捨てられた薬師令嬢は静かに去ります。――ええ、公爵様がお許しになれば
「君との婚約は、今日をもって破棄とする」
夕暮れの応接間に、カイルの声が響いた。
私は紅茶のカップを静かにソーサーに戻した。驚きはない。この日が来ることは、ずっと前から分かっていた。
「理由を、伺ってもよろしいでしょうか」
「理由?」
カイルは嘲るように笑った。
「君は地味すぎる。社交界で俺の隣に立つには、華がなさすぎるんだ」
五年。私はこの人に五年を捧げた。
夜会の準備を手伝い、体調を崩せば薬を調合し、借金の返済が滞れば実家に頭を下げて工面した。
それでも、地味。
「それに」
カイルは続けた。
「君が他の男と密会していたという話も聞いている。潔白を証明できるのか?」
密会。
心当たりはある。先月、薬師協会の会合で薬草の仕入れ先と打ち合わせをした。それだけのことだ。
けれど、弁解はしない。
「分かりました」
私は立ち上がった。
「五年間、ありがとうございました。お元気で」
カイルの顔が歪んだ。怒りでも困惑でもない。何か、焦りに近い色だった。
「……それだけか? 泣きも喚きもしないのか」
「ええ」
私は微笑んだ。この五年で学んだのだ。この人の前で涙を流しても、何も変わらないと。
「私は、貴方とは違いますので」
応接間を出る。背中にカイルの舌打ちが聞こえたが、振り返らなかった。
廊下を歩きながら、胸に手を当てる。
母の形見の調合記録帳。薄い革表紙の中に、母の研究の全てが詰まっている。
これだけは、渡さない。
私の価値は、カイルに決められるものではない。
伯爵家に戻ると、父が書斎で待っていた。
「婚約破棄か」
「はい」
父は深いため息をついた。
「カイルの家から、すでに書状が届いている。お前が不貞を働いたと」
「事実ではありません」
「分かっている」
父の目は、悲しみと怒りが入り混じっていた。
「お前が五年間、どれだけ尽くしたか。この父は見ていた。あの男に、お前は勿体なかった」
不意に、涙が込み上げた。けれど堪えた。まだ泣く時ではない。
「父上。お願いがあります」
「何だ」
「三日後の薬師協会認定式典に、出席させてください。母上の後を継いで、正式な薬師として認定を受けたいのです」
父は目を見開いた。
「……お前の母は、協会でも指折りの薬師だった。お前がその道を継ぐというのなら、反対する理由はない」
「ありがとうございます」
これが、私の最後の舞台。
母の名誉を守り、自分の価値を証明する。それだけが、今の私にできることだった。
翌日、思いがけない来客があった。
「ヴェルト公爵閣下がお越しです」
侍女の言葉に、私は手にしていた乳鉢を取り落としそうになった。
ヴェルト公爵。
王国で最も権力を持つ貴族の一人。冷徹で無慈悲と噂され、社交界では「氷の公爵」と呼ばれている。
なぜ、そんな方が我が家に。
「……お通しして」
応接間に向かうと、窓辺に長身の男が立っていた。
黒髪に、深い紫の瞳。噂通りの冷たい美貌だった。けれど、その目が私を捉えた瞬間、奇妙な熱を帯びた気がした。
「リーネ・オルヴェス嬢だな」
低く、よく響く声だった。
「は、はい。本日はどのようなご用件で……」
「三日後の式典の件だ」
公爵は窓から離れ、私の前に立った。近い。背が高すぎて、首が痛くなる。
「俺が護衛につく」
「……は?」
「カイル・ベイカー子爵が、式典を妨害する動きを見せている。お前を式典に出席させないつもりらしい」
心臓が跳ねた。
やはり、あの男は諦めていなかった。私の認定を阻止すれば、「不貞の噂」が真実として定着する。そうすれば、婚約破棄の正当性が証明される。
「なぜ、閣下がそのようなことを……」
「理由がなければ動かないと思うか」
公爵の目が、じっと私を見下ろした。
「五年前、俺は王都の薬師通りで一人の娘を見た。雨の中、傘も差さずに薬草を抱えて走っていた」
息が止まった。
それは、私だ。母が倒れた日、薬草を届けるために必死で走った。
「あの時からずっと、お前を見ていた」
「……え」
「お前がベイカー家に尽くすのを見ていた。報われないと分かっていても、手を出せなかった。婚約者がいたからな」
公爵の声が、わずかに苦いものを含んだ。
「だが、もう違う。お前は自由だ。俺は、もう待たない」
何を言っているのか、理解が追いつかない。
「護衛は明日から始める。異論は認めない」
公爵はそう言い残して、応接間を出て行った。
私は呆然と立ち尽くしていた。
氷の公爵が、五年も私を見ていた?
何かの間違いだ。きっと、何かの間違いに違いない。
けれど、それは間違いではなかった。
翌朝から、公爵は本当に私の傍に付いた。
「あの、閣下。私は薬草園の手入れをしなければ……」
「構わない。続けろ」
公爵は薬草園の隅に立ち、腕を組んで私を見ていた。邪魔をするわけでもなく、ただ見ている。
その視線が熱い。
「閣下は、お忙しいのでは」
「俺の時間の使い方は、俺が決める」
取り付く島もない。
仕方なく作業を続けていると、公爵が近づいてきた。
「その花は何だ」
「え? これは月見草です。解熱剤の材料になります」
「ほう」
公爵は膝をついて、花を覗き込んだ。冷徹と噂される人とは思えない、穏やかな横顔だった。
「お前の母親も、こうして薬草を育てていたのか」
「はい。母は……生涯を薬学に捧げた人でした」
「知っている。協会でも伝説的な薬師だったと聞く。お前は、その才能を継いでいる」
不意に、胸が熱くなった。
カイルは一度も、私の薬師としての仕事を認めてくれなかった。「地味な趣味」と笑うだけだった。
「……ありがとうございます」
「礼を言うな。事実を述べただけだ」
公爵は立ち上がり、私の頭に手を置いた。
「リーネ」
名前を呼ばれて、心臓が跳ねた。
「お前は、自分の価値を分かっていない。だから、俺が教えてやる」
その声は、凍っていた何かを溶かすように、温かかった。
式典前夜。
私は母の記録帳を開いていた。
母の筆跡。調合の手順。研究の記録。
そして、ページの間に挟まれた一枚の紙。
これは、三年前に見つけたものだ。カイルの家に届けた薬の納品書。けれど、金額が書き換えられていた。
私が調合した薬を、カイルは高値で転売していたのだ。その差額は、カイルの懐に入っていた。
母の形見の記録帳には、その証拠が残っている。
明日の式典で、全てを明らかにする。
「リーネ嬢」
窓の外から声がした。
カイルだった。
「久しぶりだな。元気そうで何よりだ」
その笑顔に、吐き気がした。
「夜分に何のご用でしょうか」
「式典のことだ。出席を取りやめろ」
「お断りします」
カイルの目が細まった。
「分かっているのか? 俺はお前の不貞の噂を広めた。このまま式典に出れば、お前は笑い者になる」
「噂は噂です。私には潔白を証明する手段があります」
「……何?」
カイルの顔から余裕が消えた。
その時、背後から冷たい声が響いた。
「ベイカー子爵。夜這いの趣味があるとは知らなかった」
ヴェルト公爵だった。
闘気が滲む眼光に、カイルが一歩退いた。
「こ、公爵閣下……なぜここに」
「俺の女に近づくな」
俺の女。
その言葉に、私の心臓が大きく跳ねた。
「ま、待ってくれ。俺とリーネは元婚約者で……」
「『元』だ。今は関係ない」
公爵がカイルの前に立ち塞がった。
「消えろ。次に彼女に近づいたら、社会的に終わらせる」
カイルは青ざめた顔で逃げ去った。
公爵が振り返る。
「怪我はないか」
「……はい」
「震えている」
言われて初めて、自分の手が震えていることに気づいた。
公爵が近づき、私の手を取った。大きくて、温かい手だった。
「明日、俺がお前の傍にいる。何も恐れるな」
その声は、凍えた心に灯る火のようだった。
式典当日。
王立薬師協会の大広間は、多くの来賓で埋め尽くされていた。
私は緊張で足が竦みそうだった。けれど、隣にヴェルト公爵がいる。その存在が、私を支えていた。
「オルヴェス嬢」
壇上から、協会会長が私を呼んだ。白髪の老人は、かつて母の恩師だった人だ。
「本日、貴女を正式な薬師として認定するにあたり、協会からの報告があります」
会場がざわめいた。
「過去三年間、ベイカー子爵家に納品された薬剤の記録を照合いたしました」
カイルの顔が強張るのが見えた。
「結果、納品書の金額と実際の支払い額に、著しい乖離が認められました。差額は、年間にして銀貨三百枚相当。これはベイカー子爵による横領と判断されます」
会場に悲鳴に近いどよめきが広がった。
「嘘だ!」
カイルが叫んだ。
「証拠は! 証拠があるのか!」
私は一歩前に出た。
「こちらに」
母の記録帳を掲げる。
「私の母が残した調合記録帳です。ここに、全ての納品記録と領収書の控えがあります。筆跡鑑定でも、書き換えの痕跡が確認できるはずです」
カイルの顔から血の気が引いた。
「お、お前……いつの間に……」
「三年前からです。気づいていました。けれど、婚約者だったから、黙っていた」
私は静かに言った。
「でも、もう違います。私は貴方の婚約者ではない。だから、真実を明らかにします」
怒りはない。憎しみもない。
ただ、淡々と、事実を述べるだけ。
「会長」
公爵が進み出た。
「協会として、ベイカー子爵の処分を求める」
「もちろんです」
会長が頷いた。
「薬師協会は、ベイカー子爵家との一切の取引を停止。また、横領の件は王都裁判所に告発いたします」
カイルは膝から崩れ落ちた。
「ま、待ってくれ……俺は……借金があって……」
誰も、彼を見ていなかった。
私の周りには、祝福の視線だけがあった。
式典の後、私は庭園にいた。
夜風が心地よい。長い戦いが、ようやく終わった気がした。
「リーネ」
振り返ると、公爵が立っていた。
「終わったな」
「はい……閣下のおかげです」
「ヴェルトでいい」
「え?」
「名前で呼べ。閣下は他人行儀すぎる」
公爵――ヴェルト様は、私の前に立った。そして、片膝をついた。
「ヴェルト様!?」
「リーネ。五年待った。お前がベイカーに尽くすのを、歯噛みしながら見ていた」
紫の瞳が、真っ直ぐに私を見上げる。
「だから、もう離さない。お前を俺の公爵家に迎えたい」
心臓が、痛いほど鳴っている。
「俺の妻になれ。お前の薬草園は、公爵領で守る。お前の才能は、俺が一生かけて支える」
これは、夢ではないだろうか。
「……私は、地味で、華がなくて」
「誰がそんなことを言った」
ヴェルト様が立ち上がり、私の頬に手を添えた。
「お前は、五年前から俺の目に焼き付いている。雨の中を走るお前が、薬草に語りかけるお前が、理不尽に耐えるお前が。全部、眩しかった」
涙が、溢れた。
「お前は地味じゃない。誰よりも美しい。俺の目には、ずっとそう映っていた」
「……ヴェルト様」
「返事を聞かせろ」
私は、泣きながら頷いた。
「はい。喜んで、貴方の妻になります」
ヴェルト様が、微笑んだ。氷の公爵と呼ばれた人の、初めて見る笑顔だった。
「よく言った。もう二度と、お前を手放さない」
彼の腕が、私を包み込んだ。
五年間、凍えていた心が、ようやく溶けていく。
遠くで、式典の灯りが揺れている。
これが、私の新しい始まり。
隣にいるこの人の手を、私はもう離さない。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
地味だと笑われた令嬢が、自分の力で価値を証明し、本当に大切にしてくれる人と結ばれる物語を書きたいと思いました。
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