人魚と青の騎士
それはまるで、母の懐に抱かれたような安らぎを与えてくれる。
常に揺れ動く水面は射しこむ光を和らげ、薄いベールを海の中へ落としていた。海面は青く、色鮮やかな珊瑚が海中を彩り、大小の魚達が戯れるように泳いでいる。下へ潜るほど色は濃くなり、やがて闇が支配する深海へと続いていく。
誰にも侵すことのできない、生命が生まれ辿り着く場所へと。
「遅いわね、なにやってるのかしら?」
白い砂浜に点在する大きな岩場にルーチェリアはいた。岩場の半分は海中へ沈んでいて、海に面した突起部分をつかみながら海面から顔を出し、いまだ姿を見せない者へ鬱憤を募らせていた。
ぶつぶつと文句を言っていると砂を踏む音が聞こえた。耳を澄ませると、ルーチェリアのいる岩場へ近づいてくる。緊張した面持ちで岩陰に隠れ、誰が来たのか息をひそめて確かめる。
太陽の陽射しを遮り、岩場の上から人の影がのぞいた。
「まだいたのか」
呆れた、といった男の声音が降ってきた。
隠れていたルーチェリアが、聞き覚えのある声に喜んで岩陰から出ると、水に濡れた金色の長髪が太陽の光を反射し輝いた。
「ライエル!」
「おまえな、隠れていたって上から海をのぞいたら一発でわかるんだぞ?」
ライエルと呼ばれた青年は、肩で無造作に切ってある茶色の髪に指を突っ込み、頭を抱えて嘆息をついた。秀眉を寄せて眇められた海と同じ色の瞳は、諦めの雰囲気がにじんでいる。
さきほどの不機嫌も吹き飛び、彼が行ってしまわないうちに側へ行こうと、ルーチェリアは慌てて泳ぐ。浅くなった場所を進もうとするので勢いあまった尾ヒレが、ぱしゃり、と海面を波打たせた。
「馬鹿、岩場だぞ。ヒレが傷つくだろう」
怒りを含んだぞんざいな言葉がかけられた。しかし、それはライエルの不器用な優しさなのだとルーチェリアは知っている。
大丈夫、と声を返して注意しながら岩場へ体を上げると、海に浸かっていた全体が露になった。
人間の少女に似た白くしなやかな上半身、腰から下は深いエメラルドの鱗に覆われた尾ヒレが生えている。人間からは、人魚と呼ばれる容姿だ。
彼はそれを見ても驚くことはなかった。驚くどころか、波飛沫が飛んでくる水際へ下りてルーチェリアの脇へ座った。青で統一された軍服の腰に佩いた剣がカチャリと鳴る。
「怪我だってとっくに治っているだろ。なんでここにいる?」
「まだ完治してないのよ。海の中は鮫だっているのに、こんな傷の癒えていないヒレで潜ったら、あっという間に食べられちゃうわ」
ほら、と数日前に傷がついた鱗の部分を見せる。
「昨日は平気で泳いでいたみたいだが?」
「れ、練習よ」
まさか見られていると思わず、ライエルが来るまでの間はしゃいで潜ったり入り江を何周も回ったりしていたので、練習というには少々激しい運動だが。
ライエルの口から、再び吐息が漏れる。
「こんな昼間に出てきて…他の人間に見つかったらどうする」
「あら、気にかけてくれるの?」
「馬鹿。捕まったら珍獣扱いで売られるか、収集家に剥製にされるぞ」
何度言えばわかるんだ、と口酸っぱくなるほど繰り返されている言葉は、ルーチェリアを拗ねさせる。
ライエルが毎日来るのが悪い。
そう言いたかったが、ルーチェリアは緘黙してチラリとライエルの腰へ目をやる。栄養をつけろと、陸の果実を持ってきてくれるのだ。ライエルの腰にはそれらしい袋がある。
お叱りはもうたくさんと言わんばかりに、ルーチェリアの手が袋を掴んだ。
「今日はどんな食べ物を持って来てくれたの?」
「おい、こら。ったく、それだけ食い意地が張っているのをみると、海の中の魚介類も全部おまえが食い尽くしそうだな」
「失礼ね。食い意地なんか張ってないわよ」
ムキになって頬を膨らますと、「わかった、わかった」とライエルは苦笑しつつ腰の袋を渡してきた。
ルーチェリアが口の紐を解いて開けると、小さな薄紅色の果実がいくつも入っていた。
「姫林檎だ。おまえの瞳と同じ色で、甘い」
表情を変えることなく果実の説明に自分の瞳の色を例えられ、動揺を隠すために急いでぱくりとかじる。海の中では味わえない甘酸っぱさが、口の中に広がっていく。
なんだか沈黙する時間も惜しくて、会うと決まっていう台詞をルーチェリアは口にする。
「ねぇ、ライエル。陸の話を聞かせて」
† † † † † †
海に生きる者が、陸に生きる者と交流を持つこと自体が珍しい。
本来ならルーチェリアも一生を水底で暮らし、いつかは誰かと結ばれて子孫を残して、海へと還る。ただ、生命の循環のままに生きるはずだった。
数日前の嵐の夜のことだ。潮の流れが変わると長達から注意を受けていた。にも関わらず、好奇心旺盛なルーチェリアは海面近くへと浮上していった。
水中から見上げた空には、何かがピカピカ光っていた。ルーチェリアは以前、人間の船へ近寄ったことがある。
恐る恐る帆船の側の水面から顔を出すと耳を劈くような音と共に、船のふちからせり出した黒い筒から撃ち出された何かが爆ぜ、赤や黄色に変わる大輪が空に咲いた。音はうるさかったが、それをも忘れさせる美しい華が空を彩っていた。
人間達がまたあの魔法の華を咲かせている、と思ったのだ。
海が荒れている日に海上へ出る船は、そうはいない。何も知らないルーチェリアは、あの綺麗な大輪の華が見れると心躍らせて海面に顔を出したのだ。
が、期待は裏切られる。空を光らせていたのは人間達の魔法の華ではなく、雷雲の中でゴロゴロと荒々しく鳴り響く雷だった。
雷だ。その危険は知っていたが、戻ろうとした時には遅かった。海の中は荒れ始めていて、逃げ惑ったルーチェリアが海面へ顔を出せば、荒波が容赦なく襲う。
さらに不運なことに、急な潮の流れに運ばれて人間達が住んでいる近くの砂浜へ打ち上げられてしまったのだ。
嵐が去って空が晴れ渡ると、月明かりが静寂の砂浜を照らし出した。それから間もなくして聞こえたのは、陸上に住む者達の声。
陸の者に姿を見られれば、たちまち捕まり、皮を剥がれて殺される。
陸の生き物がどれ程残酷で恐ろしいか。仲間達の間で噂されていたことを思い出し、ルーチェリアは恐怖に慄いた。
海に戻るまでは遠すぎて必死に這って近くの岩陰に隠れた。だが、浜辺を這ったために胴体を引きずった跡が、線のようになってルーチェリアの隠れ場所まで案内していた。
砂浜に残る跡を見つけた陸の者達の声が、段々と近づいてくるのがわかった。震えながら声を殺す。ざくっざくっと荒い砂粒を踏みしめる音が、近づいてくる者がいることを知らせる。
月明かりが遮られ、2本足で立つ背の高い影が現れたのだ。岩陰を覗き込んだ影を見て、ルーチェリアは体を硬直させる。あまりの恐ろしさに喉が張りついて悲鳴はでなかった。
影のその手には、銀色に光る抜き身の剣が握られていて、禍々しく見えたのだ。
年はルーチェリアよりも3つ上で、20歳ほどに見える。
青い双眸が細められた。
岩陰の向こうにもまだ何人かいるらしく、青年の仲間が呼んでいる声が聞こえた。
このまま自分は捕まって、生きたまま皮をはがされて殺されるのだろうか。
そんな不安をよそに仲間に呼ばれて首だけ振り返った青年は、いま一度ルーチェリアを一瞥すると、背中を向けて首を振る。
同時に剣を鞘へ戻し、青年は踵を返して岩の向こうへ消えた。
身を小さくして耳を澄ます。聞こえていた数人の声は砂を踏む音と共に遠のいていき、岩場を打ちつける小波だけが辺りに響く。
去ったのだとわかると緊張の糸が切れて安堵から涙が流れる。だが、海に戻るには潮が満ちて岩場に海水が入ってくるまで待つしかなかった。
青年は月が西の空へ傾いた頃に戻ってきた。再び緊張の渦に引き戻され、ルーチェリアは体を硬直させた。
怯えたのがわかったのか、青年はできるだけ優しい声音で話しかけてきた。
「危害は加えない。おまえの怪我を診るだけだ」
少しぶっきらぼうな言い方だったが、敵意は感じなかった。怖がらせないためか、唯一身を守る武器である腰の剣を入口近くの岩へ立てかけて、ルーチェリアへ一歩近づいた。
膝を折り、胸に手を当てて軽く頭を下げる。
「俺はライエル・フォレスター。この国の王に仕えている騎士だ」
「……騎士?」
ある程度なら、人の言葉はわかる。
自己紹介をされたのだと分かり、ルーチェリアはライエルの真似をするように胸に手を当て一礼した。
騎士の礼儀を返され、ライエルの顔が自然にほころぶ。
「ルーチェリア」と、今度は自分の番だと言わんばかりに、自分を指さして自己紹介をする。
「それがおまえの名前か」
ライエルが頷いてわかったと伝えると、ルーチェリアからも笑みがこぼれた。
「おまえは、水底の国の者か」
「みなそこのくに?」
ライエルの言葉にルーチェリアは首をかしげた。どうやら海に住むルーチェリア達のことを総称して、人間達はそう呼ぶらしい。
「今日の嵐で打ち上げられたんだろう? 見つけたのが俺だったからよかったものの、ここの領主に見つかれば捕まるぞ」
彼は懐から練り薬と珠を取り出す。珠は炎となり、焚き火のように岩場を照らした。人間の使う魔術の珠だ。突然の炎に驚いていると、人間の薬が効くかはわからないが、海水に浸して悪化させるよりはいいだろうと言って、薬を塗ってくれた。
この嵐の夜の出会いから、ルーチェリアとライエルの奇妙な関係は始まった。
朝が来る前に岩場からライエルは去って行った。ルーチェリアも彼の姿を見送り、海へ帰るつもりで一旦は深海へ戻った。
しかし、胸の辺りが落ち着かなく、あの岩場になにか忘れてきたのかもしれない。漠然とそう思うと、危険とわかりながら昼間に陸へ近づき岩場へあがった。
数分後、偶然にもルーチェリアがちゃんと海に帰ったか様子を見に、ライエルが戻ってきたのだ。
なんで帰らなかったと怒られたが、ルーチェリアは少しばかりの幸福感を感じていた。
ルーチェリアの意思で留まっているとライエルが気付いたのは最近らしく、人間に興味を持ったのだろうと勘違いしている。初めのうちは興味を失わせようとして、戦争や人間の残虐な話を聞かせていた。
ルーチェリアにとって身震いするほど凄惨な話だったが、話の内容はライエルの実体験がほとんどだった。彼自身の辛かったことや悲しかったことを打ち明けられてくれているようで、真剣に聞くかたわら嬉しく感じた。
何とか海に戻そうとしていたライエルもさじを投げたのか、他愛もない陸の話もしてくれるようになった。それでも、帰ったか確認に来ることは欠かさない。
長と呼ばれる者を筆頭に個々に群れを作り、回遊して生活するルーチェリア達とは違い、人間には色々な領地があり、それを束ねる国というものが存在していて、ライエルは国を治める国王陛下の近衛の役職に就いていたが、今回は陛下から直々の命があり、いまの領地へ視察の護衛として来ているのだという。
「近衛なのに王様の側を離れてもいいの?」
「俺が見たそのままを直接お伝えするんだ」
「王様に信頼されているのね」
感想を素直に述べると、ライエルはわずかに口元を緩ませる。
「最近、陛下は視察報告に疑問を持たれてな。視察者の護衛をしながら酒場などにも密かに行って、地元の情報を集めたりしている」
特に地方の農民の生活や貴族達の動向についてな、と教えてくれた。
本当は誰にも教えてはいけないのだろうが、ルーチェリアは人間の世界に属さない者だ。知られても問題はないと思ったのかもしれない。
「そんな大切なこと、私に教えていいの?」
「そうだな。おまえがここの領主の手先だったなら、知られてはまずい話だ」
口ではそう言いつつ、ライエルの表情はまったく心配していない。
信頼されていると思ってもいいのだろうか。
ルーチェリアの胸には、熱い思いが込みあげてきた。
側に座るライエルの手に触れたい。気付かれないよう、そっと手を伸ばす。ほんのわずかな距離。でも、ライエルからの発熱を空気で感じ取ると、そこで手が止まってしまう。
触れたい。
でも、触れられない。
水の中で生きるルーチェリア達の皮膚はほぼ魚と同じで、温かい人間の手が触れただけで火傷してしまう。
触れられる距離なのに、触れられないもどかしい距離。
そうして何度も会ううちに、ライエルは腕輪をくれた。陸で取れた翡翠でできた腕輪。
細工など施されていないものだったが、嬉しかった。お礼に何かしたくて、ルーチェリアは歌った。心を込めて。
いつものぶっきらぼうな言葉はよこされず「綺麗な声だ」と褒められ、またルーチェリアは頬を染めた。
† † † † † †
「ルーチェリア」
出会ってからすでに3週間ほど経ったある日、低い声で呼ばれて視線を向けると、ライエルの表情はいつになく険しかった。
「おまえ、もう入り江には近づくな」
「どうして?」
「俺は仕事で来ているんだ。お前をかまっているほど暇じゃない」
今までにない突き放す言い方にルーチェリアは戸惑う。今日だっていつもと同じように果実を持ってきてくれた。
でも、本当は迷惑だと思っているのかもしれない。シュンとして波打つ海面へ視線を落とした。
「気をつけろ」
細められたライエルの双眸が、静かな警告を放っていた。
次の晩、ライエルとの約束を破り、ルーチェリアは再び入り江に近づいた。慎重に海水がかかる岩場へ座り、いつものように岩場で待つ。
月明かりが照らす海は暗く、すべてを飲み込んでしまう雰囲気があった。
ジャリ。
「ライエル?」
物音に岩影から顔を覗かせた。
瞬間、魚取りの網がルーチェリアの頭上に降ってきた。
「いやぁ!」
突然のことにパニックを起こし、網にかけられたルーチェリアは逃れようともがく。 しかし、もがくほどに美しいエメラルドの鱗が網の目に容赦なく剥がされていく。
「暴れないで、体が傷ついてしまう」
声がして上を向く。ライエルではない男の声だった。月光を反射して輝く濃い金糸のようなブロンドの髪に、深海を思わせる碧眼。
「怖がることはない、私はこの領地の主だ」
領主は微笑みかけてくるが、ルーチェリアにはそれが恐ろしい魔物に見えた。
網が使用人らしき者達によって乱暴に陸へ引き上げられると、ルーチェリアの体があらわになる。人間の上半身に酷似した体、腰から下は美しい尾ヒレが月明かりに照らされ、いい知れない美しさがあった。
館の主の手がルーチェリアのヒレに触れる。
「ああ、綺麗な尾ヒレが台無しだ」
血が滲み、磯の細かいゴミが付着している。出血はルーチェリアが暴れたせいもあるが、第一は網と岩場を引きずりあげられたせいだ。
恐ろしくて声が出ない。
助けて、ライエル!
自分でも気付かないうちに、心の中で必死にライエルを呼んでいた。
無理やり連れて来られた館の部屋には、鉄の棒に囲まれた大きな水槽が用意されていた。毎日新鮮な海水が水車で汲み上げられ、循環している。水槽からは外の景色が見えた。
館へ引き入れてから館の主のユリアス・クロイツェンは、毎日ルーチェリアを『観賞』しにやってくる。
「歌ってくれないか。いつかの夜のように」
とうとつな頼みだった。それは優しい口調ではあったが、ルーチェリアは彼の言葉に戦慄した。
捕まった夜には歌ってなどいなかった。歌った夜といえば、腕輪をくれたライエルにお礼として歌った時しかない。
館の主がどうして知っているのだろうか。
「町ではここ数日、美しい海の精が歌っていると噂があってね。だから、誰かに攫われてしまう前に、僕が君を助けてあげたんだ。それに、領地のものは私の物だからね」
ルーチェリアを捕まえた行為を正当化したユリウスは、悪びれた様子もない。
気をつけろ、と厳しい表情をしたライエルが言っていたことを今更になって理解した。
ルーチェリアが知らないうちに、陸上では夜に聞こえた歌声が噂になっていたのだ。
「そういえば君がしているその腕輪、安物だね。君には似合わない。もっと高価で宝石をはめ込んだ金の腕輪なんかいいな」
腕輪を寄こすよう言われ、取られてしまわないようにユリウスの視界から隠して首を振って拒否した。
似合わなくてもいい。ライエルからもらった大切な腕輪だもの。
だが、逆らった途端、乱暴に手首を摑まれ、ルーチェリアは鋭い悲鳴をあげた。
痛い、痛い、痛い!
手首が焼けてしまう。
「君は私の収蔵品なんだ。素直にいうことを聞いておいた方が利口だよ?」
ライエルと違って優しい口調だが、薄ら寒い感じがする。それだけ告げると、檻に鍵をかけ去っていくユリウス。
ルーチェリアの手首には、くっきりとユリウスの手形が赤くなって残っていた。
館へ攫われてきてから、もう8日も経っていた。
「ライエルに会いたい」
「ライエル? 誰かな、それは」
ユリウスは紳士的に接する。
また機嫌を損ねて直に肌へ触れられるのではないかと、恐怖しながら彼が騎士であることなどを話した。
「ふーん、君はその男を好きなようだね? 私の物である君の心を惑わすなんて、首をはねて持ってきてあげるよ」
収集家である領主は嫉妬深いらしい。想像しなかった言葉にルーチェリアは体を強張らせていた時、ノックと共に隣の部屋から使用人が入ってくると、ユリウスに客人が来ていると知らせてきた。待っているよういわれ、ユリウスは隣の部屋へ行った。
「なにか問題でも?」
「あれはいつまでいる? 何か摑まれたら厄介だ。賄賂でも渡して、さっさと引き上げさせろ」
「あれは忠実な臣下だから受け取るわけがない。早々に対処する。まぁ、餌はあるからな。招致して館からの帰りに、賊にでも襲われたことにすれば簡単だ」
壁を隔てようとも隣の部屋の会話は、人魚であるルーチェリアの耳にすべて聞こえていた。それが何についての会話なのかは知らなかったが。
その翌々日だった。
突然、館が騒がしくなったのが気になり、水槽の檻の窓からのぞく。館の私兵達が剣を片手に総出で何かを探していた。
駆け足で何者かが水槽のある部屋の前まで来ると、扉が荒々しく開いた。
「ルーチェリア!」
飛び込んできた声と、その者の姿に驚愕する。
夢を見ているのだろうか。
ずっと会いたかったライエルが目の前にいる。
「ライエル、どうしてここに……」
「どうでもいいだろう。それより、排水溝から逃げられないのかっ」
焦りのにじむライエルの問いに、横に首を振る。排水溝はあるが、入口が小さくてルーチェリアが通るには狭すぎるのだ。
「おまえ、俺より体が細くできているんだろう。それくらいの狭さ、根性で通れ」
「無茶いわないでよ。はさまって動けなくなるでしょ!」
無茶を言う割に、何かないかとライエルの瞳は辺りを見回す。
彼の視線が不意に止まった。
部屋の隅にある天蓋付きのベッド。それに駆け寄り、洗濯された真っ白なシーツを乱暴に引き抜く。ルーチェリアが閉じ込められた檻の前へ戻ってくる。「下がっていろっ」と鋭く叫ばれ、ライエルは鉄格子の錠を剣の鞘で叩き壊した。
「直に触れなければ、皮膚が火傷することはないだろう」
持ってきたシーツを広げて海水に沈めると、乗れ、とルーチェリアを促す。
抱えて逃げるつもりなのだとわかった。でも、逃げ切れるのだろうか。
ルーチェリアの逡巡を感じ取ったライエルは、苛立った声で「早くしろ」と急かした。
シーツの上に体を横たえると、肌が隠れるようしっかり包まれた。濡れるのを厭わずにライエルはルーチェリアを抱きかかえた。
濡れた布越しに大きな胸へ身を預ける。ほどよく筋肉のついた胸板、支えてくれる大きな手、大好きなライエルの匂い。
それだけでルーチェリアは安心する。
「良い物食わされて肥えたんだろ。前に会った時より胴回りが太い気がするぞ」
「失礼ね、痩せたのよ!」
緊迫した状況も忘れて叫ぶ。見上げてライエルを睨むと、彼の表情が優しく微笑んだ。
「それだけの元気があれば、自力で海に戻れるな」
何故そんな優しい顔をするのか分からず、囁くようにいわれた言葉にさえ聞き返せないまま頷くのが精一杯だった。
出会った日のように海は荒れていた。
入り江には館の兵士達が集まり、ルーチェリアを探していた。砂浜以外は足場が不安定な岩場しかなく、ルーチェリアを逃がすにも困難だった。港まで辿り着いたはいいが、封鎖が始まっていて、防波堤の外に面して海上に建てられた灯台へ行くための舟しか手に入れられなかった。
防波堤の内側から出れば波が高いために転覆する可能性もあったが、危険を承知で舟を出した。
沖に出るまでの間、ライエルは館へ来ることになった経緯を話してくれた。
数日も姿が見えないルーチェリアを心配していた時、案の定、面白いものを見せるといわれ招致に応じたが、以前と変わって水車が海水を汲みあげていることや、領主が御機嫌なのを見て、捕まったのだとわかったのだと。
この時になって隣の部屋から聞こえてきた会話が、ライエルの暗殺に関するものだったと理解する。
とぷん。
ライエルはできるだけ優しく、ルーチェリアの皮膚に触れないよう濡れた布を巻いたまま海へ入れた。海中で器用に布を取ると、ルーチェリアは舟のふちへ手を添え、ライエルから離れないように側を泳ぐ。
「早く逃げろっ」
「嫌よ!」
必死の形相で叫んだライエルに怯まず、ルーチェリアも叫び返した。
「ユリウスは賊に襲われたようにすると言っていたの。だから戻ってはダメ! 殺されるわ」
館で見聞きしたことを教える。そうすれば、彼は逃げてくれるだろうと思ったからだった。
しかし。
「そうか……礼を言うぞ、ルーチェリア。それなら、なおさら戻って奴らを処罰しなければならない」
ライエルの言葉に血の気が引くようだった。
「……嫌よ、私は嫌! お願いだから戻らないで逃げて」
「酷いな。まるで、俺が死ぬと決まっているみたいな言い方だ」
瞳を潤ませて哀願するルーチェリアに、ライエルは痛みを堪えるような苦笑を見せた。
「俺は陛下から賜った拝命を遂行する義務がある」
ライエルの革手袋をつけた手が、ルーチェリアの顎を優しく上向かせる。ふと顔の目の前にライエルの顔が近づいてきた。
近くにライエルの顔を迎えたことのないルーチェリアは、突然のことに体を硬直させる。
不意にライエルの動きが止まる。革手袋が顎から離れた。
「またユリウスに捕まって、収蔵物として水槽で見世物にされたいのかっ」
いつもなら怯えてしまう乱暴な口調だった。でも、その脅しのような言葉が、彼の優しさなのだとわかると、目頭が熱くなり、不安とは違う涙がこぼれそうになった。
一向に逃げず、舟に寄り添うルーチェリアをライエルは怒鳴り続けていた。彼の焦りが手に取るようにしてわかる。心の内の声まで。
俺の事はいいから逃げろ、と。
とうとうルーチェリアの瞳から涙がこぼれた。
これほどまで、自分は誰かに思われた事はあっただろうか。
いや、なかった。海の底で各々が安穏と暮らし、生きていただけ。鮫などの肉食の生物に襲われても、自ら危険を顧みずに助ける者などいなかった。
弱肉強食、それが自然の掟だ。いっときは悲しむが、誰もがそれが普通なのだと受け入れていた。
すぐ近くで、凄まじい音と水飛沫があがった。ルーチェリアが飛んできた物の方を見ると、大きな船が防波堤から出てくるところだった。
甲板は人が忙しなく走っていて、いつか見たことのある黒い筒がこちらを向いていた。
破裂音と共に、近くに水飛沫があがる。あの綺麗な華を空に咲かせる道具が、こんな恐ろしいことに使われるなど知らなかった。
側へ撃ち込まれた砲撃の衝撃で舟が揺れ、容赦なく荒波が被った。一瞬にしてライエルの体を飲み込む。
夜の海で姿を見失ったら見つからない。無我夢中でライエルを抱きかかえ、遠くに見える陸を目指した。
ようやく辿り着いたのは砂浜だった。
ルーチェリアは体が傷つくのもかまわず、気絶したライエルを水が届かない場所まで引きずってきた。
「ライエル!」
服の上から体を揺する。
彼の顔は酷く青ざめていた。声をかけても反応がないことで次第にルーチェリアも死んでしまったのではとパニックを起こしかけた。でも、服越しに体温は感じる。だったら何が悪いのか。ハッとして、以前に教えてもらった重大なことを思いだす。
人間は、水の中では息ができない。
ルーチェリアは、今さらになって後悔した。ライエルを抱えて全速力で岸まで運んだ。
そう、『海中』をだ。
息をさせるには息を吹き込めばいい。
だが、息を吹き込もうとすれば、必然的にライエルの唇へ触れる。
人間の温かい皮膚に触れれば熱すぎて火傷を負い、皮膚が爛れてしまう。もし体温で温まった息が、ルーチェリアの気管へ入れば、まず無事では済まない。
それでも……。
意を決し、ルーチェリアは空気を思い切り吸い込んだ。ゆっくりと唇をライエルのそれに押し当てる。
――好き。
胸の奥に芽生えた感情は、海の底にいたら一生知ることはなかったのだから。
やがてライエルは気がついた。
側にいるルーチェリアを見て、力なく呆れたように微笑む。
「馬鹿。逃げないでこんな場所にいるんじゃない」
「……っ……、…」
「おい、ふざけているのか」
だるい体を起き上がらせてルーチェリアに問う。
ルーチェリアは首を振った。喉の奥からは声になり損ねた息が、かひゅ、ひゅぅ、と音を立てるだけ。
唇が赤く腫れている。ライエルはルーチェリアの身に何が起きたのか理解した。助けようと息を吹き込んでいたせいで、ライエルの息がルーチェリアの喉を焼いたのだと。
「おま、え……」
愕然とした表情でライエルは見下ろす。
もう、ルーチェリアは歌えない。綺麗だとライエルが褒めてくれた声は、ルーチェリアから奪われてしまったのだから。
「馬鹿。どうしておまえは――」
ライエルの言葉が、不意に詰まった。怒っているのだろうと、いつもの怒号を覚悟する。
だが、予想に反して、ライエルは皮膚に直に触れないよう、服越しにルーチェリアを抱きしめてきた。
「俺は逃げろと言ったんだぞ」
心なしかライエルの声が震えている。
ライエルが生きていてくれるのなら、何を引き換えにしても惜しくはなかった。
ユリウスの船はまだ水上にある。機会はいましかない。
声はでなくても口の動きでわかるはずだと、ルーチェリアは何度も同じ口の動きを繰り返す。
――逃げて、と。
溢れそうになる涙を堪え、陸の方へとライエルの体を押した。
「おまえ、本当に馬鹿だな」
ルーチェリアの意図がわかったライエルは、何を思ったのか、彼は海の中へ歩みを進めて行く。
「来い」
呆然としているルーチェリアを振り返り呼ぶ。見送りのつもりだろうか。
ルーチェリアとしては、もっと一緒にいたかった。
ライエルが内陸の方へ行ってしまったら、もう逢えない。
そして、胸の中にあるこの気持ちも伝えられないのだ。
人間と人魚。
結局は、永遠に交わることのない思い。けれど、生まれた思いは永遠だと信じたい。
胸まで浸かる深みまで来ると、ライエルに肩を押し沈められる。
これで、お別れなんだ。
そう思った刹那、彼も体を沈め、頭まで海に浸かると顔が近づいてきた。
海水でわずかに体温の下がった唇が触れる。触れたのもつかの間で、ライエルはルーチェリアからそっと離れると海面へ顔を出し、すぐに踵を返して浜へ向かっていく。
彼を見送ろうと、ルーチェリアは水面から顔を出した。
丘の向こうには松明が集まり始めていた。
浜に上がったライエルは振り返り、ルーチェリアへ向かって叫んだ。
「必ずおまえを迎えに来る。待っていろ!」
ライエルの最後の言葉は、強い決意を込めた声音で、彼の姿が闇に消えてからも、ずっとルーチェリアの耳に残っていた。
† † † † † †
あの出来事から1年が経ち、また空に魔法の大輪が咲く季節が巡ってきた。
ルーチェリアは帆船へ近づくことはしなくなり、海の者としての距離を守っていた。
声を失って戻った時は長達に驚かれたが、徐々に声はでるようになっていた。ただ、以前のように歌う事は叶わなかったが。
人間が静かになる夜、ルーチェリアは久々に岩場へ来ていた。
彼が残していった「迎えに来る」という言葉を信じて待っているのだ。
ふと、頭上の月の光が遮られる。
ハッとして身構えたが、見上げた影には見覚えがあった。
「迎えに来るのが遅くなったな」
「ライエル」
ポカンとして、その青年――ライエルを見てしまった。
服は青いが軍服ではなく、銀の刺繍が入った燕尾服という貴族のいでたちだった。
ルーチェリアの呟きを聞いて、声がでるようになったんだな、と安堵の表情を見せた。
「ユリウスの不正を追求して領主の座から降ろすのに時間がかかってしまったが、ようやく陛下からこの領地を治めるようにと任命された」
今までの経過を教えたあと、改まって右手を差し出し「ルーチェリア、俺の伴侶となってくれないか」と真剣に問われて返事に迷い、瞠目したまま固まってしまう。
すると、不服そうにライエルは眉を寄せた。
「おい、何か言うことはないのか」
前と変わらないぶっきらぼうな言い方。
「まだわかってないのか」
今度こそ呆れたように溜息をつくライエル。
何を言われたかは理解している。今まで胸に溜めていた不安や心配が、一気に喉元まであがってきた。
でも、いま言いたいことは、ひとつだけ。
深呼吸をし、たどたどしい言葉を口にする。
「……す、き」
言葉にした途端、気持ちが溢れ出す。
「ライエル、大好き」
ライエルの言葉と共にルーチェリアの顔に影が落ちた。
「俺も」
覗き込むようにして、優しく目を細めたライエルの顔が近くにある。見上げていると、落ちてきた唇に軽く口付けられる。氷で冷やしたのか、触れたのに痛みはなかった。
「痛く、ない」
「魔術がなかったら、お前にこんなことできなかったけどな」
ライエルが苦笑する。
どんな魔術かわからないけれど、今は気にならなかった。
どちらともなく黙ってしまい、2人の間に沈黙が落ちかける。
だから、2人の間を埋めるように言葉がほしくて、決まった台詞を口にするのだ。
「ねぇ、ライエル。陸の話を聞かせて」