奈落の男30
インド人白タク運転手のアナンド――道すがら、雅臣に対して名乗った名前だが偽名かもしれない――は、雅臣を最下層のO―183商業区画にある雑居ビルに案内した。外観は地上五階建ての何の変哲もない寂れた雑居ビルに見えた。床面積は区画内1ブロックの四分の一くらいの広さは有りそうだった。
「ここです」そう言ってアナンドはビルを指さすが、看板等は何処にも見えなかった。雅臣が金網の上の隙間から札束をねじ込むとアナンドは後部座席のドアを開けた。MONONOFUの一撃は辛うじて車体フレームを歪めるまでにはいかなかった様だ。雅臣は車を降りた。
「待って下さい旦那、私もお供しますよ」アナンドは札束を肩掛け鞄に入れて車のキーを抜くと、後部座敷のドアを閉めて車を降りた。
「大丈夫だ、一人で行ける」雅臣はこの男を信用するのは危険なのではと思った。だが、そんな雅臣の思惑とは裏腹に、アナンドは話す。「私が説明した方が医者も納得します。ここの医者は新顔には一寸厳しいんで」アナンドの申し出を聞いた雅臣は、恐らくここの医者は闇医者なのだろうと推測した。そしてその推測は恐らく正解だった。ビルの入り口にある各階の案内板には何も記載されていなかった。雅臣はアナンドと供にビル内に入った。
『洋子、周辺でアクティブな電子機器の状態掌握を頼む』
『分かった』
ビルの一階ロビーは暗く、非常口のランプと入口から差し込む明かり以外に光源はなかった。アナンドは無人の受付机の方に歩み寄ると、机の上にあるインターフォンのボタンを押して叫んだ。「先生! アナンドです! 急患ですよ!」すると、程なくしてロビーの奥に続く廊下に面する部屋に明かりが灯り、ドアを開けて中から男が出てきた。
「全く、君らは時間構わずだな」気怠そうな様子で男は近づいてくと雅臣を見て問いかけた。
「で、患者は誰? その人?」男が話すそのアクセントは不自然な所が無く、雅臣はこの男が日本人である事を理解した。
「そうです、その旦那です」雅臣が口を開く前にアナンドが横から話し出す。「その旦那、右腕を怪我してまして」アナンドの説明を聞いて、男は雅臣の右腕があった付近に視線を落とし不機嫌そうに話す。「アナンド、君は少し黙っててくれ…… 暗くて良く判らんな。奥の処置室に行こう。ついて来て」ぶっきらぼうに話しながら男は踵を返し廊下を進んでいった。どうやら彼が医師らしい。アナンドや本人の態度を見て雅臣はそう判断すると彼の後に続いた。アナンドも後ろからついてきた。
廊下の突き当たりにある処置室に入ると医師は照明を点けた。部屋の中はちょっとした手術が出来るくらいの広さがあり、診察机に診察台、他に雅臣には使用用途が想像出来るが名称の判らない機材が並んでいるのが見えた。医師は診察机の方へ行くと振り返って雅臣を促した。
「そこの椅子に座って」そう言いながら医師も診察机の脇の椅子に座った。照明下にある医師の顔は口元から揉み上げまでひげを蓄え眼鏡をかけており、少し神経質そうにも見て取れた。年齢は四十代と言った所だろうか。
「それで、どんな感じかな……」医師は両手で傷口を見せる様に手招きをする。雅臣は傷口に刺激が伝わらない様にコートとジャケットを脱いで膝の上に置くと、今は肘の少し下程に短くなったシャツの袖をまくりあげた。医師はひゅうと口を鳴らした。「これは綺麗さっぱり無くなってるなぁ」医師はそう言うと薄手のゴム手袋をはめた右手の指で断面を突いた。途端、刺す様な痛みが雅臣を襲った。「痛覚は問題無い様だね」その様子を見て医師は言った。「で、どんな感じに治療したいんで?」
「まずは痛みを何とかしたい、外傷性ショックで死なない程度に。それと感染症とかにも罹らない様にして欲しい」痛みを頭から振り解く様に雅臣は答えた。「再生術は、落ち着いた時にかかり付けの医師にでも相談する」
「再生術? 切れた腕の方は持って来てないの?」
「生憎それが出来る状況ではなかったんでね」
「そうですか……、所で、治療費は払えるの?」医師は改めて雅臣に尋ねる。「ここはご覧の通りモグリの闇医者だから大掛かりな治療をするならそれ相応のモノを頂かなきゃならない。もちろん医療保険は適用外だ」医師は悪びれる様子もなく言った。医師の主張は最もだと雅臣は思った。<出島>の最下層で闇医者を頼る者と言うのは、得てしてそこ以外の真っ当な医者の治療を受けられない者しか居ない。そして、そんな訳有りな患者に対する様々なケアも闇医者には求められる。治療履歴やカルテの破棄、個人情報の否詮索、入院患者の保護、司法機関への非協力、等々。雅臣はコートのポケットから札束を二つ取り出すと、一つをアナンドの方に放り、もう一つを診察机の上に置いた。「これで足りるか? 多分百万ある」医師は札束を手に取った。
「確認しても?」雅臣は頷いた。医師は一枚一枚を数える様な事はしなかったが、束を持ってパラパラとめくり全部が本物の日本円である事を確認した。「これは訳有りなお金?」医師の質問に雅臣は答えた。「かも知れない」
医師は少し考えた後に口を開いた。「分かりました。貴方の言う範囲の治療ならこの金額で十分過ぎる程です。そしてもし望むなら再生術を行うまでの繋ぎとして簡易的に義手を装着する事も可能ですね」そう言いながら机の引き出しに札束をしまった。
「簡易的に? 義手?」
「そうです、機械式の義手です。もちろん、調律もきちんと行うので日常生活に支障が出る様な事は無いですよ」
「治療の期間は?」
「調律も含めて、二~三日くらい? かな……」医師のこの答えに、雅臣は自分が置かれている現状を照らし合わせて本能的な危機感を覚えた。危機感の要因は、件のエクステが問題動作を引き起こすリミットにあらゆる事が間に合うかどうかだった。雅臣は視界内の隅で点滅する最小化したアプリアイコンを開こうと思ったが、思いとどまった。後で、だがなるべく早いうちに、神田に連絡を取る必要が有ると雅臣は思った。ギリギリの綱渡りになるだろうが、腕の治療と同時に、件のエクステを無効化するソフトウェアを入手して作動させる。それ以外にはどうしようもないのが現状だった。「分かった、それで良い」雅臣は医師に告げた。
「よし、そうと決まったら早速治療に入ろう。かなり時間がかかる治療になるから始めるなら早い方が良い。もちろん、期間中は入院してもらう事になるけどね」医師はそう言いながら立ち上がると、室内の器材の方へと歩いて行った。
「旦那、大丈夫そうですかね?」アナンドが雅臣に話しかける。
「ああ、多分問題無いだろう。ありがとう」半ば儀礼的に礼を言う雅臣。
「じゃあ、あっしはこれで。帰りの足が必要な時はここに」アナンドはそう言ってメモを差し出した。雅臣は左手でそのメモを取って一瞥した。それは連絡先が書いてあるメモだった。アナンドはそそくさと部屋を出て行った。
雅臣は同じ室内で治療の準備をしている医師が遠くにいる様に感じた。どうやらここに来て疲労感が襲って来た様だと、雅臣は思った。外傷の痛みから来る緊張や、普段は行わなかった全身運動、そして日常では相手にしない他人と接する事による消耗した精神が、雅臣の心身を音もなく纏わり付く沼の底に沈めていく様な、そんな感覚だった。雅臣は今は只々、何も考えずに深い眠りについてしまいたい、そう考えていた。
『周辺検索終了!』何時もの如く視界内に突如として現れる洋子。だが、雅臣にとってそれは目は開いているのに内容が入って来ないテレビ番組の様に思えた。
『ちょっと! 聞いてますかーっ?』
『……あ、ああ』
『もういい、何かあったら知らせるから』
『……』何時も程に食い下がらない洋子のこの微妙に違った様子さえも、今の雅臣はどうでも良いと思った。だが、その考えに浸るのも束の間の事だった。
「まずは治療の初期段階としてこれを切断面に塗りますよ」医師のこの言葉に、雅臣は正気を取り戻した。医師は何かが入っているであろうカップを持って再び雅臣の前の椅子に座った。
「それは何だ?」雅臣は医師に尋ねる。
「これは医療用ナノマシン入りのジェルです。塗る事で切断面を覆うジェルによる殺菌効果があります。ジェル内のナノマシンは体温で患部に誘導されそのまま治療を行います。まぁ、効果はそれだけではないのですが」医師が雅臣に見せたカップの中には、青い半透明のジェルが並々と入っていた。
「と言うと?」雅臣は医師の説明に少し興味が湧いてきていた。医師はカップの中からジェルをすくい取ると、雅臣の右腕の切断面にジェルを塗りながら説明を続けた。「今回の治療では切断面に義手を接続する必要があるので、治療と同時に義手接続用のコネクタも定着させます。あ、実際は定着と言うよりは生成すると言ったほうが適切でしょうか。コネクタはいくつかの筋組織や神経を束ねた物が何本か生えてくる様な感じになります。そのコネクタ部分を作り出すナノマシンも一緒にこのジェルに入っています」医師は切断面から腕部皮膚に覆い被さる様にジェルを塗り終わると、胸に刺してあったペンの様な物を取出し、ジェルに近づけてた。その途端ジェルの表面が一瞬にして硬化した。「これで初期段階は終わりです」
「なるほど、大した物だな。説明も分かりやすかった」
「インフォームドコンセントってヤツですよ」医師はニヤケた感じで言った。雅臣はそれが、こんな場所で医者の様な事をしている彼の、自身に対する自嘲的な笑いなのだろうと思った。程無く、雅臣は右腕切断面付近にチリチリとした感覚を覚えた。それは痛みでは無くざわつく皮膚感覚に似ていた。「チリチリするな」思わずその感想を口に出す。「良かった、聞いてる証拠だ」医師は立ち上がった。「それじゃあ病室に案内しよう。ついて来て」雅臣はコートを手に取ると医師の後に続いて部屋を出た。
医師は廊下の照明を点けながら廊下を進み、階段を上って行く。照明は幾分埃っぽい廊下を照らす。あまり掃除はされてい無い様だった。
「ここにはあんたしかいないのか?」雅臣は尋ねた。
「今の時間はそうだね。入院患者も今日はあんたしかいない」医師は二階の廊下の照明を点けた。「部屋は全部空いてるから、好きな部屋を使ってくれ」医師はそう言うと片手で促した。雅臣は階段に一番近い部屋のドアを開けた。薄暗い部屋の中には乱雑に置かれたベッド二つのシルエットが見えた。
「照明はここだ」医師は入り口脇のスイッチを入れた。照明が室内を照らし出す。室内には、マットが敷かれただけの前時代的なパイプベッドが二つ、それぞれのベッド脇に申し訳程度の床頭台、部屋の隅に病室用洗面台、畳んだ状態で立て掛けてあるパイプ椅子が幾つか、天井に据え付けられているカーテンレールには仕切用のカーテンは付いていなかった。窓には恐らく降ろしっぱなしにされていたであろうブラインドが据え付けてあった。すべて急ごしらえに部屋に配置されている様に雅臣は思った。もともとここは病院として建てられたビルではないらしい。
「生憎、リネンは揃って無くてね。部屋にある物は何でも自由に使ってくれ」医師が言う。雅臣は窓に近い方のベッドに近づきマットに手を置く。するとマットからもうっと埃が立った。思わず医師の方へ振り替える雅臣に医師は首をすくめる様な仕草をする。このベッドに寝そべるのはゾッとしないな、そう思いながら雅臣は左腕だけで何とかマットを裏返す。幾分か埃はマシになった。淀んだ空気を入れ替える為、雅臣はブラインドを上げ窓を開けた。
「実を言うと入院する患者は殆ど居ないんだ。人手も足りてないので極力断る様にしててね。ああ、あんたは治療に数日かかるからその間だけだけど。金払いも良いし」医師はそう言いながらポケットから真空パックの携帯食を取り出す。
「俺は何をしていれば良い?」
「適当に過ごしていいですよ。明日の朝続きの治療をするんで」医師は取り出した携帯食を雅臣に渡す。「急激な体組織構成が行われると空腹にななるんで、これを食べる様にして下さい。食べないと治療に時間がかかるんでお願いします」そう言い残すと医師は部屋を後にした。
夜の冷気が部屋に満たされ、埃っぽさも幾分マシになった。部屋の電気を消すと、雅臣はベッドの上に体を投げ出し靴を脱ぎベルトを緩めた。何とかひと心地ついた雅臣は、思考コマンドで最小化したアプリケーションウィンドウを選択して視界内に開く。アプリの使用時間と試験選択実施残り時間がカウントダウンしている。『試験対象を選択して下さい』電子的な音声案内が頭の中に鳴り響く。雅臣はウィンドウからオプションメニューを探して、音声案内をミュートにした。次に、ヘルプメニューを開く。そして、メニューのあらゆる項目をしらみつぶしに確認する。アプリの概要は以下の通りだった。試験とは試験実施者が試験対象者からポイントを奪う事。試験参加者は参加した時点で自身に1ポイントが付与される。試験対象者に付与されているポイントは、試験完了時に換金出来るポイントとなる。ポイントは1ポイント当たり十万円。試験を完了させる方法は、試験対象者が装着しているエクステを試験実施者が入手し自身が装着しているエクステと共に付属のデータ通信端末に接続し、試験完了データを送信する。これにより、試験対象者の持つポイントの換金分が試験実施者指定の銀行口座に入金があると言う仕組みだ。ポイントを稼ぐ為に試験を続けるにはもう一度今まで使用していたエクステを装着すれば良い。試験参加自体を止める方法は、ポイントを10ポイント稼いだ段階で表示される終了メニューを実行する事、となっている。尚、その際には10ポイントを上回る1ポイントに付き同様に十万円が試験実施者指定の銀行口座に入金される。そして、重要なのはペナルティだった。これはエクステを無理に外そうとした場合と試験実施期間をオーバーした場合に与えられる事になっている。その場合、ペナルティとして電気ショックが加えられるとなっていた。
雅臣はハッとした。試験対象者からエクステを入手する…… 試験から抜けようと無理に外そうとするとペナルティが加えられる……
雅臣はヘルプメニューの中から試験対象者からエクステを入手する正規の方法を見つけて苦笑した。エクステを入手する正規の方法は、試験対象者の十分以上の心停止を確認した時点でアプリが検知してエクステが安全に取り外せる様になると言う事だった。全くイカレた世の中だ。雅臣は自嘲的に笑った。
『周囲検索引き続き異常なし』不意に洋子のアバターが視界内に現れる。
『ああ、ご苦労さん』雅臣はそう返事をすると、洋子は本当にいったい何者なのだろうか、と言う定期的に陥る疑問に捕らわれた。普通の人間なら休息も必要になってくるのだろうが事、洋子に関してはその様な様子は微塵も感じられない。そして、今はこの洋子の驚くべきハッキング能力が雅臣自身の生命を支えている状態で、不意に洋子自身が休養を欲し、それにより洋子からの支援が受けられなくなったとしたら……
『なあ、洋子』
『なんでしょーか、せんせー』
『その、お前は大丈夫か?』
『はぁ?!』
『いや、ぶっ通しで俺の為に色んな事をやらせる形になってる現状について……』
『うーん、何の事かなー?』洋子のアバターが視界内でくるくると回る。
『お前、寝たり休んだりしないのか?』
『あー、そんな事心配してるのね』
『そりゃ、俺だって疑問に思うさ。それにひょっとしたらこれから俺が治療に専念する際にも、お前にはずっと俺の周りで警戒監視を頼む事になるかも知れない』
『だーいじょうぶ。私には私の素晴らしいやり方があるのよ』
『にしてもだな』
『心配しなくてもだいじょーぶ、だいじょーぶ』
『お前、ひょっとして無理してないか? 俺が右腕を切られて責任を感じてたりはしないか?』
『……』洋子は何も語らなかった。アバターも無表示用に明滅するだけだった。
雅臣は知らないうちに洋子の機嫌を損ねたのではないかと思ったが、こうなってしまうと、もうどうしようもないと言う事も理解していた。いつもなら、こんな時は話題を変えるのだがさてどうしたものか、と雅臣は思った。
『そう言えば……』洋子は反応を返さないが、雅臣は話を続ける事にした。『神田との連絡方法を失ってしまったな……』洋子が捉え易いように思考してから、洋子がこの話題に興味を示さなかったらどうするかについても雅臣は考えたが、構わず思考を続ける事にした。『やはり携帯電話を途中で捨てて来たのは失敗だったかも知れないな』
『それは仕方がなかったんじゃないの? 位置情報が漏れると警察に捕まっちゃうんだから』
『それはそうなんだが、このままじゃ神田がこのアプリを解除するプログラムを入手しても、それをこちらで手に入れる方法が無いんだよ』
『そうね……』洋子は興味無さそうに答えた。『後でこの病院の電話を借りれば良いんじゃないの?』
『そうだな』
これ以上洋子とのやり取りを進める事に今は意義を見出せない雅臣を、突然猛烈な睡魔が襲った。恐らく当面の危機から脱出したであろう安心感も、それに拍車をかけていた。
雅臣はいつしか深い眠りに落ちて行った。




