奈落の男4
雅臣は和美が出て行った後も、まだ捜査官時代の頃の思考を続けていた。闖入者がもたらした謎賭けではあるが、これを考える事は今までの安穏とした日常の中で久々に受ける刺激でもあったからだ。雅臣は和美から与えられた情報を吟味して、犯人像を推測する作業に入った。
『あたしの事をそっちのけで楽しそうじゃない?』洋子が雅臣に問いかける。
『うん、ああ。そう見えるか?』
『少なくとも昨日までよりはね』
洋子の指摘通りだった。こんなに長い時間素面だったのはいつ以来だろうか。こんなに一つの事に集中したのはいつ以来だっただろうか。雅臣は一瞬だけそんな考えに囚われた。
『ねーねー、せんせー』洋子は退屈を持て余している。雅臣はそう感じた。そうだ、ひょっとすると洋子はこの件で、何か役に立つかもしれない。そう思いついた雅臣は洋子に尋ねた。『なぁ、洋子。お前はさっきまで俺と和美が何をしていたか理解出来てるか?』
『もちろん』得意そうに答える洋子。
『じゃ、アレが何だか判るか?』
『アレって?』
『あのエクステだ』雅臣がそう言うと、雅臣の視界内にウィンドウがポップアップし、雅臣が見たエクステの画像を表示する。
『俺は、記録を取れと言った覚えは無いんだが』
『いいじゃない、気にしない、気にしない。で、これの事?』
『そうだ、これだ』
『うーん……』
さすがに自動販売機の様に簡単に答えが出てくる訳では無いか、と雅臣は思った。洋子のアバターはコミカルに考える仕草を表示している。
『さすがの洋子さんも、お手上げですか?』若干の優越感に浸る雅臣。図星だったらしく洋子のアバターが今度はコミカルに怒り出す。『そんな事無いわよ。あんなのすぐに、ちょちょいのちょいなんだから』
『でも、判らないんだろう?』
『……』
次の瞬間、洋子のアバターとポップアップが視界から消えた。ちょっと、からかい過ぎたかと雅臣は思った。この様に洋子が消えた場合は、もう当分現れない。次に現れるのがいつかも不明だ。雅臣はある程度の自由を得る反面、簡単な情報収集に骨が折れる事を悟ると複雑な気分になった。「仕方が無い、自給自足で何とかするか」
意識せず今の心境が口を吐いて出ると、雅臣はコンピュータの電源を入れた。ディスプレイ表示は起動画面を表示後にアプリケーションの画面に切り替わる。雅臣は昔の自分のやり方に立ち返る事にした。この様な場合は情報を整理する事が雅臣にとっては大原則だった。必要な情報はどれだけ存在するのか、その情報の信頼性はどうか、関連する情報は何処まで広げて収集する必要があるか、等々。それらを全てリストアップし、系統ごとに分類してから、一つずつ潰していく。信頼性の高い情報は多い方が良く、不確定情報は少ない方が良い。信頼性の高い多くの情報は、それらの情報をも相互に補完しあい、次第に目標を明確に硬く浮かび上がらせる。信頼性の低い情報は多ければ多い程、逆に明確になろうとしている目標を霧に包んでいく。差し当たり何処から手を付けるかが問題であった。雅臣は考える。本件の警察発表、過去の似た様な事件、エクステの製造元、エクステンションに分類されるサイバーウェアに関する雑多なニュース、これらのどれから調査を開始するかである。組織に属していない雅臣が、これらの情報を全て的確に満足いくまで調査するには、莫大な時間がかかる事は火を見るより明らかだった。そして、それは先程からコンピュータに向かって座っては見たものの、それを憂慮してか、一向に動かない雅臣の手が物語っていた。これでは埒が開かない。最初の一押しが必要だ。雅臣は気を取り直すと、合成酒を一口あおり、和美とのやり取りを思い出す。そして、我に返った。推定被害者は六人で、そのうち五人は身元不明。発見場所は〈出島〉の下層部。すぐさま、警察関連のサイトにアクセスする雅臣。警察の公式発表情報は、身元不明人の詳細な情報は、伝聞で理解したつもりになっていたが実際にはどうなっているのか。カテゴリー検索からたどっていくと、その情報に行き着いた。検索結果には身元不明被害者の顔写真と、発見場所が掲載されていた。雅臣は自分の記憶を頼りに、これらの顔写真と死体発見場所を入念に確認する。〈出島〉の下層部で発見された死体は、ひょっとしたら近所の住人かもしれない。死体の顔には見覚えは無いが、知っている人物には辺りがあるかも知れない。もちろん、雅臣自身はこの辺りの人物と交友がある訳では無いが、例えば、この家の大家ならひょっとしたら心当たりがあるかも知れない。そう考えると雅臣は被害者顔写真画像をプリントアウトした。次に、本件の情報提供に関する謝礼金の項目を確認する。金額は最高額が六十万円だった。一人頭十万円の計算の様にも思える。金額としては高くも安くも無い。まぁ、タダ働きになるよりはマシか。そう考えると、雅臣はプリントアウトと合成酒の入った瓶を持ち、コートを羽織って外出の準備をした。今日は外出の予定は無かったが、それ程規則正しく生活する事も無かろう。雅臣は住処を後にした。