奈落の男10
“(わ)782号事件”は、世間では“新宿駅乱闘事件”として知れ渡っていた。事件が起きたのは、五年前だった。その日、家路を急ぐ通勤客でごった返す新宿駅で、乱闘事件が起こった。事の発端は会社員、渡辺高志、三十六歳と無職、木下照光、二十五歳等のグループとの口論だった。木下は、渡辺がぶつかってきた事――これについては、後の裁判で木下の偽証だった事が発覚する――に対して謝罪を要求したが渡辺はこれを拒否した。木下は、渡辺のこの態度に激怒して、渡辺の顔面をこぶしで殴打した。渡辺はこれに対して、木下の腹部をこぶしで三回、頸部を手刀で一回殴打して木下を気絶させた。木下と共にいた友人数人はこれを見て、渡辺に対して暴行を加えようと試みるも、渡辺からの反撃を受け、あえなく全員が気絶させられてしまう。通報を受けて現場に駆けつけた駅員と警官は、渡辺を連行しようと試みた。最初は渡辺も警官の指示に従おうとしていたが、警官の一人が渡辺に手錠をかけようとした所で、渡辺はこの警官にも殴打を加えて気絶させてしまう。最終的に渡辺が警官の使用したテーザー(アメリカ、テーザー社のスタンガン)によって、行動不能に陥るまで、取り押さえようとした駅員二名、警察官五名が加えて気絶させられている。その後、警察は渡辺を新宿署に移送しようとしたが、その途中で渡辺は意識不明となってしまう。最初、その場に居た警官は詐病を疑ったが、簡易検査の結果、四肢の至る所に見られる内出血とチアノーゼ反応が確認された為、移送先を急遽、中野区の警察病院へ変更した。渡辺のこの症状の原因は、全身の筋繊維が至る所で断絶している為と、警察病院での診断の結果判明した。従い一旦、渡辺は治療タンクによる治療が施される事となった。翌日、警察は意識の回復した渡辺に対して、事情聴取を行う。これは、渡辺が補助電脳を移植していた為、可能となった。事情聴取は全て、USCBBインタフェースに接続されたモニタ経由で行われ渡辺の事情聴取は滞りなく終了した。警察は、渡辺の証言を元に、秋葉原でサイバーパーツショップを経営している店長の、神田雄正を翌日、任意の事情聴取の為に新宿署に連行しそのまま逮捕状を請求して逮捕した。容疑は違法サイバーウェアの製造。神田も容疑を素直に認め、同じく事情聴取は滞りなく終了した。事件の公判は東京地方裁判所の、第百三十八号電脳法廷で行われ、結審までの時間は被告の渡辺、神田、共に罪を認めていた為、三十秒足らずだった。判決は、渡辺は十二名への暴行致傷、及び公務執行妨害容疑で懲役五年の実刑判決、神田は、違法サイバーウェア製造容疑で懲役三年の実刑判決となっている。渡辺、神田共に控訴せず、刑は三秒で確定した。ここまでが、“(わ)782号事件”の全貌だった。
事件の概要について理解した洋子は、神田雄正の違法サイバーウェア製造容疑について、さらに詳細な記録を得ようと、“(わ)782号事件”のアーカイブスフィアを展開した。目当ては、証拠として提出されている供述調書だった。そしてこれは、直ぐに見つかった。洋子は供述調書の内容を電脳空間に表示させる。捜査官と神田とのやり取りの一部始終は以下の通りだ。
捜査官:「渡辺が新宿駅で使用したエクステはお前が製造した事に間違いはないか?」
神田 :「間違いありません」
捜査官:「エクステの効果は何だ?」
神田 :「エクステは『技能』効果を得られます」
捜査官:「その技能とは?」
神田 :「格闘技です」
捜査官:「具体的には?どんな格闘技?流派とかあるだろ?」
神田 :「截拳道、知ってますか?刑事さん?」
捜査官:「知らない。どんな格闘技なんだ?」
神田 :「(ため息)あの伝説の格闘家、李小龍の、ブルース・リーの流派ですよ!」
捜査官:「ブルース・リーなら聞いた事がある。それで?」
神田 :「解んないかぁ……、そのブルース・リーの『技能』をサンプリングして作ったんですよ!」
捜査官:「どうやって?故人の技能をサンプリングするなんて不可能だろう?」
神田 :「苦労しましたよ。映像作品を全部揃えて何遍も確認しました。コマ送りにして拳や蹴り足がどれ位のスピードで、どの角度で動くかとか。早すぎて上手く映ってない所なんかは確認するのにとても苦労しました」
捜査官:「それから?」
神田 :「流体力学パラメータと物理演算パラメータを導き出して、インパクトシミュレータで計算したパラメータを、人体モデルシミュレーションに当て嵌めました」
捜査官:「それが、あの効果か……」
神田 :「凄いでしょう?」
捜査官:「全くだ。アレのせいで渡辺は全身の筋肉が断裂して入院しているぞ」
神田 :「だから、使うのは止めとけって、言ったんだ」
捜査官:「なぜ?」
神田 :「ブルース・リーと同等以上の肉体を持つ人物しか、アレは使えないって事ですよ」
捜査官:「それじゃ、何故、あのエクステを渡辺に渡したんだ?」
神田 :「渡辺が譲って欲しいってしつこかったんで。アイツ、格闘技オタクなんですよ」
捜査官:「タダで渡したのか?それとも、売ったのか?」
神田 :「百万円で売りました」
捜査官:「……、質問を変えよう……」
以下、延々と捜査官と神田のやり取りが続く。
洋子はこの神田雄正に興味を示した。それと同時にある種の嫌悪感も覚えた。それは本能的なものなのかも知れなかった。
洋子は時間を確認する。アーカイブスフィアにアクセスしてからもう四十七秒も経過している。そろそろ引き上げないと、司法省のアクセス追跡プログラムが作動して、洋子の本体の場所が特定されてしまうからだ。
最後に洋子は、神田雄正がどうなったのかを調べる。判決の通りに刑が執行されているのならば、神田はもう釈放されているはずだからだ。そして、それを調べるのは凄く簡単な事だった。“(わ)782号事件”の被告人、神田雄正は予想通り、懲役三年の刑期を終えて一年前に出所していた。そして、今は秋葉原で変わらずサイバーパーツショップを経営している様だった。
洋子は収束してグリットに変化すると、猛スピードでこの領域から退散した。