奈落の男20
洞東餐廳が視界に入って雅臣を驚かせたのは、かつての同僚達の姿だった。洞東餐廳の軒先には、重装備の警官が二名立っていた。その警官の防護服の肩には“メ03”と書かれている。これは警官の所属小隊を示す記載なのでこの警官達はメガフロート署の突捜第三小隊だと言う事を雅臣は理解した。ここまであからさまに〈出島〉の最下層部で捜査活動が行われているという事は恐らく他に第一、及び第二小隊も別の場所に展開していると思われた。或いはそれ以上か。普段は最下層部の住人を刺激しない様にしている警察が一体何の理由でここまで形振り構わず動いているのか、雅臣は疑問に思った。今、店の中では李が聴取を受けているに違いない。そして、その場に行くのは得策では無いな、と雅臣は判断した。さて、どうしたものか。
雅臣は一瞬途方に暮れた。時計を確認すると、時間は二十二時を回っていた。かつての同僚にこんなくたびれた自分の姿を見られるのは、正直な所昨日突然訪ねて来た荒川和美の件で懲りていたし、今は偶々だが二百万と言う大金も持っているので捕まった場合の理由の説明も面倒な事になるだろう。それに、李の洞東餐廳以外でこの時間帯に、この最下層部で酒を入手出来る場所を雅臣は知らなかった。中層部のコンビニに行けば酒を買うのは簡単なのだが、二十一時以降はリニアエレベータも最下層部までは降りてこないので、手近にある険しい階段を往復する必要がある。さらに言うなら、今現在、ここまで大っぴらに警察が動いている事を鑑みて、中層部への階段にも警官かドロイドが待機している可能性も少なくは無い。
『ただいまー』
『おいおい! ただいまー、って俺の脳はお前の家じゃないんだぞ!』洋子の突然の出現に、雅臣は現在の厄介な状況から、苛立った返事を返した。
『もう、何よ! 感じ悪い!』洋子のアバターが怒り出した。
『悪かった! 今面倒臭い状況なんだ。場所を変えるぞ』洋子の態度を察して、適度になだめすかす言葉をかけると、雅臣はその場を離れた。
『面倒臭いって何よ!』
『今そこらじゅうに警官が居て、あんまり目立ちたくないんだよ』
『それこそ犯罪者の思考じゃん。元のお仲間なんだし、挨拶でもしたらぁー?』
『洋子、お前状況が判ってないだろ?』
『なんでよ?』
『その一、今そこらじゅうをうろついてる警官は突撃捜査員で、それも結構の数で展開してる』
『ふむふむ』
『その二、俺は今、外見では何だか判らないエクステを装着している』
『ふむふむ』
『その三、このエクステは一見すると不正に作られたドラックウェアにも似ている』
『……、あー! なるほど!』洋子はやっと状況を理解した様だった。『でもさ、それなら尚の事警察に協力を仰げば良いんじゃないの? 例の女刑事への協力とか何とか言ってさ』
突然、洋子は何を言い出すんだろうか、と雅臣は思った。ひょっとして、俺と荒川和美との過去の間柄について少なからず嫉妬しているのだろうか。
『なるほど、それも良い手ではあるな……』先ほどの洋子の発言が嫉妬から来るものだとしたならば、雅臣は今の雅臣の発言からの返ってくる洋子の反応に興味があったが、それは現状では最重要な事ではなかった。『だが、今俺の頭の中で動いているアプリがそれを許す時間を与えてくれないとは思うがね。現に今もこの俺にこのアプリは汚れ仕事をさせたくてウズウズしている様だしな。それにもしそんな所を李やその仲間に見られたら更に面倒臭い事になる』
『そ・ん・な・こ・と・よ・り・も!』洋子が突然、雅臣の脳内で叫ぶ。
『何だよ!』
『あたし、ばーっちり判っちゃいましたー。そのエクステ一式の通信先!』さも得意げな表情を見せる洋子のアバター。
『おいおい、何でそれを早く言わないんだよ!』雅臣は怒ってる風に、だが嬉しさも隠さずに洋子に怒鳴り返した。
『ちょっとー、いう事はそれだけ?』
洋子に促されて雅臣は思った。年を取ると人間は得てして若年者に対して――もっとも、洋子が本当に若年者なのか、雅臣には知る由もないのだが――素直になれなくなってゆく。経験という名の錆は人間の心の部分に付いてしまうのだなと。
『ありがとう洋子。よくやった! 偉いぞ!』雅臣は純粋に洋子に賞賛の言葉をかける事にした。
『エヘヘ……』そして、洋子もまんざらでは無さそうに答えた。
『どうした?』
『せんせーが、そうやって褒めてくれるの初めてだなー、って……』
『……』今にして思えば、洋子がこんな形で雅臣の脳内に現れる様になって半年程経つのだが雅臣自身は洋子の事を、物好きな出歯亀のクラッカー程度にしか思っていなかった。だが、洋子の人となりを真剣に考えた事はあっただろか。雅臣は自問した。
『この試験を実施しますか?』最小化したウィンドウがポップアップして女性電子合成音が無粋に問いかける。厄介事の種がもう一つあったな、と雅臣は思った。
洋子は、何やら思案している様子の雅臣に気付いて問いかけた。『せんせー、どうしたの? これからどうするの?』
『洋子、一旦家に帰って態勢を整えようと思うんだが、ここから家までの間で突捜の連中がどれくらい展開しているか確認出来るか?』
『もちろん!』すぐさま消える洋子のアバター。心なしか洋子も積極的に協力してくれている気がした。そして、驚くほどの速さで洋子は戻ってきた。
『ダメだぁー、せんせー』
『どうした?』
『何でか分からないけど、せんせーんち、警官べったり張り付いてるよ』
『何だって!』
一体全体どう言う事情なんだ。雅臣は困惑した。さながら地雷原の真ん中に放り込まれたような気分になった。これは異常だ。まるで俺自身が容疑者扱いじゃないか……
『洋子! 急いで警察の通信内容を傍受してくれるか?』
『良いけど、結構時間かかるかも……』自信が無さそうに答える洋子。時間がかかると言っても何時間もかかるような物ではない事を雅臣は理解していたが、今は一分一秒でも無駄にはしたくなかった。
『俺が昔使っていたスクランブルコードを教えるからそれを元に確認してみてくれ』雅臣は在職中に使っていた警察通信のスクランブルコードを洋子に教えた。
『なーんだ、これなら全然早く終わるよ』
『よし、頼むぞ』
『まかしてー』再び洋子のアバターが消えた。
洋子が戻ってくるまでのわずかな時間に、雅臣は状況を整理しようと思った。時限式で動作するアプリ、神田がアンインストール方法を確立させるために必要とする時間、なぜか突捜の展開が雅臣を容疑者扱いしている事を伺わせている点、洋子が突き止めたエクステの通信先……
「動くな!」雅臣の思考は、突然後ろからかけられたその一言で遮られた。「振り向かずに、
両手を見える位置に出せ! ゆっくりだぞ!」
迂闊だった、雅臣は思った。思考する事に気を奪われて警戒力が散漫になっていた。突捜の連中を刺激したら即座に銃撃されるだろう。彼等はそう訓練されている。雅臣は言われた通りゆっくりとポケットから手を出した。
「そのまま、両手をゆっくり頭の上に乗せるんだ! ゆっくりとだぞ!」突捜の捜査員の怒声が響き渡る。第一声を日本語で話し掛けている所を見ると、やはり捜査対象は日本人だと雅臣は理解した。雅臣は時間をかけて両手を頭上に乗せた。
「よーし、そのままゆっくりこっちを向くんだ!」
マニュアル通りの対処方法とは言え、雅臣はイラつき出していた。そして、ゆっくりと振り返った。そこには完全装備の突撃捜査員が二名、H&K社の短機関銃をこちらに向けて構えていた。防護マスクの下からの視線から、十分に殺気が伝わってくる。
「佐伯雅臣だな?」二人の内、やや雅臣に近い位置の隊員が尋ねる。
「そうだ」
「佐伯雅臣を確認しました」その後ろ側の隊員はマスク内の無線機にて状況を指揮所に報告する。「ある事件の重要参考人としてお前を連行する」隊員は続けて雅臣に告げる。
「礼状はあるのか? 何の事件だ?」
「欲しいのなら、裁判所に電子申請するまでだ。緊急事案だからものの数秒で終わる。何の事件かは署についたらじっくり説明してやる」
「分かった、同行しよう」
「物分りが良くて助かるよ」雅臣は隊員が安堵したかのように見えた。とは言ったものの、署に連行されて参考人聴取を行われたら確実に時間を浪費するだろう。そして、その間にも俺はリミット切れで補助電脳を焼かれて死ぬかもしれない。万事休すか。
『せんせー、どうしたの?』しめた! 良いタイミングで洋子が戻ってきた。雅臣はすかさず洋子に話しかける。
『洋子! 今すぐこの隊員二人の防護服の電源を落とせ!』
『は、はい!』雅臣のあまりの迫力に気圧されて洋子はすぐさま、それを実行した。
「!」二人の隊員は突然の事態に声を発する事も出来なかった。電源を落とされた防護服は内蔵された形状記憶金属繊維で作られた人工筋肉の動きを止め、二人の隊員をまるで彫像の様に固定してしまった。
「トリガーが引けません!」
「バカな! いきなり電源が落ちるなんて!」
「内蔵無線機も使用不能です!」
うろたえ取り乱す二人の隊員を尻目に、雅臣はその場を離れようとした。
「待て! 貴様何処に行く!」
「生憎、こっちも暇じゃないんでね。時期が来たらこっちから出頭してやるから安心しろ」
「バカを言うな! 待て!」しかし、隊員の言葉も虚しく雅臣は路地の迷宮へと消えていった。隊員はそれを見守る事しか出来なかった。
『あれで良かったの?』足早に歩く雅臣に洋子は問いかけた。
『上出来だ! さすがだな、洋子』
『えへん!』洋子がちょっと調子に乗ってきたな、と雅臣は思った。『で、例の件は何か分かったか?』
『もちろん、だけどせんせーにとっちゃ、かなりショックな事だけど覚悟は良いかな?』
『話してみろ』
『あの女刑事が誰かに撃たれたらしいわよ』
『……』
『で、その時に持ってた携帯電話の連絡先がせんせーだったから、せんせーは今、重要参考人扱いされてるんだってさ』
雅臣は平静を装い携帯電話を取り出し再度、着信履歴を確認した。そして、この誰のか分からない番号が和美からの発信だったのかと理解した。次に雅臣は携帯電話の電源を切ると、それをゴミ箱に捨てた。
『迂闊だったな。携帯電話の位置情報から足が付くとはな……』
『そんな事言うなんて、せんせーやっぱり犯罪者みたいジャン』何気ない洋子の指摘に、雅臣はギクリとした。そして俺はもう越えてはならない一線を越えてしまったのだろうかと自問した。
『気にしない、気にしない。それよりこれからどうするのさ?』雅臣の様子に気づき、陽気に話題を変えようとする洋子。アバターもにこやかだった。洋子の問いかけに対して、雅臣の回答は既に決まっていた様だった。『洋子、お前が確認したデータの送信先に案内してくれ』
『良いけど、大丈夫?』
『今は本当に時間が惜しい。それにそこが何だかきちんと確認出来たなら、ある程度の動き方が見えてくるかも知れない』
『分かった! 案内するよ!』
雅臣は急いで目的地へと向かった。




