第二話 噴水広場で運命の人と出逢う
しまったと思った。普段はマイナスなことは考えないようにしていたが、今日はイレギュラーなことが多すぎたからか、心身が疲弊して制御できなかった。
――殺しちゃいなよ。そしたら、嫌な思いをしなくて済むよ。
また囁いてきた。見ると、両手が震えながら背後にいる女性を掴もうとしていた。
このままではマズイと思った私は急いで広間を出た。誰かが私を呼び止める声が聞こえたが疾風の風によってかき消されてしまった。
――どうして? どうして殺さないの?
やめて。
――みんなあなたの事が嫌いなんだよ。だから、距離を取っている。
やめて。
――ほら、そこに燭台があるからその火をカーテンに……。
「やめて!」
私はつい声を出して耳を塞いだ。今すぐにこの城を抜け出さないと。このままでは大惨事が起きてしまう。
逃げるように廊下を駆け抜けた。頭の中では変わらず『殺せ』『火を放て』など要求してくるが、私は必死に振り払おうとした。
が、庭園まで出た所で、次の声が聞こえた。
――じゃあ、溺れ死ね。
私の視線は噴水に移っていた。泉のように湧き出ている造形の彫像へと向かう。まるで悪夢を見ているみたいにユラユラと水面の方へ吸い寄せられていった。
しゃがみこんで縁に手を付けた。水面に私の顔が写る。場違いな仮面を外して顔を近づけた。決して洗う訳ではない。私はこれから溺れるんだ。逆らうことはできない。このまま私は頭の中に響く声に殺されるんだ。
『溺れろ』『溺れろ、臆病者』『溺れろ! 溺れろ!』
頭の中で声達が響きわたっていく。まるでコロッセオで敗北した剣闘士を生かすか殺すかの選択をしているかのように。
ブーイングが響き渡り、私の顔が水面に付いた。
ふと甘い香りがした。すぐ近くからサクサクと何か噛む音も聞こえてくる。その音色のおかげかどうかは分からないが、急に身体が軽くなった。顔を上げて横を見ると、誰かが縁に腰を掛けていた。
黒いズボンとマントを着た男だった。彼は黒革の手袋をはめていて何かを摘んでいた。銀の皿の上にはパイが何切れかあった。
黒ずくめの男はそれを美味しそうに頬張っていた。隣にいる私には見向きもしていなかった。
もしかして見えていないのだろうかと視線を向けていると、ようやく目が合った。月夜に光るアメジストの瞳だった。
私はなぜか釘付けになってしまった。鼻先に付いた水滴が垂れていても気にならなかった。それくらい注視してしまったのだ。
そして、私の頭の中で叫んでいた呪いの声が止んでいる事に気づいた。
「これ食べます?」
黒マントの男はついさっき自分の命を絶とうとしていた私の前に美味しそうなスイーツが差し出してきた。
フランだった。私は食欲はなかったが、でも、食べたいという意志はあったので「いただきます」と手袋を外して素手で一口食べた。
それがあまりにも美味しかった。死の境地を経験したからか、味覚が鋭くなっていたのかもしれない。カスタードの控えめな甘さとパイのサクサクとした生地が私の荒んだ舌を喜ばせていた。
脳内はたちまち幸福感に包まれていった。じっくり舌で溶かした後、もう一口かじった。そして、それも雲みたいに溶けて無くなるとさらに一口かじり、ついに無くなってしまった。
私の食べっぷりに彼は笑っていた。
「そんなにお腹が空いていたんですか?」
私は我に返って自分の行いを恥じた。見知らぬ男の前でガツガツと食べてしまったのは礼儀を欠いていた。女王という身分でありながらなんて卑しい事をしたのだろう。
「いえ、あの、その……失礼します」
この場に一刻も早く去りたかった私は彼の顔を見ずに歩き出した。
「よかったら、お月見しませんか?」
彼の言葉はまるで石化の魔法のように私の足を動かなくさせた。
「お月見?」
「今宵の月はとても美しい。それを見ながら食べるフランもまた絶品です。独りでも楽しいですが、どうせなら話し相手がいたらなおいいなと思いましたので……いかがでしょう?」
結構です――そう断ろうとした。が、私が出したのは「喜んで」という相反するものだった。どうして急に口が天邪鬼になってしまったのだろう。
私の足は自然と彼の隣に座っていた。黒マントの男はまた私にフランを差し出してきた。さすがに二個目はと丁重に断ろうとしたが、勝手に掴んで口の中に運んでいた。
なんとも不思議な時間だった。お互い初めて会ったはずなのに沈黙が苦ではなかった。普段の私では一秒でも逃げ出したい気持ちに駆られているはずなのに。今日は、今夜は違った。
彼は黙々と夜空を見上げながらパイをかじっていた。あまり感情を顔には出さないタイプなのだろう。何を考えているのか分からなかった。
何を話せばいいのかと頭の中で浮かんでは消してを繰り返していると、「あなたも仮面舞踏会へ参加しに?」と尋ねてきた。
「え?」
もしかしてこの人は私が誰だが分かっていないのだろうか。
「あの……一応主催者なのですが」
「……もしかしてあなたが最近王位に戴冠されたマルガレーテ女王ですか?」
「そうです」
「なるほど」
彼は私が女王だと知っても態度を変えなかった。次のフランに手を伸ばして一口かじった。ますます不思議に思った。今までの紳士は私を見るだけでも恐れるかのように恭しい態度を取っていたのに。この人はやっぱり何か違う――そう思った。
「あなたの方こそ……えっと」
「バトラーです」
「あぁ、バトラーさん。あなたはどこの国の出身なんですか?」
「それは正確には分からないんです」
「どうしてですか?」
「捨て子なんで」
「あ、あぁ、ご、ごめんなさい。その、悲しいことを思い出させてしまって」
「大丈夫ですよ。慣れてますから」
彼と話をしているうちに気づいた事があった。マリナーヌみたいに普段通りの自分が出しているのだ。でも、なぜ初対面なのにそう接する事ができるのか分からなかった。