奈落の男39
笹野は緊張の面持ちで、プロジェクションゴーグルに表示されるビルの様子を見ていた。ビル内のエクステ使用者マーカーが全て消えて、そして、恐らくそれに気付いた大野達が追ってビルに入り、既に三十分以上が経過していた。いくらこちらでエクステの動向をモニタ出来る装備を持っていてもこれでは何の意味もない。そして、こちらが状況を把握出来ない状態で事態が深刻化してしまっては取り返しがつかなくなってしまう。ここは、荒川警部補を呼び出してビル内を確認しに行かせるべきだったのだろうか? いや、それは早計な判断だ。荒川警部補に、本件に端島組が絡んでいる事が露見してしまうのは出来れば避けた方が良い。最悪の場合大野達の口封じが出来る様に、ガーディアンドロイドによる狙撃の準備はもう完了している。問題はどのタイミングでそれを見極め行うかだった。大野達や最下層に巣食う屑どもを撃ち殺す事に躊躇いはないが、その狙撃に法の名の下に職務を果たそうとする優秀な警官を巻き込むのは良い判断とは言えない。今の時代に優秀な警官は貴重だ。優秀な警官は将来私の下で手足となって働く為に存在しているのだから。今の淀んだ組織内を多少なりとも風通しの良い物にする為には、荒川警部補の様な存在は必要なのだ。切り捨てる様な真似はしたくはない。だが、ビルから出て来た一団を見て笹野は愕然とした。その一団には佐伯雅臣と拘束された大野達が居たのだ。大野め、奴らに捕まったのか! 笹野は毒づいた。大野が拘束されていると言う事は、佐伯雅臣は大野が今回の事件の鍵になると言う事を理解しているに違いなかった。そうなると、佐伯雅臣は自分が警察に手配されていると言う現状を打開する為にその情報を最大限に利用する事だろう。そして、その方法の一つには荒川警部補への情報提供も含まれる事になる。これだから、元刑事が絡む案件は面倒なんだ! このままでは現場に居る荒川警部補が佐伯雅臣と接触し、事の概要を知る事になるだろう。それを避けるには、任務を秘密裏に解決するには、現場にいる全員の口を封じる事が必要だ。だがその場合、表向きの笹野の捜査活動自体は失敗したと言う事になるだろう。笹野が持つ権限で捜査活動に加わった刑事が殉職する事となり、表向きでの捜査活動の成果は何も得られなかったという結果になるからだ。そうなると今後警察組織にいる限り、その汚点が必ず笹野に付いて回る事になるだろう。私だけが泥をかぶる事になるのか! 笹野は決断に迫られた。
『笹野管理官、手配人物を確認しました。今から確保します』荒川警部補から通信が入る。
『まて!』
『何故です?』
『良いから待て! 待機しろ!』
笹野は決断した。佐伯雅臣と共に大野達を始末し、荒川警部補には圧力をかける事で決着を図ろう。それならまだ笹野の権限の及ぶ範囲で事態を収拾出来る。ガーディアンドロイドの持つ対物ライフルが三方向から佐伯雅臣や大野達やその周辺のワゴン車に照準を合わせる。対物ライフル連続射撃による質量エネルギーなら一体を消し飛ばす事は容易だろう。そしてワゴン車を炎上させてすべてが終わる。笹野はガーディアンドロイドに思考コマンドで射撃実行命令を下した。一瞬の沈黙が笹野の周りを支配する。だが、笹野が下したガーディアンドロイドの射撃実行命令は実行されなかった。明らかに思考コマンドで命令しているのにレスポンスが何も帰ってこない。笹野はもう一度思考コマンドで射撃実行命令を出す。だがやはりガーディアンドロイドの射撃は実行されなかった。笹野は混乱し、何度も繰り返し実行命令を出す。だが、無情にも静寂だけが辺りを包み込む。笹野は絶望感に襲われた。そして、そんな笹野をあざ笑うかの様に、プロジェクションゴーグルの視界内に電脳女王のグラフィックが姿を現す。『この辺りをモニタしといて正解だったわ。もう貴方はもう何も出来ないわよ』
『こいつは…… 驚いた……』笹野はなぜ射撃命令が実行されなかったのかを理解した。だが同時になぜ、広域指名手配犯のハッカーである通称“電脳女王”がこの事件に関与しているのかの想像が及ばなかった。
『今すぐ、装備を回収してこの場から去って頂戴』
『何故? 貴方のその要求を聞くいわれは有りません。貴女は何の権限があって警察の捜査活動の邪魔をするんですか?』
『あら? これが警察の正式な捜査活動だなんて、お笑いだわ。貴方正気なの?』
『何を根拠にそんな事を言うのですか?』
『それを私の口から言わせたい訳? 例えば、そう、木場信一郎元巡査部長の事とか』
『そうですか…… そこまで掴んでいるのですか』
『それ以外にも色々知ってるんだけどなー』
『ですが生憎、私の一存で止める事は出来ないんですよ。私も命令されて動いているのでして』
『ふむ、貴方の言う事も最もね』
『仮に私が貴方の要求を聞いてこの場を去ったとしましょう。私は更迭されて別の者が本件の対処に当たる事になるだけです。何も変わりませんよ』
笹野は理解した。電脳女王はこの件の落とし所をすでに想定しており、そこに話を誘導する様にしている。ならば、その場所に到達するまでに持っている手札で少しでも有利な条件を引き出せはしないだろうか。
『そうなったらキリがありませんよね。貴方もずっと忙しいままですよ』笹野は電脳女王から多くの情報を引き出そうと言葉を選んで問いかける。
『うーん、それは何だか納まりが悪いわね』
『そう言う事です。それが我々警察と言う組織なんですよ』
『じゃあ、それを貴方が何とかしてよ』
『はぁ?』笹野は一瞬、彼女が何を言っているのか理解が出来なかった。だが、電脳女王はそんな事はお構い無しに笹野のプロジェクションゴーグルにデータを転送してきた。『これは何ですか?』笹野は尋ねた。
『確認してみて。もちろんウィルスじゃあないわよ』
笹野はデータを確認して驚いた。それは、この件でのNSA担当部署の連絡先だった。笹野は表示されたデータの内容に若干の興味を覚えた。そもそも笹野が聞かされている情報では、NSAは本件についての大元を探ろうと躍起になっていた筈だった。なるほど、ここでNSAに渡りをつけて置いて後ろ盾に出来れば、警察組織内の粛清も容易に出来る事だろう。そうなるとつっかえて邪魔になっていた上の連中が何人か消えて、ちょうどその席に収まる事が出来る……
『多分今回の件でこの連絡先の連中に貴方が協力したら、貴方にとっても有益な事になると思うんだけどなー』
『その根拠は?』
『貴方なら今渡した情報で上手く立ち回れるだろうって、あたしの予想。それと……』
『それと?』
『そうする貴方をあたしは邪魔しないって事かしら』
笹野は思わず吹き出しそうになった。この尊大で傲慢で気まぐれなハッカーの態度が何処と無く滑稽に思えたからだ。笹野は今ここで彼女に借りを作って置くのもあながち悪い事ではないのでは、と思った。これから先、魑魅魍魎が跋扈する組織内で、笹野自身だけが使える力を得ておけば生存競争を有利に戦う事が出来るのではないか。
『そうしたいのは山々なんですが、それには条件があります』笹野は電脳女王の提案に乗ってみようと思った。
『何かしら?』
『今回の件について、何処にも話が漏れない事。貴方はそれを私に保証出来ますか?』
『なるほどね、保障しても良いわよ』
『宜しい。では貴方の提案を受けましょう』笹野が答えるのも待たずに電脳女王はその場から消え失せた。
笹野は、これからの計画を考えるべく深々と座席に座った。