奈落の男5
〈出島〉最下層部。薄暗い通りを所々、街頭が赤く照らしている。太陽光はここまで届かない。潮と錆と饐えた臭いが淀んでいる。雅臣は道すがら、大家にどの様に話を切り出そうかを考えていた。大家の李とは家賃を毎月一回手渡しする時意外は会う事も無い。恐らく李は何かを勘繰るだろう。その時に何をどう話せば良いかを考えるのは難しかった。李についての噂を雅臣はある程度聞いていた。李は黒孩子で、大陸にいた頃に渡航資金を貯めて台湾に渡り、台湾で商売を起こして今の身分証を買ったと言われている。黒幇とも繋がりがあるらしい。日本国内での事業については目立たない様に手広くやっているとの事以外についてはあまり知られていない。とは言え、どの辺の事業に手を伸ばしているかについて雅臣は大体の想像をつけていた。しかし今の雅臣にとって、それは特に問題ではなかった。
洞東餐廳はそんな李が経営している食堂だ。こと、中華料理の技法についてはつくづく感心する事があると雅臣は思った。合成タンパク肉や、加工食物繊維を巧みに調理し提供される料理はコストパフォーマンスも伴って、少なからず大衆に指示されているし、事実、ここの四川風合成麻婆豆腐は絶品だった。雅臣は店先の開いているテーブル席に座った。
「佐伯さん、いらっしゃい」女給の梅華が雅臣に気付いて声を掛ける。
「梅華、李さんは今日来てるか?」
「三階の事務所に居るよ」
「李さんに話があるんだが、大丈夫かな?」
「ちょっと待っててよ。聞いてくるから」
「ありがとう。後、麻婆豆腐もらえる?」
「はいよ」注文を伝票に書くと、梅華は店内に消えていった。雅臣は料理が出てくるまでの間、持ってきた合成酒を煽った。店は昼食時を終えて慌しさも収まっている様だ。程なくして店の奥から李がやって来た。「こんにちは、佐伯さん」そう言うと李は椅子に座った。
「こんにちは、李さん」
「私に話があるって?」
「事によっては大した話じゃないかもしれませんが」雅臣はそう、前置きをしてプリントアウトした写真を取り出す。「見た顔はありませんか?」
「どれどれ……」李は写真をじっくり確認する。「うーん、よく判らないね。どう言う事?」
「警察のサイトに載っていた写真です。事件の被害者らしい様ですが」雅臣がそう話すと李は怪訝な顔をした。「そう言う事なら、私は佐伯さんにお話する事は何も無いね」李は明らかに警戒している様だった。雅臣がここに来るまでに考えていた通りとなった訳だ。だが、ここで話が終わってしまっては困る。
「正直に話しますよ。情報提供に対する報酬が最高六十万円と警察のサイトに載っていたので簡単な小遣い稼ぎが出来るかも知れないと思いました。そして今見せた写真の被害者は皆、〈出島〉の下層部で死体となって発見された、と掲載されていたので、ひょっとしたら李さんがこの被害者の身内で困っている人をご存知じゃないかと、そう思っただけです」李はまだ疑っている様だった。「私は同朋を売る様な真似はしないよ」
「そうじゃなくって……、判りました。警察に情報を提供するという話は忘れて下さい。私もそんなはした金のせいで、李さんと関係が悪くなるのは御免です。後、もし彼等の身内がまだこの事を知らなくて彼等の安否を心配している様でしたら、李さんから伝えてあげて下さい」
もうこれで終わりだ。雅臣はそう思った。些細な好奇心で身持ちを崩すような事は馬鹿げている。厄介ごとになる前にこんな事は終わりにした方が正解だろう。李は黙っていた。何かを思案している様でもある。
「私の口からこの事を伝えるのは気が重いよ」李は力なく話した。
「もう、この話は終わりですよ。李さん」なんだ、やっぱり知っている顔が有ったんじゃあないか。雅臣は答えとは裏腹に思った。押して駄目なら引いてみろ。今は李の出方を見よう。
「しかし、私はこの事を知ってしまって尚、それを胸の奥にしまっておく事が苦しいよ」
「でも、あなたはこの辺の顔役でしょう。なら、そう振舞うべきだ」
雅臣は用心していた。したたかな李の事だ。この様な話し方をするからには何か算段をしているに違いない。こちらにとって好条件になる様に見せかけて利を多く掠め取る算段をしている筈だ。そして、その推理は間違いではなかった。
「佐伯さん、あんたが私の使いという事でこの事を伝えてきてくれないか?」
「それは構いませんが」
「そうかい、助かるよ」
「じゃぁ、場所を教えて下さい」
「二十万円だね」
「二十万?」
「そう、情報提供料さ」李はニヤリと笑った。
雅臣は財布を確認するが、到底そんな金額の持ち合わせは無かった。
「カードでも良いよ」こちらの財布の中身を見通しているかの様に李は言った。
「……、判りました」雅臣はクレジットカードを取り出す。
「カードリーダーはここに持ってきて下さい」
「いいよ。信用第一ね」李は店にカードリーダを取りに行った。しばらくすると、李はカードリーダーを持って戻ってきた。反対側の手には紙片を持っている。
「行き先を書いてきたよ。ここに行くといい。私からも連絡を入れておくから」そう言いながら李はカードリーダーに雅臣のクレジットカードを通した。
「どうも……」雅臣はクレジットカードと紙片を受け取った。紙片には住所が書いてあった。下層部の何処からしい。クレジットカードは後で盗難届を出しておこう。
「毎度あり。ああ、それから麻婆豆腐はサービスしておくね」李がそう言って席を離れると、様子を伺っていた梅華が運んで来た麻婆豆腐はすっかり冷めていた。
「どうぞ」
「どうも……」
出鼻をくじかれた様な思いで雅臣は冷めた麻婆豆腐を口に運んだ。