感情通貨~部下を壊した自責の念を八〇〇万円で売り払った男。心を換金できる世界で、彼が失った本当のもの~
本作品をご覧いただきありがとうございます。
この物語は、感情が通貨として流通する少し不思議で、少し残酷な世界の断片です。
もし、あなたの「苦しみ」に数百万の値がつくとしたら、あなたはその心を売りますか?
「……お願いします。買い取ってください。もう、これのせいで眠れないんだ」
鑑定所の重い扉を叩いたのは、高級なスーツを身につけた中年男性だった。
かつては有能な上司として名を馳せた男。
だが今、その瞳は血走り、酷い隈が刻まれている。
向かいに立つ佐藤は、慣れた手つきで温かいハーブティーを差し出した。
「落ち着いてください。……まずは、あなたの抱えているお話を聞かせていただけますか?」
男は、震える手でカップを握りしめ、語り始めた。
一人の部下を、教育という名目で徹底的に追い詰めたこと。
深夜までの叱責、人格を否定する言葉の数々。
そして一週間前、その部下が自ら命を絶ったこと。
「毎晩、あいつが枕元に立つんだ。……死んだあいつの顔が、僕を責めるようにじっと見つめてくる。もう限界だ。この、申し訳ないという気持ちさえ消えれば、僕はまた完璧な僕に戻れる。……頼む、救ってくれ」
佐藤は悲しげに目を伏せ、奥の扉で仕切られた空間に向かって声をかけた。
「……鑑定士。ヒアリングが終わりました。いかがでしょうか」
スピーカーから、一切の情を排した、剃刀のように鋭い声が響く。
「佐藤。そいつをダイブ室の台に寝かせろ。……無駄な時間を取らせるな」
鑑定士は姿を見せないまま、スピーカー越しに冷淡に命じた。
佐藤は言われるがまま、男を部屋へ誘導する。
男は救いを求めるようにダイブ室のリクライニングシートへ横たわった。
鑑定士の指示に従い、佐藤が抽出装置を起動させる。
抽出が始まると、男の体から漆黒の液体がドクドクと吸い出され、蒸留器の中に溜まっていく。
数分後。
男は、まるで憑き物が落ちたような、空っぽな顔で立ち上がった。
「……ああ、消えた。あいつの顔を思い出しても、なんともない、何も感じない…!あいつの幻覚もみえない声も聞こえない!!」
あは、あはははははははははは!
男は、提示された、八〇〇万円の査定額がチャージされたカードをひったくるように受け取った。
佐藤が最後に
「お客様、罪悪感は人が人でいるためのブレーキです」
そう、声をかけるが、男は
「ふん、そんなもの不要だ」
と鼻で笑い、足早に店を飛び出していった。
静まり返った店内に鑑定士が姿を現した。
彼は男が座っていた椅子を一瞥もせず、抽出されたばかりの小瓶を手に取り、無機質な手つきでラベルを貼り付けた。
【自己愛を保身で煮詰めた罪悪感】
成分名:自己保身型加害拒絶反応
「……鑑定士。あれ、本当に八〇〇万もしたのか」
佐藤の言葉に、鑑定士は鼻で笑った。
「ああ。だが、あの男が思っているような良心の代金じゃない」
「え?」
「佐藤、お前はあの男が部下を殺したことを悔やんでいると思ったか?……違う。あいつの脳波が示していたのは、純度百パーセントの自己愛だ。あいつは部下の死を悲しんでいたんじゃない。部下の死によって、自分の完璧なキャリアが汚されたことを不快に思っていただけだ」
鑑定士は小瓶を街灯の光に透かし、冷酷な観察眼で眺める。
「あの男が罪悪感と呼んでいたものの正体は、単なる自己保身の拒絶反応だ。自分が悪人であるという事実に耐えられず、脳がバグを起こしていたに過ぎない。……だが皮肉なものだな。その、自分を汚したくない、という執念が強ければ強いほど、抽出されるエネルギーは高純度になる」
佐藤は言葉を失った。あの男が、救われたと思って手にした八〇〇万は、自身の醜悪なエゴの対価でしかなかったのだ。
「これでも安く叩いた方だ。世の中には、これを使ってでも、潔白な聖人を演じたい独裁者が山ほどいるからな。……佐藤、棚を整理しろ。次が来る」
「次、ですか? 予約は入ってなかったはずですが……」
「……匂うんだよ。無駄に甘ったるい、腐りかけた花の匂いがな」
鑑定士が入口のドアへ視線を向けた直後、チリン、と呼び鈴が鳴った。
扉の隙間から滑り込んできたのは、夜の街の香りを纏った、華やかな容姿の女性。だが、その瞳はどこか遠くを、二度と手に入らない過去を見つめているようだった。
「……いらっしゃいませ」
佐藤の挨拶に、彼女は少しだけ悲しそうに微笑んだ。
彼女が売りに来たのは、おそらく――。
(連載版:感情通貨~その「初恋」に100万、その「絶望」に1600万。心を切り売りして人生をリセットする人々~
https://ncode.syosetu.com/n7188lu/へ続く)
最後までお読みいただきありがとうございました。
男が手放した罪悪感は、誰かの手に渡り、また新たな物語を生んでいきます。
本日の感情残高はいかがでしょうか。
この物語は、感情が価値になる世界のお話です。
これからよろしくお願いします。
この物語の価値は、読者さまの感情で成り立っています。
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