奈落の男7
雅臣が帰宅したのは夜更け頃だった。幸いにして留守を荒らされては居なかった。中に入り、入口のドアをロックするとコートをクロークに掛け、コートのポケットの中身を手に持って居間へ移動する。室内照明をつけて、手にしたエクステ、通信端末、紙片等をテーブルに置くと、ソファに寝そべり、靴を脱ぎ、手近にあるまだ中身のある合成酒の瓶を取る。持参した合成酒の瓶は中身がカラになったので帰宅途中で捨ててきた。
雅臣は合成酒を煽ってやっと一息ついたと思った。さすがに今日一日中のあちこちへの移動は堪えた。〈出島〉内での長距離の移動は大抵の場合、中層部の公共交通機関が利用される。下層部の公共交通機関は、治安の悪化が原因でもう何年も前に運行休止状態になってしまったからだ。その為、下層部に住む雅臣が〈出島〉内で別の下層部へ長距離を移動する場合は、下層部をひたすら歩くか、一旦中層部に上がり公共交通機関を利用して目的地近くまで移動し、そこから下層部に降りるしかなかった。もちろん、前者を選択した場合、雅臣は今日中に帰宅出来なかっただろう。ひょっとしたら、途中で誰かに襲われて生きて帰って来られなかったかもしれない。
テーブルの上のリモコンを取りテレビの電源を入れると、三百種類以上の番組表アドレスの中からまずはニュース配信専用アドレスを選択した。特に番組を見たかった訳では無く、ただ今は室内に除湿機の作動音以外の人の作り出す音が欲しかった。3DCGでモデリングされたアナウンサーは淡々とニュースを読む。雅臣はもう一口、合成酒を煽ると、目を閉じた。今日はもう休もうか、そう思った矢先に視界内に洋子が現れた。視神経からの入力回路に直接画像情報を入力してくるので、目を閉じてもお構いなしだった。
『おかえりー』
『ただいま……。なぁ、今日はもう寝ようかと思っていたんだが』
『その前に、ちょっとだけ話を聞かせてよ』
『ちょっとだけだぞ』ここで、無下に断って粘られるより、納得して帰ってもらった方がいい。普段はそうしない様に言い聞かせているが、洋子がその気になれば補助電脳の機能をフルに使って俺の睡眠を妨害してくるだろう。なぁに、ほんの数分だと、雅臣は判断した。『経過はかなり省くが、エクステは手に入れた』
『へー、凄い凄い!』
『それから、どうやらあのエクステをばら撒いているヤツが居るらしい』
『ふーん、それで?』
『今日はそれだけだ』
洋子のアバターは何かを考えているようなアニメーションを表示している。雅臣はそれが良い睡眠導入効果になって眠りに陥りそうだった。
『せんせーっ』
『何だ?』
『で、着けてみないの?』
『……、何を?』
『あの、エクステ』
『……、馬鹿言え!』雅臣は飛び起きた。『何で俺が、あんな得体の知れない物を着けなきゃならないんだ』
『えー、面白そうじゃん』
『ダメだ、ダメだ。お前が何と言おうと絶対ダメだ』洋子のアバターは詰まらなさそうな表情を見せる。『いいか、これは警察が欲しがっている証拠品だぞ。勝手に使うと証拠能力が消えるかも知れないんだ。そんな迂闊な真似は絶対ダメだ』
『でも、着けてくれたら、あたしがチョチョイのパッパでそれが何だか解析出来るのに』
確かに、洋子が凄腕のハッカーだとしたなら、そうなのだろうと雅臣は思った。だが、それに賭けてみようとは思わなかった。
『いや、それは俺の、いいや、俺達の仕事じゃない。そして、俺はお前の好奇心を満たす為に命を張るような真似はしない!』
『……』洋子は沈黙した。
『分かったら、この話はもう終わりだ』
『こんな所に住む様な、やさぐれた生活をしたり、一時期は自殺を考えてたりしていたのに、今じゃ、命が惜しくなった、って言う訳?』洋子が尋ねる。
『お前、俺を怒らせたいのか?』
『分かった、あの女にいい所見せたいんでしょう? 荒川和美?』
『洋子!』洋子の目論見は不明だが、それが雅臣を怒らせる事だとするならば成功したようだ。血中酸素濃度をモニタ出来る筈だから、洋子もそれを悟ったはずだ。
『ごめん……、言い過ぎた』
『……、よし。よく素直に謝った。俺は大人だからお前を許してやる』雅臣は洋子に言うと同時に、自分にも言い聞かせた。『じゃ、この話は今度こそ終わりだ』雅臣は再び、ソファに横になる。洋子のアバターはいじけたアニメーションを表示している。
『もう、良いだろ。それに前と違って俺も最近は自分の命を多少は大事にしたいと思ってるんだ。』雅臣は本音を打ち明けた。今のこの生活も捨てた物じゃないと雅臣は思い始めていた。それには少なからず、洋子の存在も起因していた。『生きているうちに、やっておきたい事もあるしな』
『それって、なによ?』
『そうだな……、生きているうちに、フロリダのマイアミビーチでサーフィンをしてみたい』
『ホントに?』
『嘘だ』
『……』洋子のアバターが顔を真っ赤にして手を振り回して怒り出すアニメーションになった。
『はははっ、そう怒るなよ。これでおあいこだ』
『……分かった、許してやる』洋子は自分に言い聞かせる様に答えた。
『よし、これで仲直りだ』雅臣は微笑んでいた。洋子のアバターの口元にも笑みが出ていた。『じゃ、俺は寝るぞ』雅臣はもう、ベッドまで歩いて行くのも面倒になった。テレビを消そうとテーブルの上のリモコンに手を伸ばしテレビ画面を見る。その時、今まで洋子との会話で上の空だったテレビの音声をはっきりと聞いた。アナウンサーは確かに、“警視庁メガフロート署刑事課”と言っていたのだ。『洋子、洋子!』雅臣は洋子に声を掛ける。
『何よ?』
『頼みたい事がある』
『何を?』
『今日のニュースで、警視庁メガフロート署刑事課についてのコメントがあるニュースのログを見せてくれ』
『分かった』洋子のアバターがパッと消える。
雅臣はアナウンサーが再度同じニュースについて話さないかを確認したが、このニュース番組は録画ループ放送だった為、後数時間経たないと確認が出来なかった。他のニュースアドレスも同様だった。
『お待たせ』洋子のアバターが表示される。
『どうだった?』
『ニュースは一件だけ。一番詳しいのを取ってきたわよ』ニュースログが視界内に、ポップアップ表示される。
“本日十七時三十分頃、メガフロート中層部F―245のアパートにて爆発事故が発生。この事故で、中層部F―245のアパート警視庁メガフロート署刑事課の御岳勇次巡査部長(27)と東亜不動産社員の佐々木康生さん(42)が共に重体。爆発の原因は不明で、現在メガフロート署で捜査中”
雅臣は不謹慎ながら安堵した。と同時に明日、和美に証拠品を渡しに行くのは骨が折れそうだと思った。
『ねぇ、ひょっとしてなんか面倒な事になってる?』洋子は雅臣に尋ねた。
『……ああ、そうだな』雅臣は答えた。
雅臣は和美に連絡をとろうかと思ったが、そうするのを止めた。