7 カルベリイの雫
クラウス家のお屋敷は立派だったが、華麗さよりは年季の方が勝っていた。
壁には蔦が這い、格子は黒光りしている。何処からか家畜の鳴き声がする。ヨーロッパのかなり年経た病院、あるいは寺院と云った佇まいだった。
それでもキャラメルの空き箱みたいな家に住んでいた私からすれば、豪勢で美しい建物だった。
ベルを鳴らして待つと、使用人が出て来て庭園へ案内してくれた。
芝生の上にテーブルがあり、お茶の用意が整っている。私達が来るのを既に知っていたのだろうか。
庭を眺めながら領主さんを待った。ビッツィーはやっぱり色々な物を観察したり口に含んだりしていた。植物もそうでない物も。
使用人さん達は、よく太って顔色も良く、都の流行などについて色々質問してきた。
その勢いといい、若者を太らせようと焼き菓子を押しこんでくる感じといい、パートのおばさんを相手にしている様だ。それに、彼女らは村での私達の行動を、恐ろしいほど把握していた。
やがて領主さん一家が現れた。
私達は立って挨拶した。
領主さんは鷹揚に頷くと、息子さんの一人に、葡萄酒を開けさせた。
受け取ったグラスを、陽に透かして点検してから、其れをビッツィーの方へ突きつけた。
領主さんは無言の儘である。
果たし合いのような緊張感が漂い、皆が黙った。
一口飲むと、ビッツィーは「おぉ」と声を漏らした。目を閉じて味覚を研ぎ澄ませる。
これから始まる味覚描写が、どれほど正確なのか、というか真面目に云っているのか、それさえ私には分からない。壮大な事を云っている様ではあった。
「これは……蒸気立つ腐葉土。熟れて開いた果実。肉厚の花々。香ばしい堅菓。蝶の鱗粉。麝香猫のおしっこ。ここは……孤島。そう、繁栄を極めた熱帯の島に私はいる……」
この調子である。
誰も笑っていなかったので、こういう表現文化が、この界隈にはあるのだろう、と納得する事にした。
更にビッツィーは歌劇的な動作さえ交えて、
「そしてこれは刻? 刻が見えます。夥しい交配と食物連鎖。千年の死と、千年の乱交配。生命の坩堝。その果てに、透明な果実が生まれる。私は旅人。乾いた旅人が果実を手に取る。氷のように重い。花のように脈打つ。口に運べば森のように濃厚。けれど、千年の夢のように儚くとけてしまう。すばらしい……これが極上のカルベリイ」
一気にそう結んだ。
使用人さん達がうっとりと息をつく。良い表現だったらしい。
カルベリィというのは、地名とお酒の銘柄両方の事だろう。つまり、ビッツィーが云ったのは「美味しい。これはカルベリィ産のお酒ですよね」ほどの意味だったと思われる。そう云えば良いのにと思う。
「それだけか?」
領主は厳めしい顔の儘だった。所で、この「それだけか」が彼の放った最初の言葉である。
ビッツィーは首を振った。
「素晴らしい葡萄酒ですが、此れは『カルベリィ』ではありませんね? 正確には、流通している『カルベリィ』ではない」
「ほう」
「『カルベリィ』は素直な味わいが売りのはず。これほど複雑な味わいは流通している『カルベリィ』ではあり得ない。しかも深い味わいの中に、どこか明け透けな、そう打ち解けた感じがある。まるで一流の料理人の造る家庭料理のような。これは……『奥畑』ですね?」
領主さんはビッツィーをまじまじと見た。
次の瞬間には相好を崩して、笑い出した。こちらの方が地の性格らしい。
「その通り。此の酒は村の者だけで味わうものだ。このための葡萄だけは別な畑で作っている。土の具合が知りたければ、今度見せてあげよう。なんせ奔放に育てた土だからな。私もよく性質を把握していない。調べてくれると助かる。さあ、もっと飲んでくれ。大失敗する年もあるが、これは上手く出来た」
「『奥畑』のものを振る舞って頂けるとは、こんなに嬉しい持て成しは御座いません。メチャ恐縮ですわ」
「つまり君たちも身内同然という事だ。部屋を用意させるから家族のような気持ちで滞在していってほしい」
それから領主さんは、使用人の一人一人にいたるまで順番に紹介してくれた。彼にとって「家族のような」とは使用人も、それどころか村の全員を含んでいるのだった。
御領主とその奥方、長男、長女、次女と続いて、末の娘さんが紹介された。この一番美しい令嬢は、一人だけ詰まらなそうにした儘、促されても横を向いていた。これがフランソワ。
「フランソワ」
奥方が叱った。何となく白けた雰囲気が場に漂いかけた。
「今年のカルベリィはまだでしたね」
ビッツィーが横から云った。
事の時は、気を利かせて話題を変えただけに見えた。
領主さんが応える。
「新酒はまだ仕込んでいるところだ」
「どんなお酒になるか楽しみですわ」
ビッツィーはフランソワを見つめてそう云ったのだった。