奈落の男18
男は通信ケーブルのメンテナンス用配管を伝って、PCXの敷地内に進入した。もちろん通信ケーブルの配管内は無防備ではなく、対テロ用に各種感知センサも取り付けられており、探知されずにそこを通る事はほぼ不可能だったが、予め入手しておいた配管内センサの位置が記された地図とセンサを無効化する最新式のステルススーツを使えば、それは造作ない事だった。
男は、目的地のマンホール下に到着すると、ファイバースコープで外の様子を確認する。予め入手しておいた情報通り、その周辺には監視カメラは無く、周囲にある植え込みは丁度周辺からの死角になっていた。男は、マンホールから地上に出ると、持って来たステルスバッグの中から、警察官の制服を出して着替え、サイレンサー付きのオート拳銃を懐にしまった。次に、非合法のデータスキャナを取り出し、感知範囲を三百メートルに設定する。最後に男は、補助電脳の記録から、今回の仕事の標的の認識番号を確認しデータスキャナに入力する。すると、データスキャナは画面に標的の位置を光点で表示した。後はこの標的が動き出すのを待つだけだった。光点はまだ動き出していなかった。
男は時間を確認する。時間は二十時を過ぎた辺りだった。なかなか残業熱心な標的だなと、男は思った。だが良い。待つのは慣れている。男は思った。アフリカや南米のジャングルでも、インド中国の国境でも、そして、中東の砂漠でも男はいつも待っていた。それが仕事だった。それらに比べると今回の仕事はかなり楽だなと……
光点が動き出したのは二十一時を過ぎた辺りだった。男は周囲の状況を確認する。男が隠れている植え込みの前は官舎と警察署を繋ぐ道路だった。光点は警察署の方から確実にこちらに移動してきている。男はデータスキャナの感知範囲をオートに設定した。こうする事で標的が近づいてくるのか、あるいは遠ざかるのかが容易に判断出来るからだ。そして、標的は間違いなくこちらに向かって来ている。
男は植え込みから道に出た。道路は監視カメラの範囲内なのでいつまでもここに立っていたら怪しまれる。男は標的の方に向かって歩き出した。警察署への続く道を道なりに歩くと標的が目視出来た。標的はこちらに近づいてくる、男も迷わず標的の方へと歩いていく。標的は官給品のコートを羽織っていた。お互いの顔が確認出来るだろう距離まで近づいた所で、男は標的に声をかけた。「あの、失礼ですが、刑事課の荒川和美警部補ですか?」
「ああ、そうだが」
男は拳銃を抜くと、標的を銃撃した。銃の弾装は空になりアッパーレシバーがスライドストップすると同時に、その場に崩れ落ちる標的。男は、標的の状態から致命傷を与えてはいない事を確認た。標的は辛うじて意識を保っている様だった。やはり官給品のコートはある程度の防弾効果がある様だった。銃の種類をLR22のオートにし、弾丸をブラック・タロンにして正解だったと男は思った。男は、ポケットから盗難品の携帯電話を取り出すと一一九番をコールしてその場に投げ捨てた。そして、何食わぬ顔で植え込みに戻ると、すばやく、ステルススーツに着替え、遺留品を残さない様にステルスバックにつめてマンホールの中へと消えていった。
和美は薄れゆく意識の中で、コートのポケットから私用の携帯電話を取り出すと、登録しておいた雅臣の番号をコールした。着信後、受話部分から相手の声が聞こえたが、和美はそれに答えられなかった。遠くに救急車のサイレンの音が聞こえてきた。和美は意識を失った。
小暮巡査部長の作業は不意に着信があった携帯電話によって中断された。「もしもし」小暮巡査部長は調査のリズムを崩された事を露骨に返事に出した。
「小暮君か?」相手は鑑識課の課長だった。
「はい」
「今、何処に居るのかね?」
「まだ課におります」
「何をしているんだ?」
「刑事課から依頼のあったエクステの調査ですが」
「そうか……。それはもう調査を中止してくれ」
「はぁ?何故ですか?」
「いや、連絡が遅れて申し訳ないが、本件は本社が巻き取る事になったそうだ」
「はぁ……」
「刑事課の課長からも通達があってね。明日本社の人間がこっちに来るからその時に引き継いで本件は終わりだよ。今日はもう帰宅したまえ」
通話を終えて腑に落ちない気分になった小暮巡査部長だったが、気を取り直すとフロア内を片付け、施錠して課を出ようとした。そこへ、恐らく救急用スピーダーのサイレンの音を聞いた。そして、それは意外と近くで鳴り止んだ。不審に思った小暮巡査部長は急いでサイレンが鳴っていた方へ走っていった。そこには既に何人かの人だかりが出来ていた。
「何があったんですか?」小暮巡査部長は近くの警官に尋ねた。
「どうやら、警官が撃たれた様です」
「なんだって!」小暮巡査部長は救急用スピーダーを見た。そこには担架によって車内に運ばれる、荒川警部補の姿があった。救急用スピーダーは担架を乗せると、警察病院の方へと飛び去っていった。
「現状保存の責任者は?」小暮巡査部長は周りの警官に確認した。
「ひとまず自分が行っております」近くの巡査が敬礼して答えた。「今は敷地内を他の警官が捜索中です」
「私は、鑑識課の小暮巡査部長だ。遺留品の捜索段階になったらいつでも呼んでくれ」小暮巡査部長はそう言うと名刺を巡査に渡した。
「判りました。ご苦労様です」巡査はそう言うと敬礼して立ち番に入った。
小暮巡査部長は官舎への帰路で、なにやら嫌な予感を感じていた。




