奈落の男6
〈出島〉Q―038は最下層部の海に面した港の一角だ。公共の港湾区画と違い、停泊している船は一隻も見当たらない。雅臣の持っている紙片に書かれている住所はここだった。辺りはコンテナヤードとなっており、沢山のコンテナが積まれているが、人が住むに適した建物は見当たらない。この様な区画には不法入国した外国人が潜んでいると言う事を、雅臣は思い出していた。彼等はコンテナを住居代わりに、ひっそりと隠れて生活しているらしい。捜査官だった頃、そう言った港の区画を摘発した警備部の連中に聞いた話だ。最近は、費用対効果を考えて、あまりその様な摘発は行われなくなっていた。李はここに行けば迎えが来ると言っていた。そう思いながら合成酒を煽りつつ周囲を見回すと、男がこちらに向かって歩いてくるのが目に入った。年の頃は二十歳前後、アジアの系若者に見える。物腰からして何か武器を持っているかもしれない。男が近くに来る前に雅臣は声を掛けてみた。「なぁ、ちょっといいかな?」男は足を止めた。
「話は聞いてるか?」
「話は李さんから聞いている」
「分かった。で、どうすればいい?」
「着いて来い」
男はそう言うとコンテナヤードのほうへ向かって歩き出した。雅臣もその後を追って歩き出した。男は積み上げられているコンテナを縫う様に奥へと進んでいく。ある程度進んだ所で、雅臣は人の気配を感じた。積み重ねてあるコンテナは明らかに偽装されていた。一時期流行った、アメリカのセムテック社が低所得者向けに開発した居住用コンテナに、貨物用コンテナの外壁を偽装として被せてあった。不法入国者の潜伏手口が巧妙になってきている事に、雅臣は感心した。不意に、男は背を向けたまま雅臣に話しかけた。
「俺はドン、ホー・グァン・ドン。あんた、名前は?」
「佐伯だ。佐伯雅臣」
「歳は、いくつだ?」
「三十三だ」
「ふーん、俺は十九」この、何気ない会話が若干、二人の間の緊張をほぐした。ドンは更に話しかける。「あんた、ベトナム語は喋れるか?」
「いや」
「そうか、分かった」どうやらドンはベトナム人らしい。
「ここだ」
ドンはコンテナが積み上げられた一角の、僅かに半開きになっているコンテナドアを指した。隙間からは明らかに真新しい、セムテック社製居住用コンテナのシャッタードアが見える。ドンがシャッタードアの脇のパネルにキーコードを入力するとシャッタードアが上にスライドして開いた。コンテナが通常に稼動している所を見ると、どうやらこの辺り一帯のコンテナヤードには、電気を供給するインフラが整っている様で、それはこれらのコンテナが長期間この辺りに置かれたままである事を物語っていた。
「入れよ」ドンに誘われて中に入る雅臣。中には、アジア系の――恐らくベトナム人の――数組の家族が居た。コンテナの中はごちゃごちゃした、居間の様な空間だった。年長の男がドンにベトナム語で訊ねる。二人は幾許かの言葉を交わした後に雅臣の方を見る。周りの家族もそれを見守る。
「俺の親父だ。詳しい事を教えて欲しいって」
「じゃ、通訳してくれ」雅臣はそう言いながらプリントアウトした写真を取り出し、ドンの父親に渡すと経緯を説明した。ドンはそれを聞いて沈痛な面持ちで皆に説明した。ドンの父親は写真を見て、一通りの説明が終わると、雅臣の手を両手で握り締めて何かを語りだした。ドンはそれを通訳する。よく知らせてくれた。あなたに感謝する。息子の事は残念でしょうがない。だが、だまされたあいつも悪かったんだ。
「なぁ、息子って?」雅臣はドンに尋ねた。
「俺の兄貴さ」ドンは答えた。写真の中の一人がドンの兄だった。雅臣はいたたまれない気持ちになった。そして、その気持ちから逃れる様にドンに訊ねた。「だまされた、って言ってたよな。どう言う事だ?」それを聞いてドンは雅臣に奥に来る様に言った。
コンテナの奥には梯子があり、天井の穴を通って上に積み重ねられているコンテナに続いていた。ドンは梯子を上っていった。雅臣もその後に続いた。二段目のコンテナは、家族の寝室になっていた。ドンは部屋にある戸棚の引き出しを開けながら言った。「兄貴は、ちょっとした仕事だって言ってた。これの製品試験だって……」そう言いながらドンが取り出した物を見て、雅臣は驚愕した。それはビニールパッケージに入ったエクステだった。
「ちょっと貸してくれるか?」
「いいけど、あんたこれが何だか知っているのか?」
「いや……」雅臣はドンからビニールパッケージを受け取った。
パッケージは未開封でシールがされていた。出所を示すような物は何処にも記載されていないが、これはあのエクステに間違いないと雅臣は思った。
「これだけか? 他には無いか?」
「後は……、これさ」ドンはそういって何かを取り出した。それは――恐らくモデムの様な――通信端末に見えた。大きさは厚手の文庫本くらいだ。ドンから聞いた説明によると、これは試験後の記録データを送信する際に必要な物ではないかと推測出来る。これは有力な手がかりだ。警察に渡せば、恐らく満額の情報提供料が貰えるに違いない。
「なぁ、その二つを俺に貸して貰えないか?」雅臣はドンに聞いた。
「その前に、さっきの質問に答えてくれよ。これと、これは一体何なんだ?」
「いいだろう。と、言ってもこれは俺の推測に過ぎないからその辺を踏まえて聞いてくれ」
「ああ」ドンは頷いた。
「お前も薄々勘付いているとは思うが、お前の兄貴は恐らくそのエクステのせいで死んだと俺は思っている。親父さんは、お前の兄貴からある程度話を聞いていた様だな」
「やっぱりそうか。でも、一体どうやって……」
「ドラックウェアは知ってるか?」
「話は聞いた事がある」
「要はあれと同じ様な仕組みが、それにも施されているって事さ。お前の兄貴は製品試験と言われて、それを使っていた。だが、その仕組みについては、多分それの提供者から何も聞かされていなかったんだろうな」
「……」ドンは何も言わなかった。
「分かったら、それを俺に貸してくれないか。そんな危ない物を持っていても、しょうがないだろう」
「分かった、これはあんたにやるよ」ドンは雅臣にエクステと通信端末を渡した。雅臣はそれをコートのポケットに仕舞う。「それじゃ、俺はそろそろ退散する」
「ああ」ドンと雅臣は梯子を下りた。
下のコンテナでは、ドンの家族が下りてくる雅臣を見守っていた。それを意識しない様に雅臣は出口に向かった。ドンの父親がそれを引き止めるかの様に雅臣の手を掴み、ベトナム語で何か話しかける。困惑した雅臣は、梯子を降りてきたドンに父親が何を言っているのか尋ねた。
「兄貴の仇を討ってくれって」
雅臣は手を振りほどいて言った。「そう言う話はやめてくれ」それを聞いて、日本語が解らないながらもハッとして雅臣を見るドンの父親。雅臣は逃げる様にコンテナを後にした。
辺りはすっかり暗くなっていた。気温はだいぶ下がっていた。明るい時よりも幾許か波の音がハッキリと聞こえた。雅臣はこの場を足早に立ち去ろうとした。するとドンが雅臣を追いかけてきた。「佐伯さん、待ってくれ」雅臣は足を止めた。雅臣に追いついたドンが話す。「さっき親父が言った事は気にしないでくれ」
「……分かった」
「それと、何か俺にでも手伝える事がありそうだったら、助けが必要だったら、ここに連絡してくれ」ドンは雅臣に紙片を手渡す。
「ありがとうな。じゃーな」ドンは帰っていった。雅臣は紙片を見た。ドンの携帯番号とメールアドレスが書いてあった。雅臣はその紙片をグシャッと握りつぶし捨てようとしたが、思い直してコートのポケットに仕舞い込むと、家路を急いだ。