奈落の男9
夜明け前、三時頃に雅臣は目を覚ました。昨夜寝入ってしまってから、まだ二時間程しか時間は経過していなかった。起き上がらずにソファに寝そべったまま、もう一度眠気が襲ってくるのを待ったが、それは徒労に終わった。仕方なく雅臣は起き上がると、消し忘れた足元の常夜灯を頼りにキッチンまで歩く。冷蔵庫を開けると、ミネラルウォーターのボトルを取り出し、蓋を開け、そのまま煽る。渇きがある程度癒えたら、蓋をしたボトルを冷蔵庫に戻す。居間に戻ると雅臣は再びソファに寝そべって昨日の収穫と、今後の方針について検討してみた。
エクステと通信端末は意外と簡単に入手する事が出来た。この事から、警察は雅臣が行った方法とは違う角度からこの事件にアプローチしている様に推測出来る。次に、李がこの辺での顔役と言うのはまんざら嘘ではなく、華僑以外にもコネクションが有ると推測出来る。最後に、入手したこれらの装置は、最下層では以外に有り触れた物であり、尚且つ、それを助長している組織がある事も推測出来た。多分、李はこの組織の事については殆ど知らないに違いない。あわよくば、雅臣の行動に相乗りして漁夫の利を得る事を目論んでいるのかも知れない。このエクステについて、昨日和美と議論した時、これがドラックウェアではないだろうと結論付けたが、その結論は覆す必要があるかも知れないと雅臣は考えた。中毒性と同等の効果がこのエクステにあるのではないか。しかし、それが何かを絞り込む事は難しい。
次に、雅臣はこのエクステと通信端末の処遇についてを考える。このままこれらの証拠品を警察に渡せばこれでこの件は終わりだ。警察も馬鹿じゃないだろうから、いつかはこの事件を解決するだろう。雅臣は僅かな情報提供料を貰い、今までの日常に戻る事になる。そして、現時点ではそれがベストの選択である事は疑う余地がない。仮に、その選択に疑問の余地があるとするなら、その原因は純粋に雅臣自身の好奇心に他ならない。
雅臣は苦笑した。道義的な、常識的な、そして合理的な様々な理由を並び立てても、最終的にどうするかを決める決定的な要因はそれらの理由を好奇心が上回るかどうかが土台となっている。そして、この件にかかわった時点でそうなる事は予測出来ていた事ではないか。今、雅臣の中の天秤は微妙なバランスで辛うじて水平を保っていた。
雅臣はリモコンを手に取り、テレビの電源を入れた。テレビは深夜通信販売番組を映し出した。番組は健康食品の宣伝を配信していた。この健康食品は化学物質で合成された、自然由来の成分が全くない健康食品だ。素晴らしい効果が化学反応により即座に得られる上に、遺伝子にも影響を及ぼさず、肝臓への負担が少ない事が臨床試験により確認されているらしい。雅臣は無作為にアドレスを選択し続けた。通信販売番組、通信販売番組、録画配信ニュース番組、環境映像番組、教養番組、通信販売番組、環境映像番組、通信販売番組……。テレビは次々と配信画像を映し出す。気分転換にでもなれば良いかとテレビを点けてみたが、興味をそそる番組は配信されていなかった。いや、探し出せないだけかもしれないが、それもそこまで熱中する作業ではない。アドレス選択をやめるとテレビは通信販売番組を配信しはじめる。
雅臣は画面を見るとは無しに、取り留めなく考え始める。エクステについては、雅臣の所有するコンピュータがUSCBBインタフェースを持っている――雅臣自身の補助電脳を調整する為に、以前に機能追加しておいた――ので軽く中身をのぞく事は可能だろう。通信端末はありふれた通信用インタフェースと、USCBBのインタフェースを持っていた――恐らく、これはエクステを挿し込んで通信する必要があるかと思われる――ので、これも同様にコンピュータで確認する事が可能と考えられる。だが、その条件で調査をしても得られる情報はたかが知れている。やはり確実なのは、実際にエクステを装備し、あるいはそれと同等の条件を作り出し、動作をモニタする事だった。やはり駄目か…… 色々と検討しても最終的には、この考えに行き着いてしまう事は予測が出来た。もう少し、こちらの手札を増やす必要がある。雅臣がテレビの画面に目を移すと、通信販売番組はエクステンションの商品説明を配信していた。
“画期的なエクステンションが登場しました。その名はNEW―NAV30”
司会者が商品名を高らかに謳う。雅臣はしばし注視しようと思った。
“NEW―NAV30はアメリカのデニスウェア社が開発した、画期的なナビゲーションシステムです。装着者は視界内にスーパーインポーズされる表示を頼りに、素早く効率的に目的地まで移動する事が出来ます”
司会者の説明から判断するに、どうやらカーナビの人間版と言った物らしい。
“NEW―NAV30は、衛星軌道上の十基のGPS衛星とリンクし正確な位置情報、目的地までの正確な距離情報、三次元画像解析によってもたらされる3D地図情報を使用者に提供します”
エクステンション自体にこの様な機能を持たせるのは珍しいと、雅臣は思った。日本国内のエクステンション製造会社はせいぜい、『記録』効果を持つエクステンションを製造するのが関の山だ。『技能』効果のエクステンションに至っては、その技能の元となる人物の育成が難しく、多くの日本メーカーはそのノウハウを持っていなかった。加えて、今テレビで宣伝している様な新しいアイディアを出す事は、やはり本場の方が長けている。
雅臣は、テーブルの上のエクステを手に取った。パッケージングされているエクステは見た目の出来も良く、きちんと品質が管理されている様に思われる。ドンの言っていた通り、このエクステは本当に試供品なのだろうか。何処かのメーカーが、新しく開発したエクステをこの〈出島〉の下層部に住む人間を使って試験しているだけなのだろうか。仮にそうだと推測した場合、外見とは裏腹に、このエクステは不具合率が高すぎる。やはり、使用者があの様な状態で死んでしまうのは、このエクステの正常な機能なのだろうか。
『随分、早起きじゃない?』洋子のアバターが視界内に現れた。
『そう言うお前こそ、こんな時間に何やってるんだよ』雅臣は時間を確認した。もう、四時になろうとしていた。
『あたしの様な、スーパー女子高校生は、寝なくても大丈夫なのだよ』
『へー、そいつは凄いですね』雅臣はそうは言いつつも、先の洋子の発言を嘘だと決め付けていた。時と場所を選ばすに頻繁に出現するこの行動パターンから、洋子が規則正しい高校生活を送っているとは甚だ疑わしいからだ。
『そんな事より、せんせーは一体全体、なにをしていたのかなー?』
『まぁ、大体察しはついているんだろう?』
『って事は、あのエクステを着けてみる気になった、って事?』何故、その様な方向に話が進むのか理解不能ではあったが、あながち間違ってもいないと雅臣は思った。意識的にそうならない様に努めていたが、最後は好奇心の側に天秤が傾く。
『近からず、遠からずだ。確かに、時には大胆な行動も必要になるだろう』
『じゃ、早速着けてみよっ!』
『ダメだ』
『えーっ!』
『まだ、早い。もう少し情報を集めて、万全の体制で挑む』雅臣は続けた。『それに、お前はそんなに俺を殺したいのか?』
『いやー、大丈夫だってば。あたしが絶対に守るから』洋子はあっけらかんと答える。いつも通りの何気ないふざけたやり取りだが、雅臣は幾分か気分が楽になっていた。
『ああ、その答えは信じるよ』
『……』沈黙する洋子。アバターのアニメーションが止まった。雅臣は洋子が何を企んでいるかを警戒する。
『で、でも、せんせーが、もう少し準備したいって言うんなら、それが良いと思う……』心なしか、洋子の反応にキレがないと、雅臣は思った。
『因みに、洋子。やっぱり、このエクステは外見だけだと、どんな物だかは判別出来ないのか?』
『うん。その材質と外観のエクステって、結構有り触れた物なのよ』
『そうか……、分かった』
『で、準備するとして、何か良いアイディアはあるの?』洋子が尋ねる。
『いや……、さっぱり思い浮かばない……』
『まぁ、せんせーも、昔は捜査官だったとは言え、サイバーウェアの専門家って訳じゃ、ないんだしねぇ』
『……!』雅臣はハッとした。『今、何って言った?』
『えっ、何って?』洋子のアバターは慌てたアニメーションを表示している。『あたし、何か気に障る事でも言った?』
『いや、そうじゃない!』雅臣は啓示を受けた様な感覚に陥っていた。何故今まで気がつかなかったのだろうか。
『洋子、今から言う事を調べてくれるか?』
『分かった……、よし!来い!』
『四年前の“(わ)782号”事件の被告人がその後どうなったか……』
『おっけー!』洋子のアバターが視界から消えた。
雅臣は何故、今までこの事を忘れていたのだろうかと思った。解らない事は専門家に聞けば良い。サイバーウェアについては、サイバーウェアの専門家に、サイバーウェア犯罪については、サイバーウェア犯罪の専門家に……。