奈落の男19
通信端末から発信された瞬間のデータをキャッチした洋子は、すぐさまそれをコピーし送信先指定データ以外の箇所を破壊してからそのデータに自らを偽装する。次にデータのエイジングを元のデータより若干、若く修正してスタートさせる。こうする事によって、二重送信による再送要求のチェック処理が問題無く行われている様に、送信先に錯覚させる事が出来るからだ。洋子が偽装しているデータは内容が破壊されている為、送信先に到達した時点で破棄されるので洋子自身はそのタイミングを見計らって、送信データから離脱すれば良い。
準備は万端だ。後は、データが最終的に何処へ送信されるかを待てば良い。それがどう言うルートで、何処へ送信されようと、現実世界では物の数秒の筈だ。
データは、公衆通信網を経由して衛星回線を通り、世界中を回って擬装したかの様に移動し、最終的にやはりこの〈出島〉に戻ってきた。ここまでは洋子も予想していた。そして、送信先に到達するタイミングで洋子はデータから退避し、運び屋代わりとなったデータが廃棄されるのを確認した。洋子はすぐさま、その地点を記録した。
次に洋子は国土交通省のデータベースへ飛ぶと、その中から現時点で公式とされている
〈出島〉の三次元構造図にアクセスし、記録地点と追跡した経路を照らし合わせた。すると思いがけない事が判明した。通信データの最終確認地点には何ら構造物が無かったのである。
〈出島〉はその構造上、東京湾の大部分を覆い隠してしまう。これによる東京湾内の環境変化を危惧し建設当初に〈出島〉には上層部のヘリオスタットを得て海面に太陽光を取り入れる様にするべく、吹き抜けとなっている箇所が数十箇所あるのだが、通信データはその吹き抜け区画の一箇所で廃棄されているのであった。
『どう言う事?』洋子が疑問に思うのも無理は無かった。通信データの追跡は問題無かったし、データ廃棄処理も何ら怪しい所は無かった。とすると、これは通信データが海の中に消えていった事を意味する。
思考する時間も考慮して、実世界ではもう五分程は経過しているだろうか。だが、洋子はこの不可解な事象の原因を突き止めたかった。それはもちろん、雅臣の今後の生死に関わる事でもあったが、それよりは洋子自身の好奇心の方が若干上回っていた。洋子は問題の区画を確認可能な監視カメラが無いかを探り、その結果程よい位置にあるカメラに侵入する事が出来た。洋子に操られた監視カメラが問題の区画をくまなく映し出す。その区画はやはり上層部から海面まで吹き抜けで、がらんどうの区画だった。洋子はさらに注意深く海面を監視カメラで確認した。そしてこの不可解な事象の原因とも言える物を確認した。それは区画海面の中央部を漂うブイだった。もしこれがある種のアンテナだとしたら。
監視カメラから離脱した洋子は次に何をするかを思考した。現時点でも十分に足る情報を得ているに違いないと洋子は確信していた。だが、洋子はこのままの事をそのまま雅臣に報告しに帰った場合、また雅臣は何らかの揚げ足を取ってくるに違いないと思った。件のエクステを調査した時がそうだったのだから、これは火を見るより明らかだ。そして、今回は雅臣自身の命が懸かっているかも知れないのだから尚更だろう。
『よし、久しぶりに本気を出してみましょうかね』洋子はネットワーク内の自分のパーソナルスペースに移動した。ネットワークのクラウド内に密かに電制を巡らして築き上げた秘密のエリア、電脳女王の居城。恐らく、ここは世界中のネットワークの何処にも存在し且つ、何処にも存在し得ない場所だった。そして、ここが無くなるという事は人類の電気通信ネットワーク文明が滅亡する事を意味していた。このパーソナルスペースは、グラフィックツールと3Dプログラミングで作り出されたヴァーチャルリアリティ空間だった。いわゆる、ネットワーククラウド内にポッカリと存在する、座り心地の良さそうな椅子以外には何も無い一室。洋子がそこに入ると、グラフィックツールと3Dプログラミングは洋子のモデリングを行う。恐らく、それを見る事が出来る人物が居るとしたら、そのモデリングされた洋子の姿を本物の人間と区別出来る人物は居ないであろう。
洋子は描画された部屋の椅子に深々と腰掛けると、右手をかざし左右に振った。その途端、部屋には多数のアプリケーションウィンドウが連結された球状に出現し、洋子を覆った。次に洋子は左右の手をかざすと、まるでオーケストラのマエストロの様に手を動かす。それに呼応して洋子を覆っている球状のウィンドウ郡が高速で回転を始め、その各々のウィンドウは次々と様々な映像を表示しては切り替わりを繰り返し始めた。洋子はそのウィンドウスフィアの中から瞬時に表示情報の要不要を取捨選択する。必要な情報は通信に使用されるブイについてだ。情報は言語の種別も問わなかった。ウィンドウに表示されている情報は次々と溜まる。洋子は情報がある一定数溜まると左手をかざして動かし、その情報でさらに小さいウィンドウスフィアを作り、拡大展開表示させて洋子を取り囲んでまだ情報を表示し続けている大きなウィンドウスフィアに上書きした。こうして、洋子はブイの情報を表示しているウィンドウスフィアに覆われた。
『以外に、情報が偏ってる様ね』
洋子がそう判断するのも無理はなかった。調査条件があまりにも特殊な上、洋子が得意とする分野の情報では無い事も原因の一つだった。だが、時としてその様な場合の方が先入観が無い分、偶然にも必要とする情報を的確に発見出来る場合がある事を洋子は理解していた。そう、洋子が探していた物とまったく同じ用途とするブイの情報を発見する事が出来たのだ。それは潜水艦が装備している超長波受信用の曳航ブイだった。なるほど、これなら先のデータの通信挙動も理解出来る。洋子はそう思った。最後にダメ押しで洋子はこの、超長波受信用曳航ブイについて詳細を調べる。記述情報、及び画像情報を集められるだけ集めると、洋子は先に監視カメラに侵入した時に撮影したブイの画像情報と照らし合わせてみた。
『ビンゴ』洋子は小さく呟いた。画像情報は全く同じだった。
洋子はこの結果と、自分が把握している情報を元に思考する。超長波通信用曳航ブイを装備している潜水艦は主に軍事目的で使用される外洋航行が可能な原子力潜水艦に多い。だが、エクステが通信に使用していた通信体系はMMCIの一般通信体系で、軍事用の規格とは違う。この事から推測出来る事は何か。可能性は四つある、と洋子は思った。一つ目は、軍用の潜水艦が何らかの目的で一般通信体系を利用せざるを得ない状況である事。だが、これは軍用潜水艦の運用における秘匿性、隠密性の特性を犠牲にするので可能性的には薄い。二つ目は、超長波通信用曳航ブイを装備している潜水艦が実は特殊な艦で、単にそれを装備しているだけの民間の改造潜水艦であるかもしれないと言う事。この場合、通信体系が一般規格の物を利用していてもそれに合点がいく。可能性としては高確率だ。三つ目はそのどちらでもあると言う事。この場合、退役した軍用の潜水艦が民間で購入され運用されている可能性がある。だがこの場合、それが外洋航行が可能な原子力潜水艦と仮定するなら、それを運用するノウハウを丸ごとを購入する財力がある民間企業、あるいは組織が、果たしてこの様な利益的に非効率な事を――リスク等も考慮して――実施するのだろうか。これも可能性は薄い。そして四つ目はこれらのいずれかにも該当しない場合。こうなってしまうと、もうその事象は洋子自身の想像の範囲外にそれはある。こうなると洋子としてはもう、お手上げだった。
『せんせーじゃないけど、あたしもある程度のリスクは覚悟するか』
洋子は右手をかざし一回転させてから右側に大きく手を振った。するとウィンドウスフィアは洋子が振った手先に収束して行き、一瞬で消えてしまった。次に、洋子は左手をかざし同様に一回転させてから今度はその手を左から自分の胸元に大きく振った。すると今度は洋子の胸元から一瞬に洋子がこの空間内に保持するアプリケーションソフトや自作改造ソフトが溢れ出した。それらのアイコン郡は、この空間内の洋子にまるで傅くかの様に、洋子の周りに美しい幾何学模様を作り出し、きらびやかに明滅し出した。
洋子はこの後どうするか既に意を決していた。それは、エクステの通信先に対してのハッキング行為だった。洋子は展開されてるアイコン郡から今回の対象へのハッキングスタイルを考慮しつつ使えそうな物を選んでゆく。アマチュアのハッカーが好んで使う中で信頼性の高いソフトが良い、洋子はそう思った。攻撃は弱く防御は硬く、だ。最初のハッキングで上手く電制を突破出来るか、しかも相手に気付かれずに、そこが鍵だった。そこら辺りにゴロゴロいる三流のハッカーの様に振舞おう。少なくとも相手側にそう思い込ませる事が重要なのだ。
実際、洋子にはどんな電制でも突破する自信はあった。だが、その結果が雅臣にとって良くない方向に動き出す事だけは避けなければならない。最初のハッキングの結果、それが相手を追い詰めて相手側が電制を強化するのは問題無い。もう一度ハッキングするだけの事だ。だが最初のハッキングの結果、相手が警戒して物理的に〈出島〉の外に出て行ってしまうのはまずい。そう言う事だった。
洋子は装備を選択し終わると、両手を一回叩いて、パーソナルスペースを閉じる。パーソナルスペースはピースごとにバラバラになりクラウドの中へ広がる様に消えて行った。次に洋子はグリッドに収束すると猛スピードでネットワーク内を走り出した。
恐らく実時間では数秒しか経過していないだろうが、洋子はハッキング対象にたどり着いた。
『さーてと……』
洋子は、特製のコードブレイカーで電脳の門を開けると内部に進入して行った。次に、洋子はデータ変換ツールで膨大で圧倒的な数のデータの奔流を視覚情報で認識出来る様に変換した。するとデータの奔流は一瞬に長い回廊へと視覚情報を変化させた。この長い回廊は何処までも続いている様に見えた。洋子は、この回廊はチェックポイントを見逃すと延々とループし続けるのだろうと予想すると注意深く、だが素早く回廊を進んでいった。
突如、回廊に何らかのデータが出現した。出現データは一瞬で視覚情報に変換され、それはまるでファンタジー世界に登場する騎士の姿をかたどってゆく。どうやらセキュリティプログラムに侵入者だと認識された様だと洋子は理解した。馬上に座する甲冑姿の騎士は手に持った槍を洋子の方に向けるとそのまま突進してきた。洋子はその突進を紙一重で軽々とかわし、セキュリティプログラムが何であるかの解析を開始した。洋子は、これが視覚情報に変換されるという事はセキュリティプログラムは恐らく民間のコンピュータセキュリティ対策会社の製品だろうと、あたりをつけた。
『もう少し踊りますか』
洋子はセキュリティプログラムの情報収集を兼ねて、少し様子を見る事にした。すると、
データ変換ツールはいつの間にか辺りの表示を回廊ではなく、円形状の広い空間へと変えていた。そして、今度は洋子を取り囲むように十二人の騎士を表示した。
『この攻撃パターンは“Knights of the Round Table”(Nadezhnaya krepost'社製セキュリティソフトウェアの製品名)だわ』
十二人の騎士は同時に洋子に向かって突進を開始する。洋子はそれを今度は紙一重で上空に飛び上がり回避する。十二本の槍は空間の中央で激しくぶつかり合った。洋子はそこに優雅に舞い降り、交差した槍の一点に立った。洋子の記憶が正しければ、次の攻撃はランダム配置からの連続攻撃の筈だ。だが、洋子を取り巻く円形状の広い空間は形を変えて、今度は洋子を中心に内包する広い球形の空間に変化した。そして、その内壁はびっしりと騎士達に埋め尽くされていた。このままあの騎士達が一斉に突撃してきたなら、この空間内に洋子の逃げ場所は無い。それを想像する事は容易だった。
『カスタムバージョン? トマス・マロリー版? 間に合うか?』
洋子は身に着けてきたソフトウェアの一つを展開して、即座に自分のコピーを数十体出現させる。洋子のコピー達は猛スピードで騎士達の一区画に突入して行き、同数の騎士達を拘束した。拘束されていない他の騎士達は猛スピードで、中心の洋子に突進してくる。洋子は即座にコピー達が作り出した突進の隙間に猛スピードで逃げ込むと、今度は身に着けている別のソフトウェアで巨大な槍を出現させる。そして、その巨大な槍を拘束されている騎士達へと放つ。槍はコピーもろとも、騎士達を貫き、球体空間の内壁に突き刺さった。洋子はすかさずグリッドに収束し、巨大な槍が突き刺さって開けた穴を利用しこの空間から脱出すると、急いで公衆網へと逃げ込む。だが、システムから放たれたウォッチドッグ達が(コンピュータのウォッチドッグタイマーという機能からもじってソフトウェアの猟犬の事をハッカー達はこう呼んでいる)洋子を即座に追跡する。洋子は先程と同様に今度は公衆網の逃走ルートの要所々々に自分のコピーを展開して簡単にウォッチドック達の追跡をかわす事に成功した。
『ひとまず、こんな物かしら?』
洋子は久しぶりに良い頭の体操をした充実感の余韻に浸っていた。実時間ではもう十数分程は経過しているであろうか。調査情報を吟味、推測して行動するのは雅臣自身なので洋子はひとまず雅臣の下へと戻る事にした。