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“どこにもない事務所”

有形師[完成版]

作者: Iolite

 いっそ悲愴なほど黒一色に染まった空。星さえ見えないほど、明るい夜。天と地で文字通り明暗分かれた駅前のスクランブル交差点は、どの岸も人でごった返している。

 端末を弄ったり友人と喋り合ったり、気ままな行為をしながら、それでも人々は皆、これから進むべき方向を向き、その進行を阻む信号を睨みつけている。

 法則があり規則があり、多くの人々がそれに従い動く様は、音が無いわけでもないのに静かで、厳かで。信号が変わるのを、というより、何か神々しいものの到来を待ち望んでいるかのようであった。

 車が排気音と共に交差点を通り過ぎる。頭上では、ビルの外壁に備えつけられた画面の中でニュースキャスターが何か読み上げている。しかし別の画面に映るアイドルの歌声によって掻き消され、何を言っているのか聞きとれない。

 信号が変わり、人々が一斉に渡り始める。途端に、先ほどまでの一体感は虚飾を剥がれ崩壊する。皆、ぶつかりでもしない限り他人に関心など払わず、思い思いの場所から思い思いの方向へ。その様は、一人ではないのに、とても(さび)しい。

 幾人もの人間が歩く足音。ざわめく声。画面から聞こえてくる断片。店内から零れるアナウンス。焦れたドライバーが八つ当たり気味に鳴らすクラクション。幾つもの音が重なり合い、交差点は不協和音に塗れる。姦しい響きにも我関せずといった様子で歩き続ける人々の顔に、明滅する光が跳ね返って、白くなる。

 夜とはいえ、都会には信号や駅、店、ビル、様々な場所に人工の灯が満ち溢れている。街に存在する灯は夜の陰鬱とした雰囲気を払拭するためか、これでもかというほど光り輝く。だがその、赤の、緑の、紫の、桃色の、橙の、青の、多過ぎる、強過ぎる光は、ただ徒に主張し合うだけで、そこに光としての安堵や、色本来の意義は喪失させられていた。そして、そんな人の手によって調和を剥ぎ取られた、憐れな光では打ち消せないほど、夜の闇は飽くまで濃く、黒より昏い。

 闇雲に誇示し合うせいで逆にモザイクがかったような光の中、一人の女の姿が浮かび上がる。

 美しい女だった。星空を切り取って鋤いたように銀を塗した黒髪は細かく、背中の中ほどまで流れている。顔も体もほっそりと均整がとれていて、しなやかな柳のようだ。肌は白いが、頬と唇は花のような薄紅に色づき、切れ長だが柔和な瞳は冬の夜空のごとくすっきりとした黒色に透き通っている。服装は、この季節に相応しくブラウスにカーディガンを羽織り、裾に蝶の模様をあしらったスカートを合わる、というもの。ヒールの分を差し引いても背が高く、姿勢が良いので余計高く見える。

 齢は二十歳前後だろうか。だが、その若々しい外見にはそぐわない雰囲気を醸し出していた。千年を生きる魔女のように老獪な、或いは闇に生きて男を漁る揚羽蝶のように妖艶な、それでいて、雲を渡る仙人のように飄々として穏やかな。

 ただ美しいだけでなく、そういった幽玄でミステリアスなところを併せ持っていて、濁った光と飽和した騒音の中で唯一透き通るものがあるとしたら、この人だろう。そう思わせる独特の魅力のある女性だった。

 華美ではないが目を引くその女性に、だが交差点の人々は気づかない。よほど無関心を貫いているのか、それとも女性は本当に、彼らとはかけ離れた時空に存在するのか。

 女性は雑踏の間を縫うように進んでいく。彼女が動くたび、ふわりとスカートが揺れ、裾の蝶が舞い踊る。忙しなく駆け回る人々の中で一人悠然と歩く様は、さながら水槽の中を優雅に泳ぎ回る熱帯魚を思い起こさせた。

 女性が渡り終わった当にそのとき、信号が点滅しだした。取り残された人々が慌てて近くの岸に寄る。手綱の解かれた猟犬のように、鉄の塊が交差点を疾走しだす。

 排気ガスによってけぶるなか、女性は人々を呑み込み吐き出す大通りの方へは向かわず、人気のない裏通りへと向かった。

 そこは駅前とは打って変わって、人が少ないわりに道幅は広かった。街灯や点在する居酒屋の灯は、表通りの痛々しいだけの光とは違いレトロで温かく、それでも夜を塗り変えるほどの光量はない。故に、包み込むような光で満ちた店先以外は、夜の翳りが幅を占めていた。

 光と闇の混在によって靄がかったような道を、女性は泳ぐように掻き分け、軽やかな足取りで進んでいく。歩きながら、懐から煙草を取り出し、口にくわえると火を点けた。

 靄がかった道に、さらに煙がたなびく。ぼやけた景色の中、女性の姿はときたま霞み、さらに幻想的な雰囲気が増す。(つや)やかな髪が、蝶の羽ばたくスカートが、不意に吹く風によって巻き上げられる。

 一際強い風が吹き、煙が撒かれ、一瞬、辺り一面を覆い隠す。そして乳白色の霧が晴れたとき、女性の姿はどこにも見当たらなかった。

 誰もいなくなった街路。女性は脇道に逸れたのか。それとも、本当に靄に霞んで、消えてしまったのだろうか。

        *   *   *

 眠らない東京の夜とはいえ、郊外となればそれなりに暗い。

 駅前から延びる道であっても、大通りでなければ店の灯もなく、ちらほらと明滅する街灯の他は、時折車のライトが通り過ぎるのみである。

 だが、いまこの道を往く少女にとっては、家路としてその暗さにも慣れきってしまっていた。故に恐れもなく道を闊歩する。

 暗闇に紛れて定かではなかった少女の姿が、彼女が街灯に近づくことで露わになる。十代半ばか少し上くらい。某高校の制服を纏っていることから、学生であることが見てとれる。

 少女はやや急ぎ足で街灯の下を横切り、遠ざかる。というのも今日、家族の帰りが遅くなるのをいいことに都心で遊び回り、親から言いつけられている門限を過ぎてもほっつき歩いていたのだ。

 午後十時過ぎ。両親もそろそろ家に着くだろう。せめてそれより前に帰宅しなくては。少女としては闇やその内に潜むものより、両親の激昂の方が恐ろしかった。

 ローファーが短い間隔で地を叩く。いつしかそれに、鈍い音が重なった。

(ん?)

 少女は歩を緩める。聞き間違いではない。微かに、でも確かに、何かを――多分、重たいものを――引き摺るような音がする。

 音は一向に遠ざからない。それどころか近づいてくる。何とはなしに嫌な予感を覚え、少女は路肩に寄り、足を速める。しかし、音はついてくるのを止めない。むしろだんだん大きく、強くなっていく。

 音の源は、重いものを引き摺っている範疇の内、できる限り速く、進みたい方向へ――この場合は、少女が歩いている方へ――向かっているようだ。

 少女は振り向いた。少女と進行方向を同じにしているだけで、別に追いかけているわけではないだろう。確かめて、安堵したかった。

 が、その期待は小学四年生の教室の窓ガラスのごとくあっさり打ち砕かれた。

 少女の背後にいたのは、予期せぬモノだった。

 金色の、一対の眼。牙の並んだ口は、嗤うように三日月形に歪められている。

 色は黒い。原色というより、褐色と青を混ぜたような濁った黒色をしている。

 形は定かではない。形容できない、というわけではなく、文字通り一定でない。ぼんやりとした輪郭が揺らぎ、波打ち、膨らみ、絶えず別の形をとり続けている。故に高さも幅も奥行きも常時変化しているが、どんな形をとっていても常に、少女より一回りほど大きい。

 その『何か』の眼らしき二つの光が、少女をじいぃっと見つめている。コレが何なのか、少女は知らない。判らない。だが、コレの狙いが少女であるということは疑いようがない。

 とっさに悲鳴を上げようとしたが、恐怖と動揺が喉にこびりついて、音にすらならなかった。

 脇目も振らず、少女は自宅へ向けて全力疾走する。『何か』は見た目の重量に似つかわしくない速度で追いかける。地面に触れている部位の輪郭は擦れているのか、ボロボロの襞のようになっていて、ソレが動くたびズルッズルッと不吉な音を立てた。

 慣習化するほど運動をしていない少女にとって、家までの距離を駆けるのは苦痛以外の何物でもなかったが、それでも足を止めなかった。アレが何の目的で少女を追っているのかは判らなかったが、追いつかれたらお終いだと直感が告げていた。

 ようやく自身の家へ辿り着き、少女は力任せに扉を引き開け、中へと転がり込んだ。おかえり~と、間延びした声が聞こえる。

「お、お兄ちゃん、おば、おばけ!!」

 動揺と肺への負担によって巧く出ない声を絞り出す。

「は?」

 少女の幼稚な言動に、出迎えた彼女の兄は不審そうな顔をする。

「何言ってんだ」

「本当なの! 真っ黒くって、こう、もやもやってしたおばけが、追いかけてきたの!」

 兄は相手にしなかったが、少女の怯え様を見てとると、溜め息をつき、玄関扉を少しだけ開けて懐中電灯で外を照らす。が、

「何もいないぞ?」

「えっ」

 いささか平常心を取り戻した少女が、扉の隙間から向こう側を覗き込む。そこには、あの影のような靄のような化け物は一片たりとも見当たらなかった。

「暗いせいで、ゴミ袋か何か見間違えたんじゃね?」

 兄にデコピンされ、少女はきょとんとして外の闇を見返した。


「……でも、お兄ちゃんがドアを開けたら、そこにはもう何もいなかったの。それが確か、五日か六日前の話で」

「って、実話かいな!」

「なわけないじゃん。いくら普段喋らないカレンが珍しく長話したとしてもね」

 昼休みの教室に、女子生徒の笑い声が弾けた。いましがた話を終えた――わけでは実はなかったのだが、結果的に強制終了させられた――少女は、友人二人の反応を黙って見ている。

「まあ、カレンにしては良くやった方だと思うよ。えらいえらい」

 友人の一人、アキが手を叩く。

「たしかに。ちょっと鬼気迫るものがあったもんね」

 もう一人の友人、サヤはというと、冷静に感想を述べている。

「カレンの話す口調は真剣だった。まるでホントの体験談みたいにね。ありもしないことだけど、もし自分がそんな目に遭ったらって思ってぞっとした~」

「でもさ、普段そんな不思議な体験できないっしょ。だったら作り話の中だけでもスリル味わいたいじゃん。カレンだってそのつもりで話したんじゃないの?」

「……うん」

 首肯する。

 そう。普通の高校生が、得体の知れないものに追いかけられることなど、普段あるはずがない。あってはならない。

 カレンこと富永歌恋。彼女について語ろうにも、話題が乏しくて話にならない。そう断言できるほど、彼女は都内の高校に通うごくごく普通の少女である。容姿や性格に個性はあっても目立つようなものではなく、趣味、親の地位、通っている学校、どれをとっても、良くも悪くも平平凡凡、当たり障りがない。

 そして歌恋は、そのことに不満を抱いてはいない。家族は生きていて健康であればそれでいい。教師やクラスメイトとの間に問題はなく、友人と過ごす毎日は変化に乏しいがそれなりに楽しい。

 とにかく、歌恋はどこにでもいるただの高校生だった。ほんの数日前までは。

「でもさ、話ぶりは良かったけど、内容は噂そのまんまだよね」

「……え?」

 アキの言葉に、思考が呼び戻される。

「だからさ、いまネットで流行ってる噂話。“黒い怪物が追いかけてくる”ってやつ」

「都市伝説っていうんだっけ。時代は変わっても、そういうことで盛り上がる人っているんだね」

「え、何、詳しく教えて」

 歌恋は思わず、座っていた椅子から立ち上がった。二人だけでなく、教室にいる他の子の視線も集めてしまい、赤面する。

「え、カレン、この話を元にしていまの話考えたんじゃないの?」

「う、えーと」

 訝しげな視線を向けられ、言葉に詰まる。

「実は、詳しくは知らなくて、聞いた話を適当に繋げただけなの」

「なあんだ、そうだったんだ」

 歌恋が言った理由に納得したのか、彼女が座り直すと、アキが話しだした。

「えっとね、“夜、灯の乏しい道を一人で歩いてはいけない。いつの間にか形の無い黒い怪物に魅入られ、追いかけられてしまうから。怪物はどこまでも追いかけてくる。もしも追いつかれてしまったら……”」

「その続きは!?」

「……やだなあ、カレン。どうせ作り話なのに」

「姿を喰われる、記憶を喰われる、声を喰われる、色々言われてるよ」

 真剣に聞き入る歌恋の様子に、二人は再度笑いだす。

「っていうか、形が無いって何よ」

「そのまんま、形が無いらしいよ。どろどろ溶けかけてるとか、お餅みたいだとかで」

「でもさ、この話がホントなら被害甚大じゃん。いくらなんでもありえないっしょ。こんな話に夢中になるなんて、世間の人はどうかしてるよね」

「さっきも言ったじゃん。現実がそれだけ退屈なんだよ」

 盛り上がる二人を他所に、歌恋は一人沈み込む。歌恋とて判っている。二人は悪くない。どうせ他人事。歌恋が彼女らの立場だったら、やはり本気にしないで笑い飛ばすだろう。二人を羨ましげに眺める。

 一人だけ塞ぎ込んでいることに気づいたのか、アキとサヤが心配そうに顔を覗き込んでくる。

「大丈夫だよ。もしカレンに何か遭ったら、あたしが守ってあげるから」

 アキがとん、と胸を叩く。それに応えるように、歌恋は無理やり、笑顔を作る。

「ありがとう。でも、もしも、もしもそんなのが現れたら、正体不明の怪物相手にどうするの」

「大丈夫、大丈夫。都市伝説には都市伝説。ちゃんと解決方法があるよ」

 そういうとアキは、端末を操作しだした。

「いま流行ってる都市伝説は“黒い怪物”だけじゃないんだよ。“環状線の悪魔”“時計仕掛けの霊柩車”そして、“お悩み相談事務所・異界系”」

「何それ」

 興味を見てとったのか、アキが語りだす。

「“この世のどこにもない事務所の主に頼むと、この世ならざる不思議なことを、何でも解決してくれる”んだって」

 サヤもそれに乗っかる。

「他の噂話とは違って、この都市伝説だけ、他の都市伝説の救済的な話になってるよね」

「そうそう、見つけだせれば、多分怪物でも悪魔でも霊柩車でも退治してくれるよ!」

 アキが楽観的な意見を述べるが、歌恋はいまいち浮かない顔だ。

「この世のどこにもないなら、そもそも探しだすことができないんじゃないの?」

「えっとね、確か、ネットのどこかにアドレスがあって、そこにメールを送ればいいんだって」

 そこで予鈴が鳴り、昼休みが終わる。自分の席へ戻った歌恋は、密かに溜め息をついた。


 夜の藍に押されて、西へと退く今日の橙色が、惜しむように街並みを照らしている。

 結局、あの後都市伝説について詳しいことは判らなかった。アキとサヤに訊いても二人ともそれ以上詳しいことは知っておらず、逆に何でそんなに知りたがるのかと訊き返されたので、次の創作に役立てたいのだとごまかした。授業中でもこっそり自分で端末を弄って調べてみたが、二人から聞いたより詳しい話は見つからず、落胆が増すばかりだった。

 放課後になり、友人達は部活と習い事があるため、今日のところは解散した。

 校舎から外に出ると、蛍光灯や繁華街のネオンとは異なる類の痛い光が目を貫く。秋めいてきて、空は高く風は涼しくなったというのに、太陽だけ自然の循環から取り残されたように夏のぎらぎらした光を投げかけている。そう思うと、ちょっぴり憐れだ。

 校門を出て、最寄駅までの道をてくてく歩く。部活に所属してはいるものの、小規模な文化部のため学園祭の時期以外はそれほど忙しくなく、今日の活動はなかった。以前は友達がいなくて暇な放課後は図書室に寄ったりもしたが、最近は真っ直ぐ家に帰ることにしている。……アレが現れないうちに。

 数日前、普通の高校一年生だった歌恋は、何の前触れもなくアレに追いかけられるようになった。

 初めは家に帰った後姿を消したので、疲労のせいで見間違いでもしたのではないかと思おうとした。しかしそれ以降、夜に道を歩くと決まってアレが現れるようになった。最初のときと同じように、いつも、黒色の実体を持つ靄のようで、形がなく、どこからどうやって現れたのかまるで判らない。

 逃げると追いかけてきて、速く走ると余計に速くなり、試しにスピードを落としても距離が縮まるだけで遅まることはなかった。

 店や電車に避難しても、出たり降りたりしたらまたいつの間にか現れて、家まで追いかけてくる。横道を使って撒いても、それは変わらない。

 明るい、人通りの多い道を行っても、夜になると現れた。そのとき判ったことだが、どうやらアレは歌恋にしか見えないらしい。アレは形を持たないものだから、人だろうと物だろうと間をすり抜け、どんどん迫ってくる。しかし道行く人には歌恋一人で走っているように見えたらしい。人混みを押しのけて逃げるのは大変で、歌恋は危うく追いつかれそうになった。

 毎回どうにか逃げ切っているものの、アレはなぜか歌恋に執着し、一向に諦めてくれそうにない。

 アレの正体も、なぜ歌恋なのかも、どうやったら追わなくなるのかも……検証したくないが、追いつかれたらどうなるのかも、歌恋には一切判っていない。

 人混みで追いつかれそうになって以来、歌恋は恐ろしくなり、陽があるうちに学校を出るようになった。友人と遊ぶのも都心へ買い物に行くのも、帰りが遅くなるからとすべて断っている。最近では家の外で待ち伏せしている気がして、ベッドに入ってもしばらく眠れずにいる。

 とにかく、何とかしたくて、今日作り話を装って友人に相談してみた。結果は散々だったが、成果がなかったわけでもない、かもしれない。

 “どこにもない事務所”。そんなもの、本当に存在するのだろうか。いや、アレだって存在するのだから、ないとは言い切れない。

 しかし、たとえ存在したとしても、本当にアレを何とかしてくれて、歌恋を助けてくれるのだろうか。そうやって色々考えると、頼っても駄目な気がする。

 溜め息をつき、

ズルッ

……かけて、呑み込む。肺の辺りに嫌な感触がした。

 振り返るより先に、足を速める。

 アレだった。いつものように、何の前触れもなく現れ、歌恋を追いかけ回す。しかし、夕闇が深くなっているものの、今日はまだ陽が落ち切っていない。こんな時間に現れたのは初めてだ。

 すれ違う人々が何事かという顔をするのを尻目に、駅への道を疾走する。

 途中に工事現場があった。直進するふりをして、道と隔てている屏風状の金属板の陰に滑り込む。

 引き摺るような音が近くなる。金属板の向こう側を覗き見る。アレは歌恋の姿を見失ったようだ。駅への道を直進しようとしている。安堵の息をつく。


 ――♪――♪


 突然、胸ポケットに入れておいた端末から、電子音が鳴り響いた。息が止まりそうになった。先ほどといい、今日は肺に良くない。

 煩い端末を押して止める。アレの様子を窺う。ぴたりと止まって、ゆっくりと、眼を、此方側に……。

「――っ」

 先手を取って金属板から飛び出した。アレはすぐに追ってくる。呪いたい気持ちで、端末の画面を見る。メールが一件。逃げながらのせいで操作が雑になるが、強引に開く。

 From:アキ

 Title:どこにもない事務所


 アドレスわかったよ❤

 ×××××××××@××.jp

 おもしろい話聞かせてね♪


 疑惑より焦燥が勝った。端末の画面を連打し、送られて来たばかりのアドレスを選択する。しかし、焦り過ぎたのがよくなかったかもしれない。つい空メールを送ってしまった。

 舌打ちをして、端末をポケットに押し込む。いまは逃げるのが先決だ。

        *   *   *

 バイブ音がした。何気なく振り返った周囲の人間が、驚愕する。まるで、いまやっと女性がいたことに気づいたかのように。

 人々は感嘆する。これほど存在感のある人物を、どうして見逃していたのだろう。

 類まれな美貌と特有の雰囲気を持つ女性は、人々の好奇と憧憬の視線を振り払うように、足早に交差点を渡り切る。その間端末は憤慨するかのように鳴りっぱなしだった。

「はいよ」

 軽いノリで、女性が電話に出る。

《先生、いまどこですか》

 電話口から、愛らしい少女の声が聞こえる。

「ああ、ふすらくんか。いま私は渋谷にいるのだよ」

《すぐ来てください。依頼を受信しました》

「……原宿ではだめかね?」

《駄目です》

 電話を切り、女性は拗ねたような顔で、いま渡り終えた交差点の、信号が青に変わるのを待っていた。

        *   *   *

 どこをどう走ったのか判らず、いつも使っているのとは別の駅に着いてしまった。が、構わず改札を通り、ちょうど来た電車に飛び乗った。常日頃からお金をチャージしておいてよかった。

 乗ってから気づいたが、どうやらいつも使っている駅の隣の駅だったらしい。安心して、溜め息をつく。今度は無事吐き出せた。ドアが閉まり、発車する。

 車内アナウンスが聞き慣れた駅名を告げる。幾つか席は空いていたが座らず、壁際に寄る。何気なく端末を取り出したところで、新たにメールが届いていることに気がついた。アキかサヤ、そうでなければ家族か携帯電話会社からだと思った。あまり考えず、メール画面を開いてみる。

 From:×××××××××@××.jp

 Title:(Non Title)


 このたびは、お悩み相談事務所・異界系に御連絡いただき、真にありがとうございます。

 当事務所の規約に基づき、お客様の御要望にお応えいたします。

 つきましては×月×日18時までに新橋駅東海道線ホーム品川寄りまでお越しください。


 歌恋は信じられない気持ちで、メールを二、三度読み返す。

 本当に在ったのだ、という感動と、こんなの怪しい、という猜疑心がせめぎ合っている。

 これが本当に“どこにもない事務所”から来たものか確信はない。そもそもそんな事務所があるなんて数時間前までは知りもしなかったし、数日前なら知ったとしても相手にしなかったことだろう。

 しかし、彼女の現状を打破できる可能性があるとしたら、このメールしかない。歌恋は深く息を吸い、吐き出した。いまは藁でもガセでも縋るしかない、と思いながら。

 怪しいURLをクリックしろとか、電話しろといった記述はない。日時を確認する。今日の午後6時まで。日を指定しているということは、良くも悪くも今日を逃したらもう次はないだろう。

 歌恋はとりあえず、行くだけ行ってみよう、と思った。行ってみて危なそうだったらすぐ逃げればいいのだ。駅だったら人も大勢いるだろうし、きっと大丈夫。自分にそう言い聞かせて、端末で時間を確認する。

 18時まで一時間もない。新橋、新橋、どう行けば良いのだろうか。学校とも家ともかけ離れた場所へ向かうために、歌恋は頭の中で路線を組み立てる。新宿で中央線快速に乗り換えて、神田から山手線か京浜東北線で行く、これがいいだろう。

 窓の外はすでに夜の装いに変わっている。闇が電車を圧迫しているようで、気持ちが塞ぎ込む。他の客も皆俯いているため、余計鬱になる。

 そのまま電車に乗り続け、新宿で中央線快速に乗り換える。快速というだけあって、神田にはわりとすぐに着いた。逸る気持ちを押さえて、駅の構内に降り、ホームに上がる。

 電車は出発したばかりらしく、ホームで少し待つことになりそうだ。まだか、まだなのか。歌恋は気が急き、苛立っている自分を見つける。

 どうやら、思っていた以上に“どこにもない事務所”に期待を寄せているらしい。早く新橋に行かないと。18時まで、もう五分も残っていない。

 ようやく着いた山手線に乗りながら、歌恋は、もっと早く着く路線があったかしら、と後悔したが、もう仕方がない。諦めて、ふと窓の外を眺める。

 秋の澄んだ空にぽっかりと浮かぶ月。その光を遮るように、大きなものが、金色の眼を煌めかせながら跳梁し、電車を追ってきている。

「――っ」

 悲鳴が漏れないように口を押さえる。でも、涙は止められなかった。

 電車が東京に停車する。アレとの距離が縮まってしまう。歌恋はせめて、乗車してきた人の中に紛れ込もうとする。

 端末に表示された数字が59から00に変わってしまう。もはや自分が何を考えているのかさえ歌恋には判らず、新橋駅に着いた途端、電車から転がり落ちた。滑り落ちるようにホームから続く階段を下りる。

 いまはただ逃げなくちゃ。もう18時を過ぎたいま、東海道線のホームに行っても誰も待っていないかもしれない。なら誰を頼ればいいのだろう。またメールすればいいのか。一度約束を破ったら駄目なのか。そもそもあのメールは何だ。こっちの都合を考えてない。それより、あの化け物はこうしている間にも追いかけているかもしれない。すぐ後ろで階段を駆け下りているかもしれない。

「きゃ」

 最後の一段を踏み外し、転げ落ちる。視界が揺れる。滲む景色の中、黒髪がはためくのを観た。

「っと、」

 豊かな黒髪のその人は、とっさに歌恋を受け止めた。柔らかいものが顔を包み、衝撃を吸収した。体つきからして女の人だ。歌恋は少し安堵する。

 その人から体を離し、顔を上げる。

 とっさに、息を呑んだ。歌恋を助けた人物は、やはり女性だった。それも、同性である歌恋から見ても惚れ惚れするような、完璧な美貌を持ち、尚且つそれを気取らないような、綺麗だとかお洒落だとか、そういったものを超越した美しさを持った人だった。

「きみ、怪我はないか」

「は、ああ、はい、大丈夫です」

 見とれていたせいで、反応が遅れた。

「あ、その、ありがとうございました」

「いや、いいのだよ」

 女性が答える。容姿と声にそぐわない古めかしい、どこか男性的な口調に、少し驚き、惜しむ。

 そのまま、歌恋は女性の脇を通り抜け「待ちたまえ」ようとして、阻まれた。

「あ、えと」

 ぶつかった拍子に、何か失礼なことでもしてしまったのだろうか。

「いや、なんてことはないが、東海道線のホームはこちらだよ」

 きょとん、と、女性を見つめる。流れ込む風が、彼女の髪をなびかせ、顔にかかる。

「なんで」

「なんでもなにも、きみが今回の依頼人だろう?」

 女性は微笑む。(あで)やかな、それでいて無邪気な、いたずらっ子とそれを注意する大人とが合わさったような笑み。

「ようこそ、“どこにもない事務所”へ。私の名は人禰奏碧。ここでは何だし、場所を変えようか」


 奏碧と名乗る女性と共に、歌恋は東海道線のホームに出た。夜風が頬に気持ちいい。

 ホームにはかなりの人がいたが、端の方には人気がなく、裸のノートパソコンを抱えた少女がぽつねんと佇んでいるだけだった。

 少女は二人に気づくなり、「遅ーい」と飛んできた。

 少女は歌恋より年下で、中学生くらいに見えた。奏碧が純和風な顔立ちをしているのに対し、髪も眼も明るい色をしている。華奢で顔立ちが整っていて、お人形さんみたいだ。

 少女は愛らしく頬を膨らませてみせる。

「先生、遅いですよ。わたしこの寒い中を一時間近く待ってたんですからね。とりあえず、喫茶店でも行って暖まりません? ……あれ、もしかして依頼人の方ですか」

 少女が歌恋の方へ顔を向ける。

「ま、いいや、行きつけの喫茶店があるんで、そこに行きましょう」

 そう言うと、少女は昇降口へ向かいだした。奏碧と歌恋もそれに続く。

 駅を出るとき、歌恋はとっさに周囲を警戒した。あの化け物は見当たらない。しかし、歌恋は気を緩めなかった。

 そんな彼女の肩に、ぽん、と手が置かれる。

「大丈夫だ。ここには何も入ってこれない。ここは“事務所”の客にとっては有数の安全地帯だからね」

 奏碧が、半ば呟くように歌恋に告げる。

「きみも聞いたことくらいあるだろう、“環状線の悪魔”。とはいっても、本当は悪魔よりおっかないやつだがね」

「え、あれも本当だったんですか」

 歌恋は素直な問いを口にする。奏碧は首肯した。

「ああ。正確に言うと、原宿から新橋までの区間がやつの縄張りだ。その範囲には、やつ以外の悪魔、魔物、怨霊、邪神の類は一切立ち入ることができない。安心していいよ」

「……だったら、原宿の方が近かったのに」

 ぷう、と頬を膨らませると、奏碧も肩を竦めた。

「私も、さきほどまで渋谷にいたのだがね。彼女はこちらの方が住処に近いから」

 と、前を歩く少女を示す。

 それほど歩くことなく、三人は奏碧と少女の行きつけだという喫茶店に着いた。

 席に案内されてすぐ、少女はケーキと紅茶を計十品ほど注文した。その内容に、ウエイトレスだけでなく歌恋も辟易する。

 注文の品が到着すると、少女は間髪入れずに追加を頼む。ウエイトレスは苦笑いを浮べつつ奥へ下がった。

「じゃあ、改めて。本日は依頼ありがとうございます」

 少女が切り出し、奏碧が続ける。

「“どこにもない事務所”。その名の通り、私達は活動の拠点を持たない」

「ほ、ほんとにあったんだ」

 驚き、次いで感動する。

 少女は気にすることなく皿に向き直ると、あっという間に五品のケーキを食べ切ってしまった。

「あ、そこのお兄さん、これとこれ、お代り。あと紅茶のシフォンとディンブラ追加で」

 ウエイターが無言で頷く。そりゃ無言になりたくもなるだろう。

「えっと、当事務所の規定は知っているかしら。あ、依頼したなら知ってるか。でも一応。わたしたちは、お客様の身に降り掛かる怪異を、やはり超常なやり方で解決いたします。そうそう、自己紹介がまだだったわね。海麟堂ふすら。“事務所”の窓口担当の一人で、先生の助手です」

 喋っている間も、ふすらと名乗った少女は食べるのを止めない。彼女の平らげた皿が積み上がり、ちょっとした塔を作っている。それにしても……ふすらの言ったことに、歌恋は引っ掛かる。海麟堂って、あの海麟堂なのだろうか。

「あれ、疑ったりしないんですか」

 そんな歌恋の思考など露知らず、ふすらが食べながら、すんなりと“事務所”の存在を受け入れている様子の歌恋を窺う。すると、彼女の斜向かいに座っている奏碧が、合いの手を入れた。

「尋常でない目に遭ったせいで、尋常でないことに耐性ができているのだろう。ありがたいことだ」

「ああ、この仕事始めた頃はけっこう『証拠見せろ!』とかありましたもんね。いまは捌けるようになって良くはなりましたけど。あ、アップルパイもう一個追加で」

「ふすらくん、前々から思っていたのだが、きみは食べるという行為を冒涜していないか」

 奏碧が耐えかねたように言う。そんな彼女はなぜか、席に着いてから何一つ頼んでおらず、水しか口にしていない。

 新橋はビジネス街だと聞き及んでいたため、歌恋はあまり来たいと思ったことがなかった。しかし、この店は雰囲気が落ち着いていて、居心地が良い。品良く置かれた調度品と、どこからか聞こえてくるクラシック。暗くなく眩しすぎない照明。それらを包括する空気が、居座りたいと思わせる空間を作り出している。加えて歌恋が注文した紅茶とチーズケーキはどちらも一流の品で、甘いもの好きな彼女を喜ばせた。ゆっくりと味わっていたい絶品だ。

 ところが、ふすらは同レベルと推測されるケーキを、ポテトチップスでも摘まむかのように無造作に口に納めているようで、何というべきか、傍から見ていて気持ちの良いものではない。

「大丈夫です、先生。わたしだって自分のスペックは判ってます」

「そういう意味ではないのだがね……まったく、いいとこの令嬢とは思えんな」

 奏碧は溜め息をつき、水滴のついたグラスから水を一口飲んだ。

「さて、まあ先ほどふすらくんも述べたように、“事務所”への依頼には罠やイタズラも多い。そのため、当方では真に切迫している者かどうかメールの段階で判るシステムを採用している」

「どうやって?」

「そういう超能力を持った人間が同業者の中にいる。……そして、きみは客の条件を満たしていると判断された」

 奏碧が真っ直ぐ歌恋を見つめる。綺麗なお姉さんに見られて、歌恋の心臓がどきっとしたが、不快ではなかった。

「あの、聞いてもらえますか、私の話」

「その必要はない」

 奏碧は歌恋を見つめたまま、眩しいものでも眺めるかのように目を細めた。

「富永歌恋。十六歳女性。家族間、学校内で問題は特になし。数日前からわけのわからないものにわけもわからず付き纏われている。なるほど」

「え、あれ、私、名乗りましたっけ」

 歌恋は目を瞬かせる。

「きみの倶生神に訊いた」

 判るような判らないようなことを言うと、奏碧はよっこらせ、と年寄り臭い掛け声と共に立ち上がり、一人で店の出口へと向かう。

「まずはそのわけのわからないものを探るのが先決だな。ただ正体を隠しているだけなのか、それとも元より正体などないのか。後者なら手っ取り早いんだがな」

 奏碧の言葉に、歌恋は眉をひそめる。逆ではないだろうか。正体が判れば弱点なども判明し、対策が練れるものではないのか。元から正体のないものなんて、厄介以外の何物でもない。

 奏碧が店を出た後、ふすらが食べ終わるのを待って、それから二人も店を出た。会計のとき、ふすらは財布から一万円札を何枚も取り出し、店員と歌恋を驚かせつつ、(奏碧は結局水しか飲まなかったので)二人分の代金を支払った。

「さて」

 全員揃ってから、奏碧が口を開く。

「これから、山手線の安全圏内から出る。そうすれば対象は歌恋くんを追って現れるだろう。そこを押さえ、可能であればその場で決着をつける。早いに越したことはない」

 安全圏を出る、と聞いて、歌恋の肩が震えだす。そんな彼女の不安を見てとったのか、奏碧が笑いかける。

「大丈夫。私が必ず護るから」

 一同はひとまず、駅へ戻った。歌恋が帰るときのことを考慮して、新宿へ行くことになった。乗り換えるのが面倒なので、時間は掛かるが山手線を使う。

 電車内は混雑していたため、三人は離れないように固まって立った。

「歌恋くん、時間大丈夫か」

 電車に揺られながらふと、奏碧が尋ねる。

「はい。今日は両親も兄も帰りが遅いので」

「でも、これからどれくらい掛かるか判らないから、連絡しておいた方がいい」

 歌恋は納得し、一応メールを送っておいた。

「そういえば、」

 端末をしまいながら、歌恋はふすらを見た。彼女の身長では吊革に掴まることができないためか、開かない方のドアに寄り掛かりながら、窓の外をぼう、と眺めている。

「ふすらちゃんは、連絡、大丈夫なの?」

「連絡?」

 ふすらは視線を移さず、窓ガラスに映った歌恋を見上げる。

「うん。遅くなると、御両親が心配するんじゃない?明日も学校あるだろうし」

 ふすらはすべすべした肌を僅かにしかめ、淡々と告げる。

「わたしには、必要ありません。お爺様は判っておいでです。お母様は心配するでしょうが、いつものことです。それに、いまは学校にも通っていません」

 その口調と内容に、歌恋は戸惑う。そんな彼女に、奏碧が事情を説明する。

「ふすらくんも元々は“事務所”の客でね。最初の依頼自体は解決したんだが、何というか、厄介な事件でね。きみの場合は恐らく、偶然発生したものだと思われるが、彼女の場合、発生した怪異は作為的、しかも人間が引き起こしたものだった。別に、彼女に何らかの非があったわけではないのだよ。しかし、不本意ではあるが、解決した後も禍根が残ってしまって。それで、まあ色々あって、いまは私の仕事を手伝ってもらっているんだ」

「――っ」

 言葉に詰まる歌恋に、当のふすらが向き直って、大輪の花のような笑みを咲かせる。

「大丈夫です。わたしのケースが少々特殊だっただけで、富永さんは今回限り、何の不自由も残りはしません。海麟堂ふすらの名に懸けて保証致します」

 胡蝶蘭と向日葵が同時に花開いたかのような明るい微笑に、心和み、歌恋の頬が緩む。

 まだ気持ちが完全に落ち着いたわけではないが、ふすらの問題はすでにふすらと奏碧の間で済んだことなのだろう。歌恋がこれ以上詮索してはいけないことのように思われた。

 それからはもうそのことには触れず、歌恋とふすらは他愛のない話をしながら、ときおり奏碧にも話題を振り、電車が目的地に着くのを待った。


 新宿に着き、電車を降りて駅の外に出る。夜風が頬を撫でる。気温だけではない悪寒を感じ、身が引き締まる。

「大丈夫。私が必ず護るから」

 奏碧が歌恋の肩を叩きながら、再度言う。

「ありがとうございます。心強いです、奏碧さん」

 その途端、逆に奏碧の肩がびくっと震えた。

「どうしました」

 歌恋がやや動揺して尋ねる。彼女に命を預けたも同然なのだから、不安がるのも無理はない。

「いや、下の名前で呼ばれるのは久しぶりなものだから。ここ数年は家族にだって名前で呼ばれていなくてね。いや、別に不快ではないよ」

 何てことのように語るものだから、彼女の家庭事情についてまるで見当がつかない。まあ、ふすらと同じように奏碧にも色々事情があるのだろう。そしてそれは、少し哀しいが、歌恋には預かり知らぬことであった。

「そろそろ現れそうですよ」

 ふすらが鋭く言い、何故かノートパソコンを起動させる。

 奏碧はいつの間にか火のついた煙草を口にくわえている。白く煙る景色の中、黒く大きく不快なものが近づいてくる――――!!

 思わず竦み上がる歌恋を背後に庇い、奏碧は逆に前に出る。構わず、真っ向から迫ってくる黒いバケモノ。

「奏碧さん!!」

 歌恋が悲鳴を上げる。そんな彼女とは裏腹に、奏碧は不敵に微笑んでみせる。光と影と風と。夜の様々な要素に飾られ、勝気に笑む奏碧は、ぞくりとするほど美しい。

「あんなもの、逃げるに値しない」

 猛スピードで近づいてくるアレを前にしても、奏碧は怯えない。だが、その双眸は真っ直ぐアレを見据えていて、揺らぐことがない。奏碧には、そしてふすらにも、アレが見えているのだ。

 アレはもうすぐそこまで迫ってきている。奏碧は逃げない。ついにアレは目と鼻の先まで達した。威嚇するように口を大きく開ける。そして――。

「GIIIIYAAAAAAAAA!!」

 耳をつんざく悲鳴。あの怪物が発するものだった。右耳と左耳を貫通するような金切り声でありながら、悲壮感を滲ませつつ、それは確かに「ぎゃあ」と聞こえた。

 奏碧は黒いものが口を開けた瞬間、奴の舌に煙草の火を押しつけていた。おそらくは初対面の化け物の舌に根性焼きができる女性など、彼女を除けば他に●原静●くらいなものだろう。

「ふぬ」

 悶え苦しむアレを見ても、奏碧は眉一つ動かさず、冷静に観察している。

「うら若き女性を恐怖に陥れておきながら、この程度のお仕置きに耐えられないなんて、軟弱なやつだ」

 この程度、とはいわない。けっこう痛い罰である。

「っていうか、コレって喋れるんですか」

 いままで自分が恐れていたものを奏碧越しにまじまじと見つめる歌恋。そんな歌恋を見て、奏碧がなぜか、とても(さみ)しそうな顔をした。

「そうか、きみは知らなかったのだね。コレが喋れることも、痛がることも、何なのかも知らず、知ろうともせずにただ恐れているだけだった」

「……」

 怒りや呆れというより失望を孕んだ奏碧の言に、歌恋は返す言葉が見当たらなかった。

「人とは、知らないことを恐れるものだ。未来、死、他人の心、知ることができないものを無条件で恐れる」

 奏碧は明るい夜を睨みつけ、息を吐き出す。秋の外気によって吐息は白く染まり、拡散して天へと昇っていく。

「だがね、知らなかったで許されるものではない。今日のことは“知ろうとしなかった”きみにも責任がある」

「先生、解析終わりました」

 ふすらがノートパソコンの画面を見つめたまま報告する。

「第三徘徊半生命体。通称もややちゃん。正体不定……不明でも不在でもなく、不定です」

「好都合だ。本職に戻れる」

 奏碧は一本の扇子を取り出した。歌恋の方を見て、告げる。

「きみにも、責任を果たしてもらおう。アレから目を逸らさないで。どんなことがあっても、見続けなさい。そして、何が“視える”か、答えなさい」

 そして奏碧は黒いアレへと向かっていった。アレは舌の痛みを与えた人物に怯え、後退りした。

「先ほどのは罰だよ。きみが何の関わりもない人を追いかけ回し、ひどく怖がらせたことへの。さあ、罪の償いは済んだから、きみの欲しがっているものを与えよう」

 アレの口が歪み、ヒトの言葉を紡ぐ。

「……ヒトネ、ソウヘキ」

「そう、私が人禰奏碧だ。知っているよ、きみが本当にしたかったことは、彼女を追いかけることなんかじゃあない……」

 奏碧は扇を広げる。雪のようなものが散った。見間違いではない。雪、ではなく無数の花びらが扇から零れ出て、あっという間に奏碧とアレを取り巻いた。

「奏碧さん!」

「先生は平気です。それより、目を逸らさないで。あなたの恐れていたものを、直視して」

 むせ返るような花吹雪の中、奏碧は踊っていた。(あで)やかに笑み、扇を用い、巻き上がる花びらと共にアレの周りを回りながら、白拍子のように優雅に清らかに舞を捧げている。

 スカートから蝶が浮き上がり、宙をひらひらと飛び回る。

 アレに変化が起きていた。絶えず変化しながらも、何かが溶けるというか、余分なものが剥がれるように、だんだん縮み、色がつき、しきりに何か一定のものを形作ろうとしている。歌恋は二人に言われたとおり、目を逸らさず見続けた。

 頭頂部付近に、尖って広がった二つの突起が見てとれ、後ろ側から細長いものが生えている。ネコのようだ。シマシマ模様で、毛の長いネコ。歌恋がそう呟くと、それはいよいよ猫っぽく変わりだした。さらに細部まで鮮明にイメージし、言葉にする。歌恋が呟いたとおりにそれは姿を修正する。奏碧が舞い踊っている間に、どんどん猫らしく、実在する生き物らしくなっていく。

 ついにそれは、本物の猫と同じ大きさと形になり、奏碧の腕の中にぽん、と収まった。

「どうだろう。形が有れば、それほど怖くはないだろう」

 疲れを感じさせない様子で、奏碧が歌恋に投げかける。花びらが、波が引くように遠ざかり、どこかへ消えていく。

「はい。全然怖くありません。むしろとってもかわいい」

 奏碧の腕の中で、生き物の尻尾がにょろにょろ動く。本当に、どこにでもいる猫そっくりだ。いまでは眼つきに面影が僅かに留まるのみで、これがあの黒い化け物だったなんて信じられない。

「さて、この状態のこいつにはきみをどうこうできる力はもはやない。煮るなり焼くなり茹でるなり生でばくっと喰うなり、きみの勝手だ」

「と、とんでもない」

 首と手を振って拒否する。実際、歌恋にどうこうする気持ちなどなかった。ただ追うのを止めてくれればよかったのだ。

 それに、さきほどまでの姿ならともかく、いまはもう猫以外の何物にも見えない。こんなものを苛めたら動物愛護団体(怪物愛護団体?)に訴えられそうだ。

 いまとなっては、歌恋を追いかけて楽しんでいたことでさえ猫らしい遊びに思えてくる。見た目でこんなに認識が変わるとは、歌恋自身、不思議だ。

「そうか、では、私は根無し草だし、ふすらくんは家出中で余裕がないしな。……そら、お行き」

 奏碧は腕を広げ、猫っぽいものを解放してやる。猫っぽいものは空中で一回転してから着地した。もう花びらはどこにもなかったが、蝶はひらひら飛んで奏碧のスカートに戻っているところだった。

 だが、その中の一匹だけ、仲間達とは別の方向へと飛んでいく。猫みたいなものはその一匹の蝶を追いかけ、戯れ合いながら、やがてどこかへ行ってしまった。

「大丈夫だよ。形を得たことで、アレはもう人に害を為さないものになった」

 夜風に掠われる髪を手で押さえながら、歌恋は奏碧を振り仰ぐ。

「世の中には様々な取り決めがあって範囲があり、大抵のものはそれに属し、護られている。しかし世界には、それらから零れ落ち、形を持たず、寿命を持たず、何にも属さないものが存在する。それらは“無形”であるが故に不確かで不安定で、自らをこの世に留める寄り代を持てない。つまり誰からも認められないし愛されない、憎んでさえもらえない。だからたまに波長の合う人間を見つけると、焦がれ、注意を引こうとする」

「奏碧さん、あなたは」

「私は、そういった可哀想なものに形を与える“有形師”さ。形を持たせてやり、この世の摂理の中に入れるようにしてやる存在」

「……すごい」

 素直に感嘆する。それがどのようなことか判らなくても、先ほどの御業には、心の震えを抑えられない。

「いや、私は、ただ形を与えることしかできない。今回あいつの形を決めて救ってやったのは、きみだ」

 そう言って奏碧は、立ち去ろうとする。

「あの、ありがとうございました。その、お礼って」

「何も要らないさ。きみはあいつに形を与えて、無傷で逃がしてやった。世の中には、形を持ったことで攻撃できると知って、ひどいことをする人間も存在する。でも、きみはそうしなかった。それだけで、私は嬉しいんだ」

 奏碧は歌恋を振り向き、緩やかに笑ってみせる。白と黄の溶け合った月の光がその背後から惜しみなく降り注ぎ、その翳りと芳香のように立ち上る靄に彩られた奏碧は、どこかこの世ではない処の住人のようだ。

「今回のことで、きみとは縁ができた。ふすらくんやきみとの、そういった縁や関わりが、私を繋ぎとめてくれる。ありがとう」

 そして奏碧は、若干模様の配置が変わったスカートを翻し、夜の街へ去っていった。ふすらはノートパソコンを後生大事に抱えて、最後に歌恋に一礼すると、奏碧の後を追いかけていった。

 歌恋はしばらく二人を見送っていたが、その姿が闇に溶けて見えなくなると、駅へと向かいだした。

 帰ろう、家へ。退屈だけれど愛しい日常へ。

 夜風が吹いて髪がなびく。白い花びらが舞った気がした。

        *   *   *

 一仕事終えた後のくつろぎは、他の何にも替えがたいものだ。ほうと息をつき、人禰奏碧はなおも考える。これでふすらくんがもっと行儀良くしてくれたらなおいいのに、と。

 日本各地どこにでもあるチェーンの喫茶店で、奏碧とふすらは向かい合って座っていた。

 希有な美貌と雰囲気を持ち合わせた女性と、身なりは良いのにはしたなくケーキにがっつく少女。他の客がこの奇妙な二人連れに注目している。ふすらはそんなことお構いなしといった様子で、ケーキを頬張り、追加注文する。対して、奏碧はやはり水だけだ。

「でも、今日は先生のアレが久しぶりに見られて良かったです。アレのために先生にくっついているようなものですからね」

「そんなに面白いかね?私は家業を継いだだけで、他に選択肢はなかったし、まあ生き甲斐でもあるけれど」

「いや、先生自身が判ってないだけで、充分すごいことですからね。プロの“有形師”なんて、“事務所”に他にいないですし。……あ、そういえば」

 ふすらは食べる手を止め、両腕で頬杖をついた。見ていたウエイターがとっさに身構える。

「他の人は、いまどこで何をしてるんでしょうねえ」

 “事務所”のメンバーは二人だけではない。しかし、“有形師”の資格を持つのは奏碧だけであった。

「さあ。いつものように、どこにもない場所で、適当に、乱暴に、丁寧に、必死に、潔く生きているんじゃないかな」

 私と同じように。奏碧はそう付け足すと、席を立った。

「また、依頼が来たらいつものように連絡してくれ」

「はい、また会いましょう」

「次は原宿がいいな」

「応相談です」

 ふすらに手を振ると、店を出、どこを目指すわけでもなく歩きだす。

 人も物も、形有るものもそうでないものも溢れ返る雑多な東京の街を、女の孤影が通り過ぎる。

 奏碧はふと、誰もいないはずの場所で振り返った。そして、ふっと微笑むと、向き直り、雑踏の中に紛れていった。

 彼女は今日も、形無いもの達のために、眠らない街を彷徨って眠らない夜を過ごす。


〈了〉


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[一言] P.4l12 「ヒールの分を差し引いても背が高く、姿勢が良いので余計高く見える。」 細かいことですが、『余計』と言うと必要の度をこえて、不要であるというマイナスのニュアンスが強く感じます。(…
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