奈落の男1
東京湾メガフロート、通称〈出島〉は二十一世紀中ごろに行われた大規模建設プロジェクトとしてギネスブックにも掲載された。総面積約七百平方キロメートルの海面を多数のフロートユニットを浮かべて覆い、それらフロートユニットの各々をカーボンナノチューブで編みこまれた直径五メートルのワイヤーで無数に接続する。こうして作られたフロートユニット郡は、東京湾沿岸各所にあるフロートユニット郡固定施設と同様のワイヤーで係留され、湾内の一定位置に留まるようにされている。フロートユニットには大小のピラミット状多層積層建造物を載せている。その多層積層建造物に工業区画、居住区画、商業区画を収容する。多層積層内の主要交通手段は、車両による通常の交通手段以外に中層部、上層部に張り巡らされているリニアモノレール、及び階層間の移動にリニアエレベータが交通手段として使用されている。外部との交通は下層部から沿岸に繋がる自動車道と、中層部から沿岸に繋がるリニアモノレールがこれを担っていた。人口約六百万人。日本人、アジア人、ラテン系やアラブ系等、様々な人種がここで生活している。東京湾メガフロートは首都圏の住宅事情対策と、雇用対策、更にこのプロジェクトは地球環境問題にも配慮されているとして、当時の政府政策としては少なからず世論の支持を受けていた。だがそれは、表向きの話であった。裏向きの話としては、このメガフロートの通称が〈出島〉と呼ばれている事で判る様に、緊迫するアジア情勢、それに伴い不法入国する外国人の増加と、激化する外国人排泄運動を押さえ込む為に外国人達を隔離する収容施設として、この〈出島〉が建造されたとも言われている。とても巨大な収容施設だ。この歪な巨大収容施設は、恐喝、傷害、強盗、殺人、等々のあらゆる犯罪を孕み治安は最悪だった。警視庁警備部は採用枠を拡大した。皮肉にも、ここでも〈出島〉は雇用対策に貢献した形となった。現在では、〈出島〉の下層部と中層部を境にある程度犯罪の封じ込めも行われているが、その為〈出島〉下層部は無法地帯となっている。屈強な警察官でも身の安全は確保出来ず、捜査活動は常に小隊規模で行う事がマニュアル化されるほどである。捜査効率が悪く難易度が高い〈出島〉の事件を担当すると出世が遠のくと、警視庁内ではまことしやかに囁かれている。
荒川和美警部補は不意にその事を考えていた。あまり出世に興味は無いが、少なくとも外野の口数を減らす効果が階級にはある。特に女の場合なら尚更だ。そして今、和美は〈出島〉で発生した事件を担当している。『ここが、組織内での潮時なのか?』弱気な考えに陥ってはだめだ。和美は自分に言い聞かせた。
「死体は二十代男性。恐らく、日本人だと思われますが、身分を示す物は何も持っていません」和美は大体の予想を終えていた。鑑識の報告を改めて聞かずとも、目の前に横たわっている死体の左首筋に接続されているエクステがそれを物語っていた。謎のエクステ。直径三センチ、高さ二センチほどの円柱状のエクステが、死体のUSCBB(Universal Serial Cyber Brain Bus:補助電脳と端末を接続して通信を行う規格の一つ。造語)ポートに差し込まれていた。差込口周辺は焼け焦げている。これで六件目だ。仮にこの六件の不審死の原因がエクステの所為だったとしたなら、エクステ製造会社の株価は急落し、製品はリコール対象となるのだろうが、生憎とこのエクステの製造元については特定されていない。エクステ内部と補助電脳の主要機器は焼けてしまっている。エクステ外側のフレームは有り触れた素材だ。腕の悪い素人の手製なのだろうか? 過去五件の似たケースについては、特に捜査が進展していなかった。その五件の死体が、〈出島〉の下層部で発見されたからだ。だが、今回は違う。〈出島〉とは言えここは階層の中層部に位置する。このまま手をこまねいている訳にもいかない。
「死体の首筋に付いているそれは、やはり例の物なの?」和美は儀式的に尋ねる。
「間違いないですね。ただ今までのケースと同じだとすると多分内部データはサルベージ出来ないと思われますが」
通常、このタイプのエクステンション、或いはエクステと呼ばれるサイバーウェアはには『増脳』効果や『技能』効果を得られる物等があり、『増脳』効果を得る為に使用するタイプはアクティブメモリ、或いはパッシブメモリと呼ばれる。これらは補助電脳を介して入力されたあらゆる情報をエクステ内に記録しておく事が可能である。例えば、視覚情報を動画として記録する場合に使用される。セキュリティの厳しい企業では、出社時に社員の補助電脳にこれらのエクステを接続させ退社時に回収する事で、社員の社内での行動をモニタリングしている。『技能』を得る為に使用するタイプはエクステ内部にアプリケーション化されている他人の経験を使用者は使用する事が出来る。この『技能』タイプは爆発的に普及した。誰でも金さえ払えば、著名大学教授の論理的思考や、優れた芸術家の感性、世界的音楽化の絶対音感を手に入れる事が出来たからだ。もっとも、その様な用途を望まないにしても、運転免許資格や、各種国家資格の入ったエクステを購入すれば手軽に職に就く事も出来た。
「現場の状況記録が終わったなら、解析は署に戻ってからやる方が無難ね。後どれ位かかるの?」
「五分ほどですが」
「三分でやって」多少、苛立ちが口をついて出たか? まぁ良い。和美は捜査方針考える。
「記録後、ここは警らに任せてお前達は署に戻ってさっき話した様に記録と証拠の解析をやって」そう言いながら現場を後にしようとする和美に、巡査が声を掛ける。
「警部補はどちらへ行かれるのですか?」
「考える所があって、有識者にアドバイスを貰いに行ってくる」
「では、せめてガーディアンドロイドを随行させて下さい」巡査が食い下がる。
「さもないと服務規程違反になります。とか言うんでしょ?」
「……」おどけた調子で質問してくる和美に対して、巡査は答えに詰まってしまった。
「ありがとう。忠告通り、ドロイドを一体借りて行くわ。これで宜しい?」巡査は何も言わずに、直立で敬礼する。
「ガーディアンドロイド一体は今から私と共に捜査に入る。御岳巡査部長、どれが適当か?」
私服の御岳巡査部長が答える。「今なら、タナカが空いています」
「上出来」小さな駆動音と共に人型ガーディアンドロイドが近づいてくる。
コマツ社製人型ドロイドT―02。人型をしているが、機能的に簡易監察室と表現する方が近い。現場で入手した証拠の簡易的な分析、画像による記録の収集、痕跡分析等を主に行う。頭部には一体形成のマスクにアイボールセンサを一基、サブセンサを三基装備している。基本的な人間の動作は人口内耳の搭載でほぼ再現出来、自立制御が可能である。また、指令設備からの遠隔操作も可能である。警察組織には五年前から配備が開始された。運用には試行錯誤が重ねられ現在ではある程度なら捜査官をバックアップする事も出来る様になった。むき出しのボディでは目立つ為、九ミリ拳銃弾なら防げる程度の防弾スーツを着用している。誰が呼び出したか判らないが、和美のもとに配備されたT―02の一機はタナカと呼ばれていた。
「二時間ほどで私も署にもどるから、それまでに捜査資料をまとめておいて」
「判りました」見送る御岳巡査部長。
「タナカ、行くぞ」現場を後にする和美と、その後をついていくタナカ。
「有識者って誰でしょうか?」巡査は御岳に尋ねる。
「さぁ。それに俺、推測で喋らない主義なの」飄々と答える御岳。巡査はこれ以上質問するのを止めた。