この瞬間の名前
インターフォンが立て続けに鳴る。
もはや似た風景の繰り返しともとれるようなフロントの日常。
「はい、フロントです。」
フロントはさほど混んではいないが、お昼の時間とも重なり、料理の注文が次々とくる。
受け取ったメニューをフロントのパソコン画面で呼び出し、メニューを送信する。
メニューが多くなると、今度は厨房が混んでくるため、料理をとりに行くことにする。
「フロント任せますね。」
交代のフロアスタッフに、フロントを任せて、メニューの出来上がりをとりにいく。
厨房に移動して、メニューを指定の席に運ぶことにする。
運びおえて
「失礼しました。」
席から離れて厨房に戻ってみると、別の席の料理はすでに出来上がっている。
またその料理を受け取って、出来上がりのメニューを指定の席に運ぶ。
指定の席に料理を運んで
「失礼しました。」
えと、席から離れて、厨房に戻ると、次の料理ができていて、席に運んでは、厨房に戻り、を何回繰り返しているのだろう。
料理を運んだ席から厨房に戻る時に、他の席から下げてきた、お皿やコップをお盆にのせている時もある。
それを洗い場に戻しながら、下げてきた透明なコップのなかの水。
そのコップ内にある透明な水の中に、これまでしたきたことの人生の累積がある気もして、水の中をずっと見てしまった。
少しそうしていると、これも疲れかもしれない、と思いなおすことができた。
それとも考え事の途中に、そうした出来事が浮かんできてしまっただけか。
深くは考えすぎないようにしよう。
いくつかそれらの作業を繰り返していき、少し経つと、それから、ようやく手の空きができてきた。
今度はちらばってきた、本棚にある本の片付けをすることにする。
本の片付けをしたり、ならべかえを行っていると、また声をかけられた。
「すいません、雑誌はありますか?」
「あ、雑誌はこちらですよ。」
「どういった種類の雑誌を読まれますか?」
こういった世間話のような会話も案外悪くない、とトーヤは思っている。
「女性誌のファッション誌とかも、めくるだけでも、楽しいですよね。」
「あのCKグループのはるかさんとか、インタビューとかさすが、かっこよいとか、思いました!」
そして、トーヤは、割りと女性誌をよく読むほうだ。
特に推しメンバーがいる。
「あのグループメンバーのうち、わたしは、たか推しなんです。」
「この前もラジオに出てましたよね。話しきけて嬉しかったぁ。」
「CKグループの曲もいいですよね。名曲がいっぱい。」
相手のお客様も返事をしてくれて、トーヤはなお嬉しかった。
雑誌コーナーを案内したあとは、手をふって、その場を離れる。
そのあと移動していると、男性スタッフが近づいてくる。
「作業は順調かい?」
「今日は、呼びだしが少ないかもですね。」
「この前は3時間くらいの長丁場になりました。」
二人して笑う。
「あまり呼びだされる数が多くなるなら、交代するからね。」
「助かります。遠慮しないで、声かけるんでお願いします。」
「はい、わかったよ。」
こうして、男性スタッフは、次の作業に入っていく。
声をかけてくれたのは、トモさんだ。
トモさんは、このフロアで人気者のスタッフだ。
そろそろ休憩かと思っていたところ。
「トーヤくん、お疲れさま、休憩です。」
「はい、わかりました。」
腰につけた、無線機のイヤホンを通じて、フロントから案内が届いたため、返事をした。
フロントを通りすぎる際には
「お疲れさまです。トーヤ休憩です。入ります。」
言い終えると、なぜか意味深な笑顔で返されてしまった。何だろう。
食堂まで休憩をしに歩いていく。
2階にある食堂と休憩スペースとなっている場所の前にきて、
「失礼します。」
いつもの休憩の通りに、携帯ラジオを手に持ちながら、入っていった。
今日のまかないは、と考えていると、すぐに、
「トーヤおそい!」
と人の声が聞こえた。
どうやらヒカルさんかな、と思っていたら、リエさんからの声だった。
「お、今日はヒカルさんではないのですね。」
「何ー、ヒカルの方がよかったのー(笑)」
「そういうわけではないですよ。」
「このー浮気性め。ダメだよ(笑)」
「ごめんなさい。知らないうちではあるけど、浮気みたいでごめんなさい。」
「じゃ、次からはりぃちゃんって呼んでみて。」
「えと、それより、今日の休憩ご飯何でした?」
「それよりってひどくない?」
どうやらリエさんに怒られてしまった。
でもどことなく冗談っぽくもある。
何か意味があるのか、どうかもトーヤはわからない。
「ごめんなさいっていっても、冗談ですよね?」
「えーと、どっちだと思うトーヤくん?」
「あ、今日はしょうが焼きの定食だったよ、トーヤくん。」
「よし、では冗談ってことで。」
「メニュー教えてくれてありがとうございます。」
「ふふっ、トーヤくんって、話しするとおもしろいね。」
「トーヤくんと話せるようになって、良かった。なんか休憩の時ってさみしくって。」
「わかります。」
しょうが焼き定食をとってきながら、話す。
「ヒカルさんって、スタッフの働いている時や普段から、明るくて積極的なのは変わらずですか?」
「そうね、いつもあんな感じだよ。明るくって元気もらえるでしょ?」
「そう、それです。わかります。」
なんだろう。
リエさんと話すと、落ち着いた会話になる。
少し嬉しいような、少しくすぐったい。
と突然に、リエさんはこう言いだした。
「ひーちゃんはモテ要素たくさんだし、競争だよ!ひーちゃん狙ってみるの?」
突然のことでトーヤは、なぜか慌ててしまう。
「リエさんってよく見てますね。」
「ていうかヒカルさんって、ひーちゃんって、呼ぶんですか?」
慌てつつもそう答えてみる。
「そう、普段はひーちゃんってわたし呼ぶよ。」
「今度呼んでみる?(笑)」
「なんか怒られそうだし、止めておきます。」
「えっそれってわたしにってこと?ひどいなぁトーヤくんはっ。」
今度は冗談だと分かり、笑った。
「わたしそんなには、怒りっぽくないよ。」
「そうなんですか。」
「あ、そろそろ休憩終わりだね、お先に。」
「わかりました。」
「また今度ね。」
こう言ってリエさんは一礼してから、休憩スペースから離れていく。
トーヤの休憩時間は、いまだ残っている。
とってきてある、しょうが焼き定食を食べて、携帯ラジオをきいて、ゆっくり休憩する。
休憩から戻る時、先ほどの意味あり気な視線だった、フロントのスタッフと再び会話する。
「お疲れさまです。」
「さっきの笑みって何ですか?」
「休憩でヒカルさんに会わなかった?」
ときかれた。
「隣で働いているリエさんはいましたよ。」
すると、
「トーヤくんの休憩って、今日は何時ってきかれただけだよ。」
「なるほど、そういうことか。」
「トーヤくん何かあった?」
「いや、特には。」
うーん、どういうことだろう。
やはり笑みや言葉の深読みはできそうにない。
それから、夕方時間までは料理の注文が混んできてしまい、厨房と洗い場を繰り返しいき来したりする。
フロントのインターフォンのリピート呼び出しをしてくるお客様がきたりもして、インターフォンからの呼び出しに応じて、その席について、パソコン操作の説明や文書の作成の手伝いをしてまわったりもした。
シフト時間の終わるころには、くたくたに疲れたトーヤであった。
シフト時間が終わり、別れぎわにスタッフと
「お疲れさまー。」
と、言いつつ、別れていく。
ふと、コップの中の水を覗いた時の気分が思い出す。
そうか、トーヤを迎え入れてくれている、この時のこの瞬間に、何かの名前がつきそうな、そのような予感だった。