25 ある少女の話
少女は裾をまくり、裸足で川に入っていた。
水流を波立たせ、二本の足が流れに逆らう。足が止まり、水面をのぞき込む。
水は清流ではない。どろどろに濁っているのでもない。汚染され、毒々しい色をしているのでもない。
何とも、表現のしがたい水色。敢えて言うなら、異次元の色。
そんな水をのぞき込んで、少女の目には何が映っているのだろうか。
いや、それ以前に、こんな水に入って、少女の身は大丈夫なのだろうか。
少女は指を動かす。その指の動きに導かれるように、川の中から浮かび上がってきたものがあった。
それは何か。ただのガラクタだろうか。
熱で変形して、歪んだ金属片。ちぎれた縫いぐるみらしきものの、耳の部分だけ。何かの角なのか、七つの渦を巻く突起物。掠れて消えた、ビニールの印刷物。
次から次へと、浮き上がり、少女の指に導かれ、川岸に積まれる。
少女は黙々と、その作業を続ける。
また、新しいものが浮かび上がってきた。
壊れた寄せ木細工だろうか。いびつに歪み、欠け落ちたパーツの穴から、向こうが見える。河原の土手の上に、人の影。
その人影を確認した少女は、異次元の流水をかき分け、河原に上がる。
影は五つ。中年の美丈夫が一人。残りの影は、顔を晒さず、完全防備の装備を身に纏っていた。高貴な身分の男と、その護衛のようだ。
「ようこそ、おいでくださいました。魔王様」
丁重に臣下の礼を取る少女。飾りのない河原で、質素な薄布を纏っただけの少女。その瞳には生気が感じられず、今にも消えてしまうのではないかという、危惧を抱かせる。
「もう、叔父様とは呼んでくれないのか」
返事はなく、少女は目礼を返すだけ。
「…………兄は」
「父なら、ずっとあちらに籠っております」
川の傍に立つ、みすぼらしい小屋を示す。
「そうか…………」
会話が途切れる。
沈黙に耐えかねたのは、魔王と呼ばれた美丈夫だった。
「ずっと、あそこに?」
「はい、もう一度、かの漂着物を、そして、もう一度、無限を、と」
「そうか…………」
再びの沈黙。
魔王の後ろに控える4人の護衛は、背丈こそ違え、同じ格好、同じ動作。一糸乱れぬ動きで、直立不動の態勢を取っていた。
しかし、よく見ると、一人だけ違和感がある。
定められた姿勢、定められた動作。そんな時には目立たないが。この場所、この時、この状況だけに適した対応。そいういった暗黙の動きの時だけ、ワンテンポ遅れるのだ。
例えば、護衛対象が人と接するとき、周りの警戒をし、念のために相手の一挙手一投足から目を離さず、警戒をする。そう教えられ、実践している。にもかかわらず、三人は、その警戒を解く瞬間がある。違和感の一人は、素早く、その反応に合わせる。が、予知できない以上、それは遅れる。ほんのわずかな差にすぎないが、それが違和感となって現れているのだ。
それに気づかないのだろうか。他の三人も、魔王と少女も、何の反応も見せない。
「……魔王の座はお前にこそふさわしいのでないかと、事あるごとにそう思うようになったよ」
「……私はただ……何も成せない子供にすぎません」
「何を言う。お前こそ、無限の魔力を持つ、奇跡の乙女こそ、我ら魔族を真に導く存在だと、皆望んでいる。無論、私もだ」
この時、最も違和感が強くなった。
「作られた奇跡、ですよ」
「作れた、からこそ奇跡なのだ」
「……ですが、この身は無限の魔力を行使するには、脆弱すぎます」
「ああ、そうだったな。術式はできているか」
「はい、無限の魔力を使うにふさわしい肉体へと、転生する。『無限転生』の開発には、必要なものは、残りあと一つ」
「ああ、お前の無限の魔力を共有する存在。できる存在だったな」
「それがなければ、無限の魔力を保有したままの転生など、到底不可能。……そもそも、あんなことをしなければ必要もなかったのです」
「む、むう……」
「あの子を、無限の魔力を持つ子が、もう一人生まれたなどと偽って、オトリにして……、あの子がいればあれを、あの無限の片割れを適応させるだけですんだのに」
「ああ、その件なんだが……」
「もしかして、サプライスのつもりでしたか」
「え、……そ、それは」
「バレバレですよ。おじさま」
「っ! あ、……いやぁ。そんなにバレバレだったか」
魔王の声の抑制が、大きく外れる。
「いやあ、大変だったんだぞ、なんせ……」
「あ、その辺りの苦労話を聞く気はありませんので」
その時、護衛の列から、一人が飛び出した。その影は生成魔法で刃を作り、無手から凶器を宿して、襲い掛かる。狙いは少女の首だ。
残る護衛たちは、それを見送った。魔王は泰然として、眺めた。少女は何もしなかった。
暗殺者は地面に沈んだ。
河原がへこみ、めり込む。
本人だけでなく、その周囲も、線上にへこみを見せる。見えない竜の胴体が、その場にのしかかったように。
重力で押しつぶされる。不思議とそんな感覚はなかった。これが自然な現象である、暗殺者はそう思った。
せき止められている。ここから上には行ってはいけない。まるで自分で、自分の体を地面に押し付けている、そんな錯覚さえ生まれる。
完全防備の装備が破れ落ち、素顔が晒された。
その顔をどうにか上げて、視線を上にやる。
そして、見た。
殺意と敵意の籠った、九対の眼差し。複数のドラゴンたちが、唸りと怒りを挙げ、その場に出現していた。
「止めなさい、アナンタ」
かつてない程に力強く、少女の声が轟く。
でも、と言うように、無際限の頭を持つ竜が喉を鳴らす。
「止めなさい」
再度の通告に、竜は下がる。
しかし、暗殺者をせき止める、謎の押し込みは消えない。消していないのか、それとも一度出したなら、本人も消せないのか。
少女は、躊躇いなく、せき止められている空間に足を進める。
少女が通った空間のみ、せき止めの力が、削り取られたように消滅していた。
「こんなものでは、私を傷つけることなどできないというのに」
そう言って、地面に押し付けられ、河原の石を焼き、溶かしている、刺客の魔法の剣を握る。
魔法で作られた刃は、超質量に引き込まれるように、少女に引き込まれて消えた。
刺客の素顔は、まだ年端もいかない、幼子だった。
「この子がそうなのですね」
魔王が頷く。
魔族と、「真人」を自称する人類の戦いは、長く複雑に折り重なりあって、ほどけない結び目のように、決して終わらず離れず、続けられてきた。
近年になって、その様相が変化した。
「無限の魔力」によって作られた結界の出現により、真人の勝機が見えない、一方的な戦いになってた。
それでも、真人勢力に、諦めの文字はなかった。彼らは、手段を問わず、魔族の子供をさらい、洗脳し、育成。身内には効かぬ魔族自身の手でもって、結界を越えて魔族を打ち滅ぼそうとした。
劣勢は覆せないであろう、今になっても、決してその手はやむことがなかった。
少女はいまだせき止められている、刺客を見下ろす。
この子に、命令した者。 連鎖
育成した者。 連鎖
攫った者。 連鎖
手引きした者。 連鎖
計画した者。 連鎖
計画を上奏した者。 連鎖
育成に関わった者。 連鎖
そして、把握。
彼らの醜さ。事情。守るべきもの。狂気。苦しみ。無思慮。嘆き。怨嗟。身勝手。悲しみ。
すべての情報を把握。そして、
連鎖して 地獄に落ちろ
ここではないどこかで、多くの命が旅立った。決して、天国ではない場所へ。
脆弱。あまりにも。
少女が漏らした心は、いったい何に対してのものだったのか。
せき止める力はなくなったが、刺客は立ち上がらない。抵抗の無意味さを悟ったのか。
「あなた、名前は」
それでも、少女の質問には答えない。
護衛たちとは違い、徹底した教育が行き届いていないドラゴンたちが、唸りを上げる。
『神声の祝福』
「あなたの名前は」
その声は、神託のように刺客の魂に響いた。
この声に答えないなど、許されることではない。
命令だけを遂行する機械として、育成され、信じる神などない彼女は、絶対的な神の信者となって、神の命に従う。
「名前などない」
「そう、ではまず、あなたに名前をあげましょう」
その声は、今度は「神の声」には聞こえなかった。
にもかかわらず、彼女の中には、今を持って神聖なる響きを持って、その時の言葉が残っている。
「私の、妹の名前よ」