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「遊女を買って一夜を共にする事がどんな事か、まさか知りんせんっていう訳ではないでありんすね?」
ずっと腿に触れていた手を少し上へ撫でるように滑らせ、襟から出した手で服の上から胸を二度、三度と突く。
「もちろん。知ってます。でも僕は、そうじゃなくて……」
「なら、どういう事なんでありんすか?」
「――ただ。夕顔さんと……」
最早その言葉との間に出来る僅かな沈黙でさえ愛らしく思えてしまう。
「わっちと?」
「お話がしたかっただけなんです!」
あまりも予想外なその言葉に私は思わず笑い声を零してしまった。お客の前で演技などではなく本気で笑ったのはいつぶりだろう。いや、初めてだ。
「ご、ごめんなさい。こんなの変ですよね。すみません」
二度も謝りながら彼は視線を落とした。
「確かに変やな」
「ごめんなさい」
「けれど嫌いではないでありんすよ」
私は最後に八助さんの頬にひと触れしてから最初に彼が取ったよりは近いぐらいの距離まで離れた。この布団の上でお客とこんなに距離を取る事なんて無かったし、こんなに気楽な事なんて今まで無かった。
「それで?」
「え?」
「話しがしたいんでありんすよね? どないな話しがしたいんでありんすか?」
そう小首を傾げると少し慌てて座り直した彼は落ち着きなく視線を泳がせた。
「えーっと。その。えーっと……」
どうやら何も決まってないらしい。
「ほな。お仕事は何をしてるんでありんすか? あの時間帯にここにいたゆー事は遊郭内で働いてるんでありんすか?」
「普段は三好という場所で働いてます。妓楼や引手茶屋などに食事を運んだりしてます」
「あぁ。三好ならよう知っていんす。わっちもよく出前を取っていんすからね。いつなるときも美味しい料理をありがとうございんす」
お礼と共に軽く頭を下げた。これは別にお客だからとかではなくて本心からのお礼。
「いや。料理をしてるのは源さんなので。僕は何も」
「そうけれど届けてくれてるのは主さんなんでありんすよね?」
「それはそうですけど。毎回って訳じゃ……」
「そうなら、ありがとうございんす」
「――こちらこそ。いつもどうも」
さっきよりも軽く頭を下げた後、彼は店の者としてのお礼で返した。
「それにしてもよくわっちを買う事ができんしたね。引手茶屋を通して無ければ酒宴もしてないとは言え、わっちは安くはないでありんすから」
「頑張りました。あとは優しさですかね」
「まさか高利貸しから借りた訳ではないでありんすよね?」
「いえ! そんなまさか!」
「まことでありんすか?」
「本当です!」
「なら安心しんした。実際、わっちとの関係を続ける為にお金を借りる人もいんすからね」
「僕は大丈夫です」
そこにはここに来てから一番の自信に満ち溢れた表情があった。同時に最初と比べ彼を縛り付けるような緊張も幾分か和らいだようにも見える。
「そうけれどここで働いているなら知っていんすよね? わっちを買う手順も、それ通りなら主さんでは買えないという事も」
私の言葉に八助さんの表情から自信は姿を消し、顔が俯く。
「はい。もちろんです」
「それなのにここへ来んしたんでありんすか?」
「ダメ元と言うか。無理だとは思ってたんですけどとりあえず訊いてみたんです」
「なら良かったでありんすね。丁度、わっちのお客が帰った時で」
「はい!」
俯いていた顔が上がるとそこには太陽のように煌々とした笑顔が浮かんでいた。私が今後どうあがいても浮かべる事の出来ない穢れも偽りも無き、純真無垢な笑顔。それは今の私には余りにも眩しくて――羨ましかった。
「こんな経験は二度とないどころか人生で味わえるはずの無い素敵な時間です」
多くの男たちが私の事を高嶺の花だと、触れる事はおろか言葉を交わす事すら叶わない存在だと思っているようだけど。今の私にとってはこの遊郭で働く夕顔花魁と比べればなんてことないただのいち料理屋の彼の方が、いくら手を伸ばしても届かない存在に思えて仕方ない。多分それはこの場所ですっかり穢れてしまった私と違い彼がまだ綺麗なままだからなんだろう。嫉妬や羨望とは違う純粋な憧憬の念がそこには存在していた。
もしかしたら私はそんな彼に少しでも近づきたかったのかもしれない。もう手に入らないと分かっているからこそ少しでも。
私は彼の体に手を触れさせるとそのまま布団へ押し倒した。