奈落の男26
アメリカ合衆国カリフォルニア州サンノゼのイースト・ヘディング・ストリートからレイモンドバーナルジュニア記念公園を臨む場所に六階建の古いアパートメントがある。一階から五階までは各階六部屋からなっているこのアパートの六階だけは丸ごと一部屋でワンフロアとなっていた。この六階部分はNSA(米国家安全保障局)がダミー会社を経由して借り上げており、シリコンバレーの情勢を監視する拠点ともなっていた。小規模だがデータールームとも見紛う程のコンピュータ群がひしめくこのフロアで、№6ことリチャード・ボウマンは今の自分の置かれている境遇を恨めしく思っていた。これから“Mad Info”のシングルナンバーズ№5の出した条件をクリアしなければならないのだ。彼のこの無理難題はこちら側の力を探る為に仕掛けてきた物だと言うのは火を見るより明らかだった。もちろん、手が止まる事は任務の失敗を意味し、リチャード自身の情報が露見したならば、何年にも渡って築き上げてきた“Mad Info”での立場を失う事になるだろう。それは、我が合衆国の電脳世界での影響力拠点の一つを失う事になる。だが、リチャードには考える時間的猶予は無かった。リチャードはすぐさま政府専用秘匿回線で日本の東京都にある赤坂プレスセンターを呼び出した。四十五階建てのプレスセンター内の三十二階にあるNSA分室の当番職員が呼び出しに応答するまでに二分二七秒の時間を要した。
「NSAのハリー・カールトンです」
「NSAのリチャード・ボウマンだ。夜分済まないが緊急の用件だ」
「どうぞ」
「今から送るプログラムを媒体に複製して二十分以内に首都高速の箱崎パーキングエリアに居る人物に届けて欲しい」リチャードはそう言いながら端末を操作してソフトウェアを送信した。
「誰に届けるんですか?」
「№5と言う人物だ。それから、それを届ける君は今から№6だ」
「バックアップは?」ハリーは尋ねた。
「思考チャットでこちらからバックアップするから話を合わせてくれ。端末を装着してくれ」リチャードが答える。ハリーは転送が終了したのを確認すると、そのソフトが入ったメモリ媒体を手に取る。次に、職員が携行する為の思考チャット用レシーバーの電源スイッチを入れて通信ポートを確認する。
「こちらの端末の通信ポートは、23NA:DC43:DQCE-34 です。シンクロ願います」ハリーはリチャードに告げるとレシーバーの通信ランプを確認する。数秒で同期ランプが点灯し、アメリカにいるリチャードの思考チャット端末との接続が確立した事が見て取れた。上着をはおり、ポケットにメモリ媒体をねじ込むと、レシーバーから接続ケーブルを引き伸ばし頸部の接続口につなげる。ケーブルがリンクすると、視界内にリンクメッセージが表示される。『思考チャットリンクしました』と答える間にヘリポートへと走る。エレベータが屋上に着き、エレベータホールから出てスピーダーに乗り込むまでで既に十分弱が経過しようとしていた。焦る気持ちを抑え、スピーダーのエンジンをスタートさせると音声入力で目的地の箱崎パーキングエリアに行先を指定する。スピーダーは離陸シーケンスに入って屋上を離れた。『今離陸しました』ハリーはリチャードに現状を報告する。
『オーケー、時間は間に合いそうだな。状況を説明する。これから君が会う№5と言う人物は僕がコネクションを持っている情報源のハッカーの一人だ。少し気難しい人物だが、君が持っているそのプログラムを渡す事で彼はハッピーになれるだろうし、僕は彼に恩を売れて同じくハッピーになれる』リチャードは掻い摘んだ説明をした。
『気難しいとは?』気になった点を問いかけるハリー。リチャードはハリーの不安を感じ取った。しかし、事の顛末を一から十まで懇切丁寧に説明している時間は無い。
『彼は官憲の人間が大嫌いだと言う事だよ。だからそれを悟られない様にして欲しい。それと彼と接触しても追い回すような真似はしないで欲しい』重要な事のみを強調する様にリチャードは答えた。
『……、分かりました』そして、ハリーもその緊張感を理解した。
スピーダーが箱崎パーキングエリアの上空を旋回しながらゆっくりと降下する。ハリーはスピーダーのセンサが捉えたエリア全体の様子を確認する。なるほど、ここのパーキングエリアはビルの中のワンフロアがそのままパーキングエリアになっているらしい。従い、上空からのスキャンでは詳しい状況を確認する事が出来ない。もう少し詳しい状況を把握するにはビル内のパーキングエリアに入る必要がある。№5とか言う人物は今回の会見についてかなり警戒しているのだと、ハリーは理解した。ハリーはスピーダーをパーキングエリアのランプウェイに着陸させると、そのままビル内のパーキングエリアへと滑り込ませた。パーキングエリア内には何台かの車両や単車が停車していた。ハリーはスピーダーをゆっくりと進めながら停車可能なスペースを探す。その間にも不審な動きをするものにセンサ越しに注視したがそれは徒労に終わった。ハリーは運良く開いていた駐車スペースにスピーダーを停車させ車外に出ると時間を確認する。日本時間で23:24、ギリギリで一分前の到着だった。『到着しました』ハリーは思考チャットで状況報告をする。
『グッド、周りに人影はあるか?』リチャードは尋ねた。ハリーは周囲をサングラス型モニタで見まわす。人影も動態反応も検知されてはいなかった。『ありません』そして短く答えた。『そろそろ待ち合わせ時間の23:30だ、気を引き締めてくれ』
荒涼とした空気にかすかに混じる排気ガスの香りとビル街の喧騒。ハリーは緊張感の中段々と冷静になっていく自身を意識し始めていた。
「お前は№6か?」不意に耳元に入る日本語。ハリーは振り向いたがそこには誰も居なかった。「お前は№6か? そうならそのまま頷け」再び耳元に入る日本語。ハリーは言われるままに頷く。どうやら会見する人物は指向性スピーカーで自分の発声を私の耳元に収束させている様だとハリーは思った。
『接触しました』ハリーはリチャードに呼びかける。
『よし、相手の機嫌を損ねるなよ。可能な限り言う通りにするんだ』リチャードはハリーに指示をしつつ、侵入に成功した駐車場の監視カメラの映像を確認した。ハリーの言う通り、カメラの映し出す範囲内には他に人影は無かった。№5はステルス系装備を使っているのではないか? リチャードはそう思った。会見の場所は高速道路のパーキングエリアだ。目立たない様にこの場所に来るにはやはり車両で普通に入ってくるしかない。だが、監視衛星の記録画像ではそれらしい兆候を確認するには時間が無さ過ぎる。今は事の推移を見守るしかないのか…… リチャードはそう思った。
「よし№6、提供してくれる物を掲げて見せてくれないか?」恐らく№5であろう声が指示するままにハリーは上着のポケットからプログラムの入った記録媒体を右手で取出し掲げた。
「OK、次はそれを俺の場所へ持って来てくれ。」次の支持を聞いて何だと? 見えていない相手の方角など分かる訳が無い! ハリーはそう思いつつ再び辺りを見回す。だが、やはり人影は無い。
『リチャード! 指示を頼む!』ハリーの思考チャットメッセージにリチャードは返す。『落ち着け。落ち着いて辺りをもう一度確認するんだ』それと同時にリチャードは監視カメラ映像を食い入る様に睨み付ける。そして№5がこの場所を指定してきたもう一つの意図に気付いた。
『ハリー、その記録媒体を駐車場の五番目の駐車スペースに持って行くんだ』リチャードの指示にハリーはハッとし、五番目の駐車スペースを確認する。そこには駐車中の白いミツビシがあった。モニタには何も不審な点は表示されない。車内に誰かが潜んでいる形跡もないし、エンジンのサーモグラフィも高温ではない所を見ると、この車の持ち主はパーキングエリアの休憩スペースで一息ついているのでは、と思われる位の時間経過が推測出来た。ハリーは、メモリ媒体を白いミツビシのボンネットの上に置くと誰に言うとは無しに問いかけた。
「これで良いのか?」すると、数秒して姿なき№5からの声がまたもや耳元に発せられた。「それで良い。自分の車に戻ってくれ」この指示に安堵したハリーは乗ってきたスピーダーに向かって歩き出しながら何とは無に質問を呟いた。「所で、どうして姿を見せないんだ?」
「お互いの姿を確認しない方が面倒が無くて良いだろう?」意外にも№5と思われる声から返答があった。
「こっちは姿を晒しているのに、“お互い”って事は無いんじゃあないのか?」ハリーはそう言いながら五番目の駐車スペースに向かって振り返った。白いミツビシのボンネットに置いた筈の記録媒体は既に無くなっていた。
「確かに媒体は受け取ったよ。気を付けて帰ってくれ」№5と思われる声はさらに続ける。「それと、№6には宜しく伝えてくれ」
パーキングエリア内にエンジン音が響き渡った。ハリーは反響するエンジン音の発生源に視線を移した。それはバイクのエンジン音だった。バイクはパーキングエリアの出口の方へと走り去って行く。ハリーは乗ってきたスピーダーへ走り出しながらバイクを視線で追ったが、そのバイクには人が乗っていなかった。いや、乗っていない様に見えるだけなのかもしれない。我が国でも使われるステルスウェアならそうする事も可能だからだ。
『どうしますか? リチャード。追いかけますか?』ハリーは思考チャットでリチャードに問い掛けながらスピーダーのエンジンをスタートさせた。リチャードは監視衛星がズームするパーキングエリア付近のライブ映像が映し出されているモニタを見ながらハリーに答えた。『衛星でそのバイクは追跡しているから君は気付かれない様に十分に距離を開けて追跡してくれ』万が一と言う事もあるかも知れない、リチャードはそう思っていた。ハリーはスピーダーを地上走行モードで発進させた。




