4話 魔王
少女は、ずっと真夜中をさまよっているようだった。前後左右も覚束ないような真っ暗闇の中で、一人ぽつんと。それがどれほど長い間のことだったかは、誰にも分からない。
やがて、一片の光が差し込み、少女を優しく包み込んだ。暗闇は溶けていき、目がくらむほどにまぶしい世界が広がっていく。耳目をかつて無いほどに刺激する外界が、知覚を満たしていった。
気がつくと少女は、所々に背の低い草の生えた、岩肌の谷間にいた。肌をつんと刺す冷気が漂い、遠くでは橙にそまった空が紫色に浸食されていた。
生まれたままの姿の少女は、ゆっくりと立ち上がる。腰まで伸びた純白の髪が、吹き差す風に靡き、夕日を跳ね返してきらりと閃いた。
谷間から覗く夕日を見て、少女は目を細めた。肌と髪と同じ真っ白な瞳は、その見つめる色に染まっていった。
幾ばくかの時が流れ、暗い空には星が瞬き始める。あたりには何者かの手が加わった光はなく、頭上を満たす星々が、よりはっきりと、自らの輝きを増しているように見えた。美しい、そんな陳腐な言葉では表せない情景である。
「さむい…」
風は強さを増し、さらに冷たく少女の肌に突き刺さっていく。少女は次の瞬間、至極当たり前に(という他に様相を表せない仕草で)服を作り出した。
白を基調に、所々で紫色がアクセントに散らされている、シンプルだが、奥底にえも言えぬ貴賓を漂わせたワンピースだった。
「少しは、まし?」
ほう、と息をつき、少女は身を横たえる。岩肌は程よい冷たさで、外気は冷たいものの、心地よさを感じられる。
彼女の意識は微睡み、程なくして、小さな寝息が立ち始めた。
◇◇◇
時は何処にいても、一定に流れていく。少女が彩りを捉えてから、既に半年が経とうとしていた。
少女の本能か、或いは全く別の何かか。いずれにせよ、彼女は、岩山の奥でひっそりと暮らしていた。そこには、人の胴ほどの太さの丸太で造られたログハウスがある。こぢんまりとしていて、少し古めかしく見えるが、その実、耐久は鋼鉄を凌ぎ、住み心地はどんな住居よりも優れている。
「…ねむぃ」
まだ朝霧が岩山のに立ち込め晴れていないほどの時間。少女がログハウスから出てきた。髪の毛は寝癖が大量発生し、だらしなく崩れた寝巻きを見れば、すぐに朝に弱いことが察せるだろう。
「ん…やっぱり、朝が一番気もちぃ」
ぐっと、少女は体を伸ばした。朝が弱いにも関わらず、こんな早朝に起きるのは、ひとえに、彼女がこの時間帯を最も気に入っているからだろう。
一夜明けて程よく湿った朝の冷気が、彼女は好きなのである。
その後、彼女は簡単に腹拵えを済ませ、岩山へと足を運んだ。この頃には、朝一番の寝癖と崩れた寝巻きは消え失せ、吹けば消えてしまいそうな儚い雰囲気を纏った美少女になっていた。
彼女は家を囲む岩山へと登り、昇り始めた朝日をじっと見つめた。
「GYAAAAAA」
その時だった。彼女の安寧を切り裂いて、凄まじい咆哮が鳴り響いた。少女は顔を顰めつつ、声の方を振り返る。
そこには、圧倒的な巨躯を誇る、漆黒の竜が、悠然と翼を羽ばたかせて少女を睥睨する姿があった。
「むぅ…うるさい…朝なんだから邪魔しないで」
朝の穏やかなひと時を邪魔された少女は、あからさまに不機嫌な声音でそう呟いた。
それを受けて、黒竜が、声を発する。
「…魔族が、我が領域で何をする…?」
「別に…ここは私のお家」
膨大な力の奔流が、竜の身体から解き放たれているが、少女はそれを意にも介さない。
「家…だと?斯様な場所に居を構えているとな?」
訝しげに、竜は少女に問う。
「うん。あれ」
少女は、黒竜の問いに対し、自分のログハウスを指差して言った。
「ほう…真のようだな」
「嘘なんてついてない」
「うむ…邪魔して悪かった。魔族然り人間然り、性懲りも無く我の体を欲しがる故な。少々警戒しておったのだ。許せ」
「いい。別に。私も、さっきは生意気な感じだった、ごめん」
黒龍は、少女の言葉に一瞬呆けたが、すぐに心底愉快そうに笑い始めた。
「クハハッ!我に怯まぬどころか、普通に謝ってくるとは、面白いな、お主」
「そう?」
「ああ。愉快だ、実にな」
「?面白かったなら良かった」
少女がそう返すと、またとても楽しそうに、黒竜はクツクツと笑った。
一頻り笑い終えた黒竜は、真っ直ぐに少女を見つめて、再三口を開いた。
「お主、名は何という?」
「な?なに、それ?」
「む?名前がないのか?となると、お主は純粋な魔族であったか」
あまり訳のわかっていない少女は、こてんと首を傾げる。
「よかろう。我がお主に名をやろう」
そう言って、黒竜は少し思案する。そして、いいものが思いついたのか、ハッとした雰囲気で口を開いた。
「お主の名は、これから『フィネア』だ」
「フィネア?」
「ああ。竜族が古来使っていた言葉でな。意味は、『ーーーー』という」
何を言ったか、少女には聞き取れなかったが、穏やかな竜の口調と声色が、その言葉の意味は決して悪いものではないことを如実に語っていた。
そして、妙に落ち着き、ホッとするような感覚も同時に感じていた。何かこう、決定的に欠けていたものが、すっぽりと塞がったような、そんな感覚である。
「ありがと…あなたの名前は?」
「む?我か?我には名前はない。ただ、人どもには『絶対なる災厄の化身』という意味で、『ヴェーヌェ』と呼ばれておるわ」
「そう…じゃあ、私がつける」
「ふむ…じゃあ、頼む」
フィネアは、先ほどの竜よろしく、しばし思案し、次にパッと顔を上げて言った。
「こんなのは?『オグヴィス』」
「オグヴィス、か。悪くないな、気に入った。一応聞くが、どういう意味だ?」
「わからない…けど、これがあなたに相応しいと、思った」
「クハハ、そうか、我に相応しい名か!フィネア後そう言うのであれば、そうなのだろうな!」
とても嬉しそうに笑いながら、黒竜ーーオグヴィスはそう言った。そしてはたと、羽ばたきを止め、岩場に落ち込んだ。軽く土煙が舞い、地面がズズンと揺れた。
「…なにする?」
「お主と、フィネアと竜約を結ぼうと思うてな」
「竜約?」
「うむ」
竜約とは、竜が自身と対等だと認めた相手と結ぶ、いわば同盟や盟約といったものに似たものである。中身はそれとは全くもって異なるが、簡単な認識はさっきの通りだ。
「わかった。結ぶ」
「思い切りがいいな、フィネア。では、始めるぞ」
その言葉を最後に、フィネアは夢から醒めたのだった。
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