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奈落の男  作者: HYG
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 佐伯雅臣の頭の中には少女が居る時がある。今の状況を整理するに、そう表現するのが一番的確だと雅臣は思った。この事を他人に話すと、多分皆怪訝な顔をするだろう。ひょっとしたら評判の良い心療内科を紹介してくれるかもしれない。或いは、腕の良い電脳医師かもしれない。事実雅臣は半年前に掛かりつけの電脳医師にこの状況を説明し、補助電脳の検査も受けている。結果は『異常なし』だ。

 頭の中にと言う表現は的確だろうが正確ではない。物理的に存在する訳では無いからだ。その状態は最初は声から始まった。雅臣はその時、補助電脳移植手術の後遺症かと思っていた。実際にその様な症例もあるらしいと掛かりつけの電脳医師、ドクター上坂が言っていたからだ。それは稀に、補助電脳内の制御回路内を通る信号と外部からの接続であるMMCI(Medical Machine Control Interface:次世代通信規格体系を検討する際に、医療機器制御については特に緊急性が高い場合がある為、MMCIとして検討された。造語)ポート制御信号の混信が原因となって起こるらしい。もちろんその辺の機能検査も含めて、ドクター上坂は異常無しと言っているのだが。

 ドクターは稀にと言ったがそんな事は無かった。最初はノイズの様に断片的に聞こえていた声だったが、それは段々と明瞭になってきていた。そして声は明らかに雅臣に対して語りかけてきているのを理解した。それは女の声で、発言の内容からそれ程高い年齢では無い風を装っていた。初めてその声を明瞭に聞いた時、雅臣は自分の精神が何者かに外部から侵されているのではないかと思った。そして、多分一線を越えてしまうであろう不安感と共に、好奇心が雅臣を突き動かした。

「お前は一体何者なんだ……」雅臣は問いかけていた。。

『気にしない、気にしない。それより独り言は言わない方が良いわよ』その声は頭の中で答えた。

「俺をおちょくっているのか! ふざけるな! いいから答えろ! お前は何だ、何者なんだ!」その回答に憤慨する雅臣。

『そんなに大声で独り言を話さなくても、頭の中で話す様に問いかければ聞こえるわよ』答えをはぐらかす声。雅臣は激しく頭を掻き毟ると、今度は声の言う通り、頭の中で話す様に問いかけてみた。『これでいいのか?』

『良いわよ。よく聞こえる』

『じゃあ、改めて聞くがお前は何者なんだ?』

だが、返事は無かった。どうやら答える気は無いらしい。その後、何度か思考で問いかけてみたが、声は全く聞こえなくなった。

「よーし、良いぞ。声が聞こえなくなった。聞こえなくなったぞ。もう、二度と出てくるな!」雅臣は合成酒を浴びる様に飲むと、その日は深い眠りについた。

 その後、声が雅臣の頭の中で発せられる事はしばらく無かった。そして今度は違う現象が現れた。最初は小さかったが、明らかに雅臣の視界内の一部がぼやけだしたのである。そのぼやけだした視界の一部は日増しに輪郭がはっきりしだした。今度は一体何なんだ。雅臣はそう思った。これはあの声が段階的に明瞭になってきた時と同じ手順を踏んでいるのではないか。その雅臣の推理は正しかった。ある日くっきりとした人物像に変化したからだ。『一体何なんだ!』頭の中で問いかける雅臣に、あの声が答えた。

『インタフェースが声だけだと味気ないから、アバターも表示してみました』悪びれる事無く答える声。その人物像は聞こえて来る声相当に十代の少女の様に見えた。

『やっぱりお前の仕業か……』

 人物表示はとても再現度が高かった。この視界を切り出して誰か他人に見てもらったとしても、恐らく見た人物はそれが本物の人間と錯覚するだろうと雅臣は思った。

『なぁ、お前は一体何者なんだ。何で俺の前に、いや、頭の中に現れるんだ』

だが、またも答えない声。それに反して視界内で軽やかに動くアバター。雅臣は諦めて、久しぶりに補助電脳の睡眠機能をONにし落ちる様に眠りについた。

 二年前まで雅臣は警視庁刑事課の巡査部長だった。そして二年前、勤務中の事故で脳死寸前の状態となり、補助電脳移植手術を受けた。小脳の機能回復は絶望的と診断されたからだ。雅臣は、当時民間の生命保険会社と契約していなかった事を今でも後悔している。保険に入ってさえいれば、移植をサイバーウェアではなく、バイオウェアで行う事が選択出来たからだ。そうすれば社会復帰も早かっただろうし仕事を辞める必要も無かったはずだ。サイバーウェアの補助電脳は移植後の調律に時間がかかる。不自由なく社会生活を送れる様になるまでに、雅臣の場合ほぼ一年の時間を要した。調律が終わり、職場に戻った時に聞いた上司の言葉は今でも一字一句違わず覚えていた。

「その体で、これから職務をこなすのを、私は難しいと判断しているのだが……。何しろ、ここの仕事は激務だ。それに、人権団体もあらゆる所に首を突っ込んでくる。ところで佐伯君、君はタイプは打てるかね?」

雅臣の私物は小さめのダンボール箱一箱にも満たなかった。雅臣は辞職した事を離婚した元妻には話さなかった。捜査官としての俺に惚れた筈なのに、捜査官としての俺との生活に耐えられなかった元妻が聞いたとしたら、何と言っただろうか。だが、辞職した当時に雅臣は連絡を取ろうとは思わなかった。彼女にこれ以上負担をかける必要があるのだろうか……

 「ハッキングを受けているのではないですか?」ドクター上坂は冗談めかして言ってはいたが、今のこの状況に説明がつくのならいっそ、そのほうがどれだけ楽な事かと思ったのを雅臣は覚えていた。もしそうだとして、何故俺なんだ? こんな、俺みたいなうだつの上がらない三十代のくたびれたオッサンの脳をハッキングして何の得があるのだろうか? 一体誰が、何の目的で、そもそもこれは誰かの仕業なのか。それは空しい問いかけであった。雅臣はある日、素直にその疑問を頭の中の少女にぶつけてみた事がある。

『なぁ、本当に心から俺は困っている。こんな落ちぶれた俺の精神をかき乱すのは止めて欲しい。頼むよ』少女のアバターはこう答えた。『気にしない、気にしない』この答えを聞いて雅臣はもう深く考えない事にした。そう考えると多少は気が楽になるかと思ったからだ。そして、次の手を打つ事にした。

『よし、分かった。交渉は決裂だ。俺は頭がおかしくなった。もうこの世に未練は無い』そう言い放ち、雅臣は部屋の机の引き出しから、処方された二週間分の精神安定剤を取り出す。『判るか。俺は自殺するぞ。出来ないと思ってるのか。簡単に出来るさ。この薬全部を合成酒で一気に胃に流し込み、補助電脳の睡眠機能をONにするだけだ』慌てた様子で少女は答えた。『そんな事言わないでよ。良いわ、あなたの頭の中から出て行くから』

『本当か?』

『本当よ』

『それは何時だ?』

『……』答えない少女。視界には少女のアバターも無かった。やった、勝ったんだ! 雅臣はそう思った。だがそれは糠喜びだった。再び現れる少女。

『今は答えられないけど、いつか必ず出て行くから。約束する!』今までとは打って変わって真剣に話す少女の態度に、雅臣は気圧されてしまった。

『分かった、俺の負けだ』雅臣は落胆したが、考えを切り替えた。一歩前進だ……

 こうして雅臣とその頭の中の少女との奇妙な共生生活が始まった。考え方を切り替えた雅臣はもう吹っ切れていた。頭の中の少女に対して色々と提案、或いは要求をしていったのだ。『お前のそのアバターは俺の生活に支障をきたす。何とかしろ!』ある日の雅臣の要望に対して少女は答える。『何とかって、どうすれば良いの?』

『今のそのアバターだと、リアル過ぎる。本物と見分けがつかないと、俺が外出した時に他人と見分けられなくて困るんだよ』

『じゃぁ、こんな感じでどう?』少女がそう言うとアバターがパッと変わった。

『よし、良いぞ。それからもっとサイズは小さくしろ。大きいと邪魔だ』

『こんな感じ?』

『まぁ、いい、それで良いよ』

そのアバターはカトゥーンアニメーションの少女キャラクターの様だった。差し詰めSNSで使われているアバターの様だ。扱い的には、特に質問も無いのにコンピュータのディスプレイにポップアップしてくるイルカの様だと表現する方が近いのかも知れない。

 またある日、雅臣はいつまでも〈少女〉のままでは具合が悪いと判断し、少女に提案した。『いつまでもお前呼ばわりじゃ、何かと不便だ』

『分かったわ、私の事は洋子って呼んで』

『洋子? 日本人の名前だな』雅臣の感想に少女は答えない。

『分った、お前は洋子。今はそれで良い』そう、今はそれで良い……

以降、雅臣と洋子の奇妙な関係は始まった。洋子は度々雅臣の視界内にアバターとして現れ、雅臣の機嫌が良い時は世間話なんかをしたりする。洋子は雅臣の事を“せんせー”と呼んだ。そう呼ばれる事に最初は抵抗もあったが、そのうち気にならなくなった。洋子が雅臣の事をそう呼ぶのは、雅臣の事を名前や名字で呼ぶ間柄では無いが、礼を失する事の無い、お互いの距離感の表れだと言っていた。そんな微妙な気遣いをするのなら俺の頭の中に現れる様な真似は止めろと雅臣は言いたかった。

 今では思考するだけで洋子とのやり取りをする事が出来る様になったが、それでもたまには独り言を話している所が周りの人間の目に映る時がある。そんな時に雅臣は、その状況を目の当たりにしてしまった人間に対して取り繕う様に振る舞う事に悩まされた。

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