奈落の男32
雅臣は猛烈な空腹感で目を覚ました。辺りは明るくなっているが、まだ日は高くなっていなかった。夜が明けてまだ数時間位だろうか。雅臣は昨夜医師に言われた事を思い出し、医師が隣のベッドに置いていった携帯食を取ろうとして、右腕を失った事を思い出した。仕方なく左手で携帯食を取ると、袋の端を噛んで封を開けた。鼻を突く香ばしい臭いのそれは、バイオテクノロジーで品種改良された米を原料に工場で培養合成加工された医療用の高カロリー栄養食だった。それはボソボソしたビスケットステックの様な食感で、甘味料によりとても甘く味付けされており、お世辞にも味は良いとは言えない何とも味気ない食事でもあった。こう言った食品は、生産コストを抑える為に天然由来の原料をほぼ使っていないと聞いた事がある。雅臣が補助電脳移植手術で入院した時はまだ普通の定食形式の食事だったが、最下層のモグリの病院にそれを要求するのは土台無理な話なのだろう。
これなら、同じ合成食材を使っていても、怪しい大陸人が経営していても、洞東餐廳の料理の方がまだ人間味があると雅臣は思った。そんな思考をしている雅臣の視界内に洋子のアバターが現れた。『おはよう』いつもの様に呼び掛ける洋子。
『おはよう』そして、いつも通り呼びかけに答える雅臣。
『そう言えば何で神田なんかに、アプリの解除プログラムなんか依頼したのよ?』怒り顔の洋子のアバターが捲し立てる。
『え?』昨夜は怒っていなかったじゃあないか。洋子の勢いに雅臣は気圧された。
『そんなのあたしがチョチョイのパーってやってあげるって言ったじゃない!』
『ああ、別にお前が言っている事を信用しない訳じゃあ無いんだが、エクステのアプリがリアルタイム動作してる最中に解析するのは困難だと思ったんだ。それに……』雅臣は言葉を選んだ。
『それに?』
『お前には俺の周辺警戒を集中してもらっていた方が、今は良い様な気がするんだ』雅臣は今の心境を素直に吐露した。
『なんでよ?』
『実際にエクステが動作している環境で対処すると俺自身に何が起こるか分からないから、まずは神田に試験環境で様子見をさせたかったんだ』
『あー、それってあたしのウデを信用してないって訳?!』
『じゃあ聞くが、お前は常に俺の補助電脳のステータスを確認しているアプリの監視を掻い潜って、俺の命に影響が無い様に、動作しているアプリを解析してアンインストールソフトを作れるのか?』
洋子は雅臣のこの質問について吟味する。アプリのあらゆる動作パターンを対処しながら、一からアンインストールソフトを作り上げるのはかなり骨の折れる作業ではある。洋子にそれが出来るのか否かかと言えば、明らかに出来るのだが、対処中に何が起きるか分からない現状では周囲警戒に注力した方が軽口と叩いていられる分だけの余裕が出来た。
『それから、俺が今思い浮かんでいない今後の対応策も、お前と思考チャットすると何か閃く気がしてな』
『ふーん……』洋子は納得していないが仕方がない、と言った様子だった。『まぁ、良いけどね。んでさ、その後アプリに何か変化は有ったの?』
『ああ、そうだな』洋子に指摘されて雅臣は、アプリケーションウィンドウを視界内に展開すると、自分の情報を表示させる。昨夜MONONOFUにターゲット指定されたからには何らかの情報変化が有るのではと思ったからだ。
『これはどう言う事だ……』誰に聞くとも無に雅臣の思考が漏れる。
『どうかしたの?』
『俺のポイントが増えているぞ』
『あー、やっぱり』
『何だって?』
『ちょっと前からこの辺のMMCIポート通信のトラフィックが増え続けてるから何かあったのかなー、って思って』
雅臣は、ここに来てからすぐに眠り込んでしまった事を後悔した。自分の情報の確認をもっと早くやっていればこうなる前に打てる手もあった筈だと。雅臣はアプリケーションウィンドウを再び最小化すると周辺を見回した。視界内には雅臣をターゲット指定したであろうエクステ使用者の座標情報が複数表示されている。その座標情報はこの病院ビルの周辺を取り囲む様に使用者が潜んでいる事を表していた。雅臣は自分なりに状況を整理する。昨晩ここに連れて来られた時は、保有ポイント加算やターゲット指定の通知はされていなかった。と言う事は、雅臣が寝ている間に何らかの条件で雅臣の保有ポイントが加算され、そのポイントで高額賞金を得ようと目論む使用者が次々と雅臣をターゲット指定し、このビルの周辺までやって来た事になる。だが、何故彼等はここに踏み込んでこないのだろうか? 恐らく彼等は、それぞれお互いが襲撃する機会を窺っているのだろうか? そして、それぞれお互いが出し抜かれない様に、獲物を前にして使用者のそれぞれがメキシカン・スタンドオフになっているのではなかろうか。誰かが動いた瞬間に誰かがそれをターゲット指定して倒す。使用者がこれだけ集まっている状況ならばそうする事で、ターゲットを一人で追い詰める必要がある彼等の普段の狩りよりも、かなり楽にポイントを稼げる事になる。そして、最後に立っているものが俺を仕留めに来る……
『洋子、周囲がこの状況になってからどれ位時間が経った?』
『かれこれ一時間位かしら』
雅臣はこのままここに留まる事は状況を悪化させるだけと判断し、ベッドから立ち上がると着衣を直し、片腕で不器用にコートを羽織り窓から姿を晒さない様に低く屈むと、そのままゆっくりと病室を出ようと廊下を窺う。廊下には誰も居なかった。エクステ使用者ではない彼等の仲間が付近に潜んでいる可能性も十分に考えられるのだが、この階には人の気配は感じられなかった。雅臣は急いで廊下を進み、階段を駆け降り、一階処置室のドアを開けた。次に、昨夜ここを訪れた時に姿を現した部屋のドアを開けた。どうやらそこは少し広い部屋で、医師の事務室兼居室になっているらしく事務用の机やコンピュータ、恐らく専門書が収められているいくつかの本棚とは別に、一角にベッドや冷蔵庫等を置いた生活空間があった。医師はベッドからむくりと上体を起こすと、眠そうな様子で雅臣の方を伺う。「気分はどうです?」医師が尋ねる。
「特に問題は無いよ。右腕が無い事以外はね」
「その調子なら大丈夫そうだ。早速治療を始めますか」医師はのそりとベッドから這い出る。
「それが、そう悠長な事も言ってられなくなった。今すぐここを立たなくちゃならない」
「それはどうして?」急いでいる様子の雅臣には特に気もかけずに医師は白衣を羽織る。
「先生はこれを知っているか?」雅臣は自分の頸部に接続されているエクステを指さした。
「ああ、見た事はあるよ。大野達がこの界隈で配っているエクステだろ?」
「大野? 聞いた事ないな。それは誰なんだ?」
「本人はとある企業の人間だと言ってたな。嘘か本当かは知らない。私の見立てじゃあ多分カタギの人間じゃないと思うがね」
「なんでそう思うんだ?」
「巧妙に隠してはいたが、袖口に刺青が見えた」
雅臣は思った。ひょっとしてアナンドはこの事を知っていてこの病院に俺を連れて来たのだろうか。「それで、その大野とか言う奴はこのエクステについて何て言ってたんだ?」
「ある企業の製品試験だって言っていたが、何処まで本当なのかは疑わしいね。あの連中が真っ当な物を配っているとは到底思えない」
「何故、先生はそう言う感想を持つんだ?」
「そのエクステを使った人物がよくここに患者として連れて来られるからだよ。まぁ、ほとんどの場合は手遅れで死亡診断をするだけだがね」
「手遅れとは、どう言う?」
「大抵の患者はひどい外傷で、それが致命傷になっている場合が多いからね。打撲痕、切傷、刺傷、重度の火傷、銃創、等々」
雅臣はなるほどと思った。アプリが謳っているルールを信用するのならば、ターゲットの心停止を確認するのは専門家に任せた方がより確実で合理的とも言えよう。
試験実施者が致命傷を与えたターゲットをここに運び込み、死亡が確認されたらエクステを死体から外して換金手続きを行う。「だが、それじゃあ診察料や治療費を取りっぱぐれる事になるんじゃあないのか?」
「それがそうでもない。何故かそのエクステを着けている患者がここで死んだら、大野達が何処からともなく表れて患者の治療費を支払い、遺族に引き渡す名目で死体を引き取って行くんだよ」
「本当なのか?」
「さぁ、私にも詳しい事は分からないし、知りたいとも思わないよ」
話の筋は通っている様な気がすると雅臣は思った。この話が本当なのだとすると、ヤクザ者の大野が死体を引き取ってリサイクルする事をシノギとしているんだろうと推測出来る。医師が嘘を言っている様にも思えないし、仮にその話が本当じゃあなかったとしても多分医師は本当の事など知らないに違いない。
「ひょっとして、私の認識は間違ってる?」医師は雅臣に問いかける。
「いや、凄く参考になったよ。その大野が俺達に何をやらせようとしてるかはこれでハッキリ分かった」
「製品試験何だろう?」医師はそうでは無い事を知りつつもしらばっくれた様子で雅臣に尋ねた。
「製品試験だとすると、その企業の倫理を疑うね。何せこのエクステの使用者同志に試験と言う名の殺し合いをさせているんだからな。それも賞金付きで」
「ほう、俄かには信じがたいがそれ疑う言われも無いか」医師は特に感動も無く答えた。当事者達とは程遠い位置に居る彼にとってはそんな事は些細な事なのだろうと雅臣は思った。だが当事者の中に組み込まれてしまった雅臣にとってはこのままここに留まるのは得策では無い。
「それで、俺はそのゲームでの狩りの対象になっていて、連中がいつここに踏み込んでくるかも分からない危ない状況になっているんだ」雅臣は自分が置かれている立場を説明した。「だからここには居られない。厄介ごとが片付いたら戻ってくるから、その時に治療の続きをしてくれ」だが、医師は雅臣のその慌てぶりをたしなめる様に言った。「それなら大丈夫さ。連中には、ここでは揉め事を起こさない様に念を押してある。もめ事を起こしたら、今後一切そのエクステを着けてる者の診察も治療も行わない、ってね」
医師のこの答えに雅臣はそんな馬鹿な、と言いそうになった。だがそれは雅臣が昨夜ここに来てから、連中が賞金額の高い雅臣を病院内まで、直接襲撃に来なかった裏づけにはなる。そして、この医師が言った通りの不文律が成立するのなら、参加者がそれを守る事によって、もし自分が同様の状況に陥ったとしても治療が終わるまでは安全で居られると言う保険にもなる。雅臣は少し考えると、医師に問いかける。
「この事は警察には言ってないのか?」
「もちろん。モグリの病院には事件性がある患者についての警察への報告の義務はないからね」医師の言う最もな理由に、雅臣は納得せざるを得なかった。
さて、如何するべきか。医師の話だと今の所はここは安全であるらしいが、状況はどう転ぶかはわからない。この病院の周りを取り巻いている奴らの中から抜け駆けをする奴が居ないとも限らない。雅臣は一先ず打てる手は打っておこうと考えた。
「とにかく、これで問題無く治療を受けていられるって事は分かったかな?」医師は雅臣に確認する。
「分かったよ、先生。その前に、使って良い携帯電話があれば借りたいんだが?」
「患者が置いていった携帯電話がそこの引き出しにあるから勝手に使ってくれ」医師は投げやりに言った。「使用料は昨日払って貰った入院治療費に込みで良いよ」
雅臣は携帯電話を取ると廊下へ出た。
『洋子、頼まれてくれるか?』雅臣はすぐさま洋子に呼びかける。
『何かしら』
『周辺の監視カメラで大野と思われる人物が近くに潜んでいるかを確認して欲しいんだ』
『どうやって特定するの?』
『大野がこの病院にタイミングよく表れるのは多分エクステの通信をモニタしているからだ。だからMMCIの通信を追えば辿り着ける筈だ』
『でも、この病院の周辺には結構多くのエクステ使用者が集まっているわよね?』
『事が終わってからここに来れば良いんだから、恐らく遠巻きに様子を伺っているだろうな』
『なるほどね、分かった』そう言うと、洋子のアバターが消える。
そして、数秒で再び現れ雅臣に告げる。
『せんせー、3ブロック先のワゴン車が怪しいわよ』洋子は補助電脳への外部入力を避けて、監視カメラで撮影した画像を雅臣が今使っている携帯のウィンドウに表示させた。雅臣はその画像を確認する。ワゴン車の運転席と助手席に男が座っている画像。元刑事だった時に見た指定暴力団構成員に関する資料にその顔があったかどうかを思い出そうとするがよく分からない。だが、この画像から連中は雅臣が使用しているのと同じ様なエクステを装着している様には見えなかった。更に、3ブロック先の方向を見回しても雅臣が使用しているアプリの使用者表示情報は表示されてはいない。連中は使用者を監視している立場なのだろう。このワゴン車には監視機材が積載されていると見てほぼ間違いないと、雅臣は思った。
『洋子、この連中について調べられるか?』
『どうやって調べるの?』
『連中は多分日本の指定暴力団の構成員だと思う。この辺だとひょっとしたらワゴン車の登録情報から辿れるかもしれない』
『おっけー』
雅臣はふと、現職時よりも充実している感覚を覚えた。捜査対象の特定、実際の捜査活動、情報の精査、裏取り、証拠集め。現職時はあらゆるノイズがこれらの進捗を遅延させる。時には捜査自体が取り止めになってしまう事もある。だが、今はどうだろう。雅臣が捜査について考え必要となる情報を、洋子が次々とアウトプットしてくる。この全能感は現職時代の遅々として進まぬ捜査活動からは得られない物だった。現に今、洋子がネットワークの海から連中の顔画像を元に素性を特定するのも、それ程困難な作業では無かった。
『検索結果出たよ、愛染会系暴力団で端島組の構成員だってさ。後は分からない』
洋子の話から、雅臣は端島組について思い出す。確か、愛染会が〈出島〉に形式的に拠点を置く為に作られた暴力団で、その実情については殆ど不明だった組織だ。大野と一緒にいる他の二人はたぶん大野と交流のある半グレか何かだろう。
『よくやったぞ、洋子』雅臣は洞東餐廳の電話番号をコールする。
「洞東餐廳です。まだ準備中ですよ」
「梅華か。佐伯雅臣だけど李さんは居るか?」
「ああ、佐伯さんか。ちょっと待ってて」保留音が数分流れる。「李だ」
「佐伯だけど、依頼を受けていた件について取り急ぎ知らせたくてね」
「良いですよ。聞きましょう」
「例の物をばら撒いているのは端島組の大野って言うヤクザだ。連中はそれの使用者同士に賞金を懸けて殺し合いをさせている」
「なぜ?」
「ある企業の製品試験としてそれを行う事が必要らしいとしか分からないし、それ以上の情報は無い。これについては端島組は単なる末端でしかないと言う事なんだろな。そして大野達はその製品試験の過程で出来た産業廃棄物をリサイクルする事をシノギとしている。これはほぼ確定だ」
「そのシノギとは何なにか?」
「多分、臓器売買だな」
「……」しばしの沈黙の後、李が尋ねる。「その話は確かか?」
「大野達が利用している病院の人間に聞いた。大野達は遺体を遺族に帰す為に引き取っているとの事だが、李さん、アンタの周りで遺族の元に遺体は帰ってきたか?」
「……」再び沈黙する李。
「昨日の今日で裏取りが完璧と言う訳じゃない。あくまで中間報告だと思ってくれ」
「佐伯さん。アンタの言う事を私は信用して良いのかね?」いつもの李の物言いが始まった。難癖をつけて金額を吊り上げたり値切ったりする李のやり方に雅臣は苛立ちを隠さなかった。
「それの言い分はもっともだな。じゃあどうする? この話はこれで終わるかい?」
「もう少し確証となる何かが欲しい。そうだ! その大野をこっちまで連れて来て」
「何だって?」雅臣は耳を疑った。
「私も大野に直接話を聞きたい。報酬もそれに見合う金額だと思うんだけどね」
「相手はヤクザなんだぞ」
「じゃあ、大野を連れて来たら今回の依頼は完了って、事にしてあげるよ」
雅臣は今回の件について李がどう言う幕引きをしたいと思っているのかが想像出来た。そして、あの時提示された破格の報酬には汚れ仕事料や口止め料が含まれているのだと言う事も。
「分かった。それともう一つ!」
「何だい?」
「俺はその商業区画のモグリの病院に居るんだが、エクステを着けた奴らに囲まれてる。その中に李さん、アンタの知り合いが居る様だったら俺を狙うなと言って置いてくれ」
「いいよ」
「それじゃあな。電話を切るぞ」
次に雅臣は同様にして神田の店に電話し、留守番電話に折り返し連絡をくれる様に告げる。程無くして神田からの折り返し着信。
「神田か?」
「そうだ。五十八秒」神田は相変わらず残り時間を告げながら会話する。
「依頼したソフトの件はどうだ?」雅臣も務めて簡潔に用件を伝えようと話す。
「昨日の今日で早々準備出来るもんじゃないって事ぐらい分かるだろ? 五十一秒」
「それは意外だった。アンタなら朝飯前だと思っていたが…… 俺の見込み違いだったかな?」
「何だと!」
「いや、気にするな」
「いーや、気にするね。こちとらキチンとエクステからプログラムは吸いだしたし、それをいじれるソフトも手に入れているんだからな。えーっと、四十六秒」
「じゃあ、それを両方ともくれよ」
「いや、それは不味い。四十一秒」
「どうしてだ?」
「ソフトはとあるツテで手に入れた物だからクリーンナップが終わってないんだ。三十六秒」
「それはどういう意味だ?」
「ソフト自体に何かが仕掛けてあるかもしれないって事さ。三十秒」
「要領を得ないな」
「この回線で説明するのは嫌だ。どうする? 二十三秒」
「そうだな、そのソフトをこっちに送れないか?」
「この回線で送るのは嫌だ。十七秒」
「じゃあ、バイク便で送ってくれ。頸部接続が可能なインタフェース搭載の記憶媒体に入れて。直ぐに」
「分かった。そっちの場所を教えてくれ。九秒」
「〈出島〉最下層O―183商業区のモグリの病院だ」
「オーケー、すぐ送る。受け取りコードはその携帯にメールする。追加手数料を覚悟しておけよ」
通話が終わり、数秒して受け取りコードが送られてきた。雅臣は送られてきたコードが書かれたメールを保存設定にした。通話を終えた雅臣は、携帯を見つめたまま立ち尽くした。これからどの様に事を進めるのが良いか。大野を捕まえて李に引き渡すのは骨が折れる作業だ。洋子にある程度手伝って貰うとしても、まだ他にも手を打っておきたい。
処置室のドアが開き、痺れを切らした医師が雅臣に声をかける。「で、治療はいつ始められるのかな?」
「すまない、今行く」雅臣は携帯をポケットにしまうと処置室に戻った。室内にはすでに医師が用意した機材が鎮座していた。「じゃあ、治療箇所を見るのでコートを脱いでそこに座って」医師は機材の前にある椅子を雅臣に勧めた。雅臣はコートを脱いで白衣が掛けてあるコート掛けに掛けると、促されるままに椅子に座る。
「どれ、どんな感じかな」医師は雅臣の右腕患部に付着している硬化した材質を摘まんで剥がした。すると右腕幹部部分は剣山の様に無数の針の様な物が生えていた。
「良い感じに形成されるね」医師はそう言いながら切断された右腕に治療用のジェルを塗ると、何本ものケーブルが接続されているランプの付いたカバーを患部に取り付けマジックテープで固定した。ケーブルはすべて機材に接続されていた。次に医師は、雅臣にヘッドマウンテッドディスプレイを手渡した。「これを着けて」
雅臣は残った左手でヘッドマウンテッドディスプレイを頭に装着した。ディスプレイ内のは仮想空間とその中に存在する仮想の右腕は見えていた。雅臣は試にまだ自分の体に残っている上腕部を少し動かしてみた。すると、仮想空間内の腕は同じ動きをした。
「よし、それじゃあ、ディスプレイ内に映し出されているヴァーチャルの右手を自由に動かしてみて」
「え? どうやって?」
「普段君が自分の右手を動かしている様にやればいい。これは君が右手を動かす時の脳からの神経伝達を追跡して画像内のヴァーチャルの右手を動かす様になっているのは分かるね?」雅臣は頷いた。
「欠損した前腕部への脳神経からの命令信号が昨夜からの治療でナノマシンにより形成された神経や筋繊維の終端部分を通って、先程患部に附着させたメディカルジェル内のナノマシンがその信号を受信し、コンピュータに命令情報信号を送信し、その命令情報信号を受けたアプリケーションソフトがヴァーチャルの腕を動かす様になっている。だから君は普段通り腕を動かしてみてくれて良いんだよ。特に欠損した部分への命令信号伝達情報を収集するのが重要だから、右手を握ったり開いたり、色々やってみてくれ」医師はなるべく雅臣が理解し易い様に説明したみたいだが雅臣は詳しい事は理解出来なかった。言われた通りに、雅臣は右手を結んで開いて――普段そうしていた様に試行して――みた。すると表示されているヴァーチャルの右手は数秒遅れて右手を結び、開いた。
「そうだ、その調子で。閉じて開くのを続けて」医師は別のモニタディスプレイを見ながら雅臣に言った。促されるままに雅臣はヴァーチャルの右手を結び、開く。するとどうだろう。最初は自分の思考に対して遅れて反応していたヴァーチャルの右手の結び、開く動作が段々と雅臣自身の思考がイメージする右手の結び、開く動作の反応時間に近づいてきたのだった。
「何か変化はあったかね?」医師は雅臣に質問する。
「手の動きが、最初は遅れていた様に感じたんだが、今はイメージ通りになっている様な気がする」
「ああ、それで良いんだ。最初は患部切断面から受信される神経信号がどのルートを通るか分からないので命令情報が少ない。従って伝達する動作が曖昧になってシミュレータに送信される。それが動作を回数を繰り返す毎により確かな動作時の神経伝達情報を理解して蓄積していくんだよ。だから最終的にはヴァーチャルの腕は君のイメージ通りに動く様になるんだ」
「と言う事は、あらゆる動作を何回も行い右腕の動作情報を収集しなければいけないって事か?」
「その通り、理解が早いね。そしてその蓄積情報をこれから君に取り付ける義手に記憶させる事で、義手は君の思い通りの動作が出来る様になると言う事なんだよ」
これは骨の折れる作業だと雅臣は思った。
「初期動作情報の収集が終わったら次は基本動作情報の収集をやるよ。そして……」医師はそう言いながら冊子を雅臣に渡す。
「これは?」
「義手のカタログだよ。まぁ、最新の物じゃあないけどね」
雅臣は冊子を開いた。しかし、専門的な知識がない為、どれも同じ様な物にしか見えなかった。「読んでも良く分からないな。さっぱりだ」雅臣は率直な感想を述べた。
「じゃあ、何か希望を適当に言ってくれたら、それに見合った物を用意するかな。何が良い?」
「そうだな……」雅臣は少し考えた。「人間の腕と遜色ない出来の物はあるのか?」
「それは、その義手をこれからずっと使い続ける前提での話かい? もし、将来的に生身の腕に戻したいと言う希望があるのならそれはあまりお勧め出来ないなぁ」
「それは何故?」
「そのタイプの義手は結構金額を張り込む必要があるからさ」
「そうなのか?」
「ああ、設計思想が違うからね。生身では無い生身以上の義手がコンセプトなんだ」
「だから取り付けた後に簡単に取り外す事は出来ない。神経系や駆動系の接続を人体に融合させる様に行うからね」
「もし将来、幹細胞から再生した生身の腕を移植するのなら、取り外しが可能なテンポラリーな義手にした方がいいと思うよ。もちろん費用もそんなに掛からない」
「なるほどね」
「まぁ、本当の所を言うとそんな高性能な義手は今ここにはないから直ぐに用意出来ないんだけどね」
「分かった。じゃあ日常に影響がない程度の重さで頑丈な奴はあるか? 熱や振動に強い奴が良い」雅臣は今後の事を考えると用心しておいた方が良いと判断した。治療が終わるまで無事にここで過ごす事が出来てもここを出た途端に待ち構えている何者かに襲われる可能性は高い。その時に使う義手が心許ない構造では荒事を捌くのは無理だろう。
「どれ位頑丈なのが良いんだい?」
「俺が爆弾テロとかに巻き込まれてもその義手だけは残るだろうって位頑丈なのが良い」雅臣は冗談めかして言った。
「ああ、あるよ」そう言うと医師は処置室の棚方へ行き置いてある箱から義手を取り出して雅臣の方へ持って来た。「昔治療してやったロシアの軍人が治療費の形に置いていった軍用の奴だ。中古だが機能に問題は無いよ」そう言いながら医者が見せた義手は軍用と言う割にはシンプルなデザインの義手だった。雅臣は左手でその義手を触ってみた。それはヒンヤリとして硬い材質出てきていた。
「分かった、これで良い」
「まぁ、幹細胞からの再生は金も時間もかかるが、今の君にはその両方とも無いんだろう? 生身の腕にするんだったら落ち着いた時に余所でやるんだな」
医師のこの言葉に、雅臣はこれからの出費を想像してしまいやるせない気分になった。雅臣はヴァーチャルの右手を十分程動かし続けた。ヴァーチャルの右手はもう違和感なく雅臣の目の前で動いている様に見えた。
「いいね。次の段階だ」医師がそう言うと、今度はヴァーチャル空間に何やら無機的な物体が浮かび上がった。「今度は目の前に浮いているそれを右手で掴んでみて」
雅臣は試しにそれをヴァーチャルの右手で掴んでみようとした。すると指先に何かが当たる感覚が伝わってきた。雅臣はなるほどと理解した。
「それを摘まんだり握ったり色々いじってみてくれ。データ蓄積が完了すると次の段階に進む様にシミュレータを設定したからひとまず飽きるまで色々やってみてくれ」医師のその言葉に、雅臣は何だか不出来なゲームをやっている様な感覚にとらわれた。
『治療は順調に進んでますかー』突然現れた洋子。だが今は気分転換に丁度良いと雅臣は思った。『ああ、今の所問題無いな。そっちはどうだ?』
『せんせーの方でもモニタしてると思うけどエクステ使用者には今の所目立った動きは無いわよ』
『そうか…… ちょっと気になる事があるんだが確認出来るか?』
『何かしら?』
『MONONOFUについてだ。今、お前に言われて気付いたんだが、どうやら俺のアプリにMONONOFUの座標位置が表示されなくなってる』
『ふーん』
『ヤツの動きを追えないか?』
『表示されていないんなら取りあえず放っておいて良いんじゃあないかな?』洋子は特に問題も無い様な様子で言った。『昨夜、車で轢かれたんだから、きっと何処かで修理してるのよ』
『なるほど、だろうな』雅臣は洋子の意見が腑に落ちた。それと同時にMONONOFUに関しては、このエクステ使用に関する特別なルールが適用されているのではないかと推測した。ヤツはこのゲームの盛り上げ役なのではないか。いわゆるコンピュータゲームで言う所のボスキャラみたいな位置付けだ。それならば、主催者側となるメーカーがヤツのコンディションをバックアップする体制を持っていても何ら疑問では無い。『ヤツの詳細な情報が分かれば何か対策が立てられるんだろうがな……』
『分かるよ』
『え?』
『せんせーがそう言うんじゃあないかと思って、実は昨夜調べていたのでした!』
『なんだって!』そう思考しながらも雅臣は口元が綻ぶのを止められなかった。『さすがだな! 洋子!』雅臣はその後、本当に良い奴だと伝えそうになったが思い留まった。
『ふふん、そうでしょ? あー、もっと褒めても良いんだけどなー?』
『それは落ち着いたら、俺で良ければ何度でも褒めてやるよ。それで、ヤツは一体何者なんだ?』雅臣は洋子の主張を程々に流して説明を催促した。
『まいっか、MONONOFU正体は本名木場慎一郎って名前の元警官です』
それは雅臣が知っている名前だった。木場慎一郎巡査部長は警備部サイボーグ部隊のメガフロート分室に所属していた警官だ。何時サイボーグ化手術を受けた等については部内秘に付き知る事は無かったが、雅臣がメガフロート署に配属された時には既にサイボーグになっていたと聞いている。その後どう言う任務で彼が功績を上げた等の噂話を聞く事は有ったが、そのうち雅臣も専任の案件に関わる様になってあまり気にしなくなっていった。
『待てよ、洋子、お前元警官って言ったのか?』
『そうだよ。五年前に退職してるよ』
雅臣はそんな事は有り得ないと思った。木場のサイボーグボディは官給品、いわば警察の所有物として扱われている筈である。更に警察のサイボーグ部隊としての極秘情報がそのボディには満載している訳なのだ。何故そんな事が起こりうるのだろうか。雅臣はとてつもない違和感に襲われた。
「あれ? 意識レベルが低下してますよ」医師が雅臣に話しかける。
「あ、ああ。ちょっと考え事をしてたんだ」雅臣は取り繕う様に答えた。
「そうですか。まぁ、状態はこちらでもモニタしてるので体調が優れない様でしたら言って下さい」医師は雅臣の反応を聞いて特に問題無いだろうと判断した。
雅臣は木場の事が頭から拭い去れなかった。彼は本当に警察を辞めたのだろうか。だとしたら、その後どうやって生きてきたのだろうか。障碍者保証があるとは言え、サイボーグボディの定期メンテナンスには結構な費用がかかる筈だ。
『洋子、木場は警察を辞めた後、どうしたんだ?』
『知らない』
『そうか……』
雅臣は洋子がどうやってこれらの情報を入手したのか色々な可能性を考えた。だが、それがどんな手段によって行われたかについて、恐らく非合法な手段を講じたのだろうとしても、洋子を責める気にはならなかった。そして木場が警察を退職した後の情報については、洋子がその手段を講じる範疇の外だったのだろうと判断した。雅臣は漠然とした不安感を残しながらも、次の手を考える事が出来ると思った。