現代価値観論
財布には500円しか入っていなかった。
その要因は既に自らの行為によって自明であった。
昨日、推しのバーチャルユーチューバーである『日向もんめ』ちゃんへ誕生日祝いの意を込めて1万円ものスーパーチャットを送ったことが全てであった。因みに給料日までは残り3日。500円では緑スパチャ1回分いやいや、コンビニにておにぎり2つと少しほどしか買えない計算である。
私を愚かと笑うがよい。1万500円と500円とでは月とスッポンの差。貯金さえ度外視すれば3日間さぞ贅沢な暮らしが出来たであろう。しかしそれは所詮リアリストの意見に過ぎぬ。
現代の価値観において金額の大小の差こそあれ、一体全体何にどう遣うかという点においては非常に多岐に渡る。これは我が国に留まらず世界的な流れであるが、価値観というものの個人差が大きく乖離しつつあるのだ。
したがって100人中99人はVtuberへの課金より食費を優先するわけであるが、私のようにそれを拒む人間すら許容される。何故なら私にとってその瞬間を切り取れば彼女へのスーパーチャットこそが食費を上回る優先順位であった為だ。
仮に昨日スーパーチャットを送りそびていたとしよう。そうすれば賢い選択をした男が1万500円を持ってただ自らを満足させるだけの侘しい食にありついていたことだろう。1万円を手にするべきはいずれなのか。私と日向もんめちゃんのどちらにこの世における存在価値があるだろうか? そんな事をわざわざ問うまでもなかろう。
そうした意味において私の選択は何一つ間違っていなかったわけである。ここに今500円しかなかったとて、それは成功の証であり、自らの存在を僅かにでももんめちゃんに認知してもらうに値する結果である事をここに記しておかねばならない。
「あれ? あんたこんなとこで何ボーッと突っ立ってんの? 邪魔なんだけど」
脳内にて現代価値観論を練り上げていた私に声をかけてきたのは、大学にて同じゼミの女こと葛西ひなたであった。
「うるさいな。今食事を選んでいたところだ」
「おにぎり選ぶのに時間かかり過ぎっしょ! もしかしてお金ないの?」
「ふむ、否定は出来ない」
「またしょうもないことにお金遣っちゃったんでしょ? いい歳してんだから遣い方には気をつけなさいよ」
まるで母親である。
「フフ、君に私の価値観など分からんだろう」
「そんな高尚な趣味があるの?」
「そうとも。昨日は我らが日向もんめちゃんの誕生日だったのだ。そこで大枚を叩かずにずいつ叩くというのだ」
「何かと思ったらバーチャルユーチューバーかよキッモ! よくそんなのにお金遣えるわ逆に尊敬するわこのオタクが!」
「何を言うか! 現代において価値観は多様の一途を辿っており、もんめちゃんへの赤スパこそが私にとっての大いなる価値なのだ」
「それで飯食えなくなってたら世話ないわアホンダラ」
まったく、ぐうの音も出ないとはこのことである。
私がぐうと言う代わりに私の腹の虫がぐうと鳴く。やれやれ、困った身体だ。
それを聞いた葛西は溜息混じりに言う。
「ったく、しょうがない。私が奢ってあげるから、好きなの選びな」
「良いのか!?」
「その代わり、次のゼミの発表準備あんた1人でやりなさいよ」
「無論だ! 任せておけ!」
そう言うと私は気になっていたおにぎりを全てカゴに入れた。いやはや助かった。おにぎり3個があれば給料日まで繋げられるではないか。しかも500円まだ遣える猶予すら生まれる。
「え、それだけでいいの?」
「おにぎり3個のうち2個を悩んでいたのだがな、君のおかげで全て手に入れることができた。感謝するぞ」
「いや、もうちょっと買いなって。あんた金銭感覚どうなってんのよ」
「では逆に質問だが、君にとって価値ある行為とは何かね?」
「な、何よ急に」
「良いから答えてほしい。特に金銭が絡むものについて」
「私は......そうだなぁ、家で歌うことかな。その為にマイク買ったりとか」
「そう、万人が万人家で歌う為にマイクを買うわけではない!」
「当たり前のことを何堂々と.......」
家で歌う為にマイクを買うガチっぷりに少々驚きつつも、私は尚言葉を紡ぐ。
「君にとってのマイクが、私にとってのスパチャに他ならない!」
「一緒にしないでよ!!」
顔を真っ赤にしながら怒る彼女を見て、少し先走り過ぎたと一瞬考える。せめてお会計の後に言えば良かったと。
「しかし君。単に歌うならばカラオケボックスなる施設へ行けば良いのではないかな? 高いマイクより安上がりだぞ」
「う.......。まぁそうだけどさ」
咄嗟に出した話題そらしが功を奏したのか、葛西は何故か狼狽する。
「何故家で?」
「言わなきゃダメ?」
「いや、無理にとは言わんが気になることだけは間違い無いな」
早くおにぎりを買ってもらいたいという気持ちを、好奇心が上回った瞬間であった。葛西は小声でおずおずと答える。
「配信.......してるから.......」
「どこのプラットフォームだどのチャンネルだSNSのネームは! 登録者数は何人だ何をいつどの頻度で上げているんださぁ答えたまえ!」
「言うわけないでしょうがぁ!!」
「ユーチューバー、そしてバーチャルユーチューバーに精通したこの私が全力で君をsupportしようというんだぞ!? 何を断る理由がある!」
「要らないっての! あとネイティブっぽい発言キモいからやめてよ」
「何を言うか! 一攫千金のチャンスを得る舞台に立てているんだぞ。何せ市場は世界だ。どこぞのサウジアラビア人が君の歌声に惚れてオイルマネーを個人的に流しても不思議はないんだぞ!」
「オタク特有の早口で捲し立てるのやめて! お金なら間に合ってるし別にお金が欲しいわけじゃないし!」
「なん......だと......?」
私は思わず言葉に詰まる。金は欲しくないと申すか。この現代人が。
しかしこの思考は当初私の中で組み立てていた現代価値観論と根本から矛盾することを、私自身が気づいていないのであった。やはり目の前におかねのはなしがでてきたらのーしでそこにとびついてしまうのだ。にんげんだもの。
「では、君は......。何の為に配信を?」
「決まってるじゃん。見てくれてる皆が喜ぶところを見たいからよ!」
何という高尚な価値観を持っているのだろうか。私は今の今までこの葛西ひなたという人物を根底から勘違いしていたのかもしれない。これではまるで......
「アイドルそのものではないか......」
「ん? なんか言った?」
「い、いや......!」
言い淀む私から買い物カゴを奪った葛西は、呆然とする私を無視するかのように次々と商品を入れていく。
「何を......?」
「だからこれはお礼! 昨日だって......たかだか誕生日ってだけでどこぞのバカオタクも来てくれたことだし!」
そうやって笑う葛西『ひなた』は、私がよく知る『日向』もんめちゃんの顔をしていた。
総計すると約5000円になる食糧を抱えて私は帰宅した。
先程までの会話が本当だったのかどうか、定かではない。上手く担がれたのかもしれない。
現代価値観論に追記しなければならないが、単に可愛いからスパチャをするだとか誕生日だから祝いにスパチャするとかではなく、正しく生き様そのものを称賛すべき存在というのは確かに存在するのだ。
その晩私は、ちょうど歌枠を取っていた日向もんめに500円のスーパーチャットを投げた。
現代価値観論に照らし合わせると正味な話額ではない。
私は1万500円どころではない価値に対して最も近いところから眺めることができたのだから。