奈落の男11
かつては電気街としての栄華を誇った秋葉原も、今ではすっかりその姿を変えてしまっていた。その姿は交通の便が良い秋葉原駅を中心とした、巨大ビジネス街に変貌していた。だが、かつての秋葉原自体が死滅した訳ではなく、それは追われる様に地下街最下層へと場所を移していた。秋葉原地下街最下層は、地下鉄大江戸線よりも深い地中にある。変質的なテッキーや、ナードや、ギークや、ヘンタイオタク達は、今でもそこを聖地として崇めていた。秋葉原地下街最下層は混沌としていた。ここを訪れれば、ご機嫌なベンチマーク結果をたたき出すCPU、古今東西のあらゆるゲームソフト、旧世紀の真空管アンプ、バイオコスメティックのビーストスキン(バイオコスメティックは二十一世紀後半に確立された美容形成術。ビーストスキンはバイオコスメティックによる施術メニューの一つで、秋葉原では一時期、客引きメイドが施術で猫耳やウサギ耳等を着けるのがブームになった。共に造語)、販売禁止になった漫画の初版本、ドイツ製の精密工具、ヴァーチャルシミュレータによる性的な娯楽、アクセル( Thinking fast accelerator:高速思考促進剤。アクセルは商品名。服用者はニューロン伝導速度を上げる効果を得られるが、副作用で脳腫瘍になる場合がある。日本国内ではこの薬は認可されていない。一部の廃ゲーマーに需要がある。造語)等々、金さえ出せば様々な物が手に入った。まさに、歪んだ欲望の掃き溜めとなっていた。
雅臣は久しぶりに秋葉原地下街最下層を訪れた。以前ここを訪れたのは、神田の経営するサイバーパーツショップ、神田電脳堂からの証拠品押収時に動員された時だったので、おおよそ五年前になる。当時の雅臣は〈出島〉で刑事課の捜査官として、日々の業務に追われていた。その頃には雅臣の小脳もまだ生きていて、今の様に電脳の紐も脳には付いていなかった。
雅臣は当時の事を思い出す。多忙な日々の中、神田の起こした事件に関する応援として派遣された割に、神田の取調べに直接参加出来なく、体の良い雑用要員として証拠品の押収に借り出されていた事を苦々しく思っていた。だが、それと同時に残念に思っていた事も覚えていた。サイバーウェア犯罪に手を染めるテッキーの思想心理には興味があったからだ。今はどうだろう? 雅臣は自問する。コートのポケットの中にあるこの物騒なエクステが関わる、この得体の知れない事件に託けて神田に関わろうとしている。これは正しい判断なのだろうか。
雅臣は通りに目をやった。この町は亡者が蠢く奈落の底だとは思った。その片隅に城を構える神田は、さしずめ奈落の男と言った所か。奈落の男、そう言う意味では神田も自分も大して違いはないのではないかと雅臣は思った。そして、ここを訪れる彼等も。雅臣は冷笑していた。平日、午後三時過ぎの地下街は思いの他、混雑していた。通りは、サラリーマン、恐らく学生風の若者達、客引きのメイドコスプレ女達、そして観光客風の外国人達で溢れかえっていた。彼らがかもし出す熱気、すえた臭い、科学化粧品の臭いは地下独特の篭った空気に混ざり合っていた。
『ここは、トラフィックが高いわ……』洋子のアバターが辟易した様子でぼやく。
『無理に接続しなくても良いんだぞ』雅臣は洋子の言葉尻を拾う。
『そんなー、絶対にあたしの助けが必要になるって!』
『解ってる、冗談だ。今日ばかりはお前を当てにしてるよ』事実、雅臣はそう思っていた。今日ばかりは、洋子の存在が状況を好転させる可能性が僅かばかりあると。
『それにしても……』洋子のアバターが呟く。『今日会いに行く、神田雄正って人が、実は釈放されていた事は、あたしがわざわざ調べなくても、せんせーは知ってたんじゃないの?』
『ああ、知ってたよ。俺が一から説明するよりも、お前が直接調べた方が説明の手間が省けると思ったからな』
『それは、十分過ぎる程に効果的だったわよ。あたし、神田の事いけ好かないなぁ』
『だろうな』
『なんで、雅臣せんせーは神田に会いに行こうと思ったのよ?』
『思うところがあってな』
『ふーん』
洋子は質問を止めた。明らかに雅臣が面倒臭そうにしているのを読み取ったからだ。洋子は雅臣が時折に意図せずに示すこうした態度の時は極力、雅臣の思考の邪魔にならない様に勤める事にしていた。仮にそうしない場合、大抵は喧嘩になる事が目に見えているし、そうなってしまうと洋子に出来る事は、雅臣に対して悪態を吐いて補助電脳との接続を切る事が関の山で、その場合、雅臣の心に平穏を与える事になってしまうからだ。喧嘩の理由が雅臣の態度にあるとは言え、最終的には雅臣の利になってしまう状況に自らはまり込んで行く事はない。これが雅臣との付き合いの末、洋子が学習した事であった。洋子は雅臣の脳波パターンが変化するタイミングを計っていた。
『洋子』雅臣が話しかける。
『どうかした?』
『手筈は覚えているか?』
『もちろん。せんせーと神田とのやり取りは全部記録しておく。意図せぬ脅威に晒された時は全力をもってその脅威を排除する。で良いんだっけ?』
『おいおい、しっかりしてくれよ。さっきも言ったが、俺は今回に限っては、お前を当てにしているんだからな』
『解ってますよー、せんせー』
脳内での会話が終わった時、雅臣は神田電脳堂の前に立っていた。クリアウォール越しに見える店内には数人の客がいた。『いくぞ』洋子に一声かけると、意を決して雅臣は店内に入った。店内は天井の至る所から地面にかけて、くくり付けてある網状の格子に幾つものビニールパッケージされたサイバーパーツや、義肢用のアタッチメントや、頸部接続用エクステや、ちょっとした電子工具が値札と共に束線バンドで留められていた。
「いらっしゃいませ」奥から声が聞こえる。雅臣は声の方に視線を移す。そこにはシルバースキンのジャケットに、ミラーシェード、そして極彩色の長髪を後ろで束ねたと言った出で立ちの男がいた。神田雄正だった。神田は、カウンター内で何か作業をしている様だった。雅臣はカウンターに近づくと、カウンター越しに、神田に話しかけた。
「この店では、電子機器やサイバーパーツの鑑定はやっているかな?」
「ええ、やってますよ」特に興味もなさそうに、作業を続けながら答える神田。
「実は、鑑定して欲しい物があるんだが……」
「鑑定は、一つの物品に付き一万円になりますが。もちろん鑑定書報告書も出しますよ」
「鑑定の確度は?」雅臣のこの言葉を聞いて、神田の表情が変わった。
「当店の鑑定が信用出来ないと仰るなら、貴方は今すぐにおうちに帰って検索エンジンで調べるべきだと、私は思いますが」神田は雅臣の顔を覗き込んだ。
「いや、そう言う訳じゃないんだ。気分を害したなら謝るよ」雅臣は神田の人となりが、供述調書通りだと思った。
「ところで、お客さん」
「なんだい?」
「あんた、紐ついて(通信回線が開いたままの状態)る?」
「……!」
まさに不意討だった。そして、一瞬回答に詰まってしまった事を雅臣は後悔した。
「何の事だか、さっぱりだが」
「いやぁ、何かどっかで見た顔だと思ってね」
「俺とあんたとは初対面だよ」
雅臣のその言葉に対して、神田は右手の人差し指を自らの顔の前に立った。
「そう、俺とあんたは初対面だが、俺はあんたを知っているよ」
「そんな馬鹿な」雅臣は瞬時に状況を整理しようとした。神田雄正とは初対面だ。これは本当の事だ。俺は資料でしかこの男を知らない。捜査にも加わっていない。神田が拘束されていた時も、新宿署や拘置所に出向いていった事さえない。この男は何を根拠に、こんな事を言い出すんだ?
「あんたの勘違いだよ」雅臣は、神田の反応を伺う。
「いや、そんな事はないさ。そうだ、あんたの職業を当ててやろうか?」神田は芝居がかった様子で続ける。
雅臣は、この神田の一連の態度から、神田はこの場の優位性を取ろうとしている事を理解した。それなら、こちらも対応のしようがある。
「あんた、警官だろう?」神田が質問する。
「はずれだ」雅臣は答えた。
「じゃぁ、元警官?」間髪いれず神田は質問を繰り出す。
「おいおい、俺の素性が解るまであんたは俺を質問攻めにする気か?」雅臣は若干、空気が変わったのを察知した。いつの間にか店内には他の客は居なかった。
「違うのか?」神田は意に返さぬ様子だ。
「当たりだ」雅臣は正直に答えた。そうする事によって神田がどの様に反応するかを確かめたかった。
「だろう! 俺の勝ちだな!」またも大袈裟に芝居がかった風に振舞う神田。
「ああ、あんたの勝ちで良いよ。だが正確には元警官は職業じゃないがな」雅臣は答える。
「それもそうだな。じゃぁ、今は何をしてるんだ」
「無職だよ」
「……、そうか、それは悪い事を聞いた。何で辞めたんだ? 警察を?」神田の好奇心は止まる様子を見せなかった。雅臣は納得した。調書の通り、この神田雄正という男は偏執的だった。
「その理由は、多分、あんたなら十分過ぎるほどに解るだろう?」
「ハハハハ! そうだ! そうとも。あいつらは酷い連中さ!」
「そうだな」雅臣は相槌を打つ。
「何で、俺があんたの事が分かったか知りたいか?」
「何でだ?」
「ここに映っているからさ」神田はそう言うとカウンターの下から、小型ホロディスプレイを取り出して雅臣に見せた。雅臣は驚いた。確かに、そこには自分が映っていたからだ。正確には五年前の雅臣の姿が。
「店内監視カメラのレコードさ」
「嘘だろ。それは……」
「あんたが押収したレコードの筈?」雅臣の言葉を神田が遮った。モニタディスプレイに映っている五年前の雅臣は他の捜査官達と、押収品について吟味している様だった。
「驚いたな……、流石だよ」
雅臣は脱帽した。と同時に、この男の機嫌を損ねない様に勤める方法を模索する。この男には利用価値がある。元警官と言う身分が示す様に、今の雅臣には大きな後ろ盾は無い。そして、この神田と言う男はひょっとしたら警察の鑑識課員並みの、或いはそれ以上の働きをするかもしれない。雅臣は思った。
「そろそろ、本題に戻っても良いかな?」雅臣は話題を変えようと試みた。
「本題? 物品鑑定の事かい? お巡りさん」神田はとぼけた様子で聞き返す。
「おいおい、俺は警察は辞めたんだ、元警官だ。あんたも納得しただろう?」
「そんな話、信用出来ないなぁ。あいつらは酷いヤツだ。あんたもそう言っただろう?」
「ああ」
「なら、あんたのその、元警官って言う身分も偽装かもしれない」
「何を言っているんだ?」
「あんたが、囮捜査官だって言っているんだよ」
雅臣は神田の導き出した回答に驚いた。この男はどうなる事を望んでいるのだろうか。「おいおい、それは無いだろう。あんたのその理屈だと誰も彼もが警官だって事になっちまう」
「いや、俺が納得出来れば文句は言わないさ」神田はそう言いながら、自分の目の前で手を叩くと、両手を左右に動かした。
「それは、どう言う意味だ?」
「簡単さ。幸い、あんたは補助電脳を持っている。だからあんたの脳に直接聞けば良い」そう言うと神田は、右手でカウンターの中にあるだろう何らかの装置を素早く操作した。
雅臣の視界内が赤くなる。同時に、アラートメッセージが視界内にスパーインポーズされる。神田が雅臣の補助電脳に対して、何らかの接触を行っている事を想像するのは容易だった。洋子は何をやっているんだ? 雅臣がそう思った途端に、雅臣の視界は元に戻った。
『任せて大丈夫って言ったでしょ?』今まで消えていた洋子のアバターが現れ語りかける。
『焦ったぞ!』
『あたしの有り難味が分かりましたぁー?』
『今はそれど頃じゃ、無いだろう!』雅臣は危うく口に出して怒鳴りそうになった。
「ちょっとの間だけ、あんたの制御をこっちに貰うよ」どうやら、神田は洋子の電脳防御に気付いていないらしい。
『で、どうするんだ?』雅臣は洋子に尋ねる。
『補助電脳の制御が奪われたフリをしてて』洋子が答える。
『分かった』
雅臣は神田の様子を伺った。神田はカウンターの内側にあるコンソールを注視している。
「変だな。ローディング時間が長すぎる様な気がする……」神田が呟く。
『何をどうしたんだ?』雅臣は再び洋子に尋ねる。
『あっちがMMCI経由でせんせーの補助電脳の制御を奪おうとしたんで、MMCI経由で擬似信号を流して、向こうの読み取りをループさせてるの』
『そうか、まぁよく解らんが。そのうち気付かれるぞ』
『うーん、でもあんましあの手は使いたくなかったんだけど……』
『良いから、早くこの状況を打開してくれよ』
『へいへい』あまり気乗りしない様子を見せた洋子のアバター。そして消える。それとほぼ同時に神田が悪態を吐いた。
「何だこりゃ! フリーズしたぞ!」神田はコンソールをバンバンと叩いた。
「なぁ、チョッと良いかな?」雅臣は神田に話しかける。
「何だよ!」神田はすっかり熱くなっていた。
「他人の補助電脳を勝手に制御するのは違法行為なんだが」
「んな事は解ってるよ! 逮捕するか? お巡りさん?」
「いや、現行犯逮捕は警官じゃなくても可能なんだが」
「だから、逮捕するかって聞いてるんだよ!」もう、神田の言動は支離滅裂になっていた。
「その気は無いよ。だから、すこし落ち着けよ」雅臣は神田を落ち着かせようと試みた。
「そうか! あんた何かやったんだろう!」
「いや、俺はなにもやってないよ」
「いいや、信用出来ないね! 警官隊が突入して来るんだろう!」
雅臣はウンザリしていた。この神田と言う男がここまで偏執的だとは思っていなかったからだ。僅かな情報提供料を得る為にここまで嫌な思いをする事も無い。このまま帰って、件のエクステを警察に渡して終わりにしても良いのではないか。
「その人は、警官じゃないわ」
店内の何処かにあるスピーカを通して洋子の声が響き渡る。神田は店内を見回す。やっと洋子が動き出したか……。雅臣は想定内の状況推移を見守る。
「誰だ!」神田が叫ぶ。すると、店内ディスプレイの全てに洋子のグラフィックイメージが映し出される。神田はそれを見て驚愕する。「まさか、電脳女王か!」
「電脳女王?」雅臣は聞き返した。しかし神田の耳には届いていない様だ。
「あたしの事をそう呼ぶ人も確かにいるわね」洋子の声が答える。
「いやいや、それは無いだろう。そんなヤツ居る訳が無い」神田は洋子の回答に納得していなかった。「あんたが本当に電脳王女なら、これは躱せるだろう?」神田はカウンターの中にある別のコンソールを操作した。
「そのプログラムは、私には通用しないわよ」洋子が答える。神田のコンソール操作は事実、洋子のグラフィックイメージ表示や音声出力に何ら影響を与えていない様に見えた。
「なかなかやるじゃないか。それじゃ、これはどうだ!」再び、コンソールを操作する神田。しかし、洋子には何ら変調は見られない。
「いちいち、使うプログラムが単調で独創性に欠けてるわね。安穏とした生活に慣れすぎたのかしら? それとも、出所してからすっかり骨抜きになったの?」挑発する洋子。
「何だと! 見てろよ!」神田はまだ諦めていない様だ。雅臣の目には、神田は何とか持てる力を駆使して洋子を屈服させようとしている様に見えた。あくまでそう見えただけで、実際の所洋子と神田の間でどの様な戦いが繰り広げられているかは、雅臣には皆目見当が付いていないのだが。神田は物凄いスピードでコンソールを操作していた。
「いい加減、あなたとの遊びに付き合うのは飽きてきたわ」洋子には神田の施す手段が全く通用していない様だった。
「ああ! くそっ! またフリーズしやがった!」洋子が神田の操作するマシンをフリーズさせた様だった。
「もう良いでしょう?」洋子が神田に尋ねる。
「ああ……」神田はうなだれた様子で答えた。「あんた、本当に電脳女王なのか?」
「あなたがそう呼びたいのなら、それで構わないわよ」
「驚いた、ぶったまげたよ。まさか本当に居るなんて! 都市伝説の類じゃなかったんだ!」
興奮する神田の様子を伺いつつ、状況を頭の中で整理する雅臣。どうやら、洋子には別の顔があり、それがテッキーの間では“電脳女王”と呼ばれているらしい。
「ブッ、ワハハハハ」雅臣は思わず噴き出してしまった。
「何を笑ってるんだよ!」神田が振り返る。
「いやぁ、だってさぁ。ククク……」雅臣は笑いが止まらなかった。この状況が非常に滑稽だったからだ。生身の人間の言う事は偏執的に疑ってかかる神田も、インタフェース越しにしかこの世界に関わろうとしない洋子も、そして彼等が彼等の持つ価値観の中で繰り広げるこの芝居じみた今の状況も、雅臣にとってはとてつもなく可笑しかった。ディスプレイに映し出されている洋子のグラフィックイメージはばつが悪そうな表情をしていた。
「話を続けても……、良いかな?」スピーカーから洋子の声。
「続けて下さいよ、電脳女王様」茶化す雅臣。洋子のグラフィックイメージには明らかに、不機嫌な表情が見て取れた。
「話とは、この男の事ですか?」神田が尋ねる。
「そう。この男はあんたが疑っている様なヤツじゃないって事。警官じゃないの。確かに元は警官だったけど、今は無職の奥さんにも逃げられたわびしい男、本当にそれだけの存在よ。今は日がな一日、飲んだくれてダラダラ過ごしている、取るに足らない男なの。分かった?」
まくし立てる様に話す洋子に気圧される様に頷くだけの神田。雅臣は洋子のこの説明が気に入らなかったが黙っている事にした。
「分かった。あんたの事を信じるよ」神田はようやく敵対的な態度を改めた。
「いや、分かってくれたなら良いんだ」雅臣は答える。だが、神田は付け加える様に続けた。
「俺は電脳女王の言う事を信じるんだからな。お前の言い分なんかどうでも良い」
「どっちでも良いよ。もう俺の補助電脳の制御を奪う様な真似さえしなければね」
「それにしても、何であなたがこの男の肩を持つ様な事をするんですか?」
「……」神田が問いかけたが洋子は答えなかった。いつの間にか、ディスプレイにも洋子のグラフィックイメージは映っていなかった。
「で、何をどうしたいんだ。物品の鑑定料は普通に貰うぜ」神田は雅臣の要望を忘れてはいなかった様だ。雅臣はすかさず、コートのポケットから出した件のエクステと通信端末をカウンターの上に置いた。「疑り深いあんたに正直に話すと、このエクステと機械は警察が調査している事件の証拠品かもしれないんだ。で、これが一体何なのかを鑑定して欲しいんだが」
「警察の調査している事件……」神田は訝しげに呟く。
「なぁ、あんたが警察嫌いなのは良く解る。だが、落ち着けよ。これはビジネスだ。そう割り切ってくれても良いんじゃないか? 俺はこれが警察の捜している証拠品である確証が欲しいだけなんだよ。それさえ分かれば、これを警察に提出して僅かばかりの情報提供料を貰うだけだ。単純に金が欲しいだけなんだよ」雅臣は事の顛末のありったけをぶつけるかのごとく話した。
「もっともらしい言い分に聞こえるな……、まぁ良い。で、その事件ってのは?」神田が尋ねる。どうやら興味を示した様だ。
「警視庁のサイトに掲載されている。メガフロートで六人死んでる事件だ」
神田は雅臣の説明を聞いて、すかさず通信端末を操作して警視庁のサイトにアクセスすると該当する事件のページにたどり着いた。
「有力な情報の提供者には、情報の確度に応じて最大三百万円の情報提供料を進呈か。なかなか景気の良い話だな」神田が呟く。
「三百万円?」雅臣が聞き返す。
「ああ、三百万円だとさ」神田が答える。
「昨日掲載されていた時は六十万円だったぞ」
「値上がりしたんだな。何かあったのか?」
「昨夜のニュースでこの事件を調査していた捜査官が事故に巻き込まれて重体になった。ってのは知っているが……」どうやら、警察も本腰を入れてこの事件に当たっている様だと雅臣は理解した。
「何にせよ、モタモタしているとこの三百万円は他の誰かの所に言っちまうかもな」
「どうだ、鑑定してくれるか?」
「ああ、良いだろう」神田は答えた。
「よし、早速やってくれ」雅臣が促す。
「だが、その前に教えてくれないか?」
「何をだ?」雅臣は神田が次に繰り出す質問が厄介ごとでない事を祈った。
「電脳王女との付き合いのあるあんたが、何で俺なんかにこれの鑑定を依頼するんだ?彼女なら、こんなエクステや通信端末の事なんか直ぐに調べられるんじゃないのか?」
もっともな質問だった。雅臣は洋子の事が何処まで信用出来る存在なのか判らない事に、今改めて気付いた。「彼女には聞いてみたが、分らなかったよ」
「ふーん」
「多分、彼女にも得手不得手があるって事じゃないのかな?」雅臣は当たり障りの無い様に答えた。
「得手不得手か。そりゃ良い」神田は笑った。「よし、じゃぁ早速始めるか。ひとまず今日は閉店にしておこう」そう言うと神田はコンソールを操作して店の入口をロックした。クリアウォールには“closed”の文字が浮かび上がっている。
「奥に走査用機材があるから来てくれるか?それを持ってきてくれ」
「分かった」雅臣は、カウンターの上にあるエクステと通信端末を持つと、神田と共に店の奥に消えていった。