに問いかけてきた。


「それでは、今日『も』飛び込みの依頼が来るまで待ちましょうか?」

「ああ。・・・悪いな」


 ジェイは最後に一言侘びの言葉を付け加えた。エリザほどの有能な人材を無為な時間に縛り付けることは、犯罪とまではいかなくても、社会全体の生産性という観点からすれば充分犯罪的であることは明白である。侘びの言葉は、エリザに向けてのものなのか、社会に向けてのものなのかジェイ自身にもよく分からなかった。

 突然、エリザは立ち上がった。


「まあ、今日は昨日と同じ日というわけではありませんし。それに」


 そして、左手を事務所の入り口の方角に向かって大きく振りながら、言葉を続ける。


「今この瞬間にも依頼人が事務所のドアの前に立っているかもしれませんよ」


 ジェイは小さく微笑みながらエリザに返答しようと口を開きかけたが、その瞬間を遮る出来事が突然起こった。



 ジリリリリリリリリリリリリリリリリ



 それは、目覚まし時計にも似た、ベルの電子音であった。その耳障りな音が、大音量で部屋に響き渡ったのである。


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