2 ビッツィー・カー
異空間を悠々《ゆうゆう》と游ぐ、如何にもって感じのスポーツカー。そんな状況に遭遇したら、誰だって言葉を失うだろう。髑髏に拳大の石を叩きこまれた直後の女子高生だって言葉を失う。私の事だ。
それは目の眩むほどに磨き抜かれた、立派なオープンカーだった。果実のような色合い。
車は、流されて行く私に追いついて来て、それから並走しだした。甘いような、疼くような、不思議な香りが流れに交じった。異空間の光りが車の表面を滑って行く。
卑屈な連想。
我が家の車はペンキの臭いがした。中古車を買って自分達で塗装したのだ。その臭いの所為で、祖父の家に行く時は必ず車酔いした。それだってお金を借りるため行くのだった。だが、それももう関係が無い。
運転席に乗っていたのは女性だった。豊かな黒髪を異空間の風に靡かせている。
花。それも周囲の栄養を独り占めして成長する、大輪の花といった印象の女性だった。
今や、流れて行く私たちの距離は、睫毛で触れられる距離まで近づいていた。私はどんな顔をしていただろう。
女性は目を細めて笑った。その声は悪魔の様に優しい。
「さあ、何処まで行こうか。お嬢さん」
「行く――?」
「私は人間の終着駅まで行きたいのだけれど、あなたはどうしようか?」
確かにそう云った。この言葉の真意は全てが終わった後になっても分からず終いだ。
この時、彼女はこう続けた。
「哀しそうに見える」
「私が?」
「それとも怒っている?」
「怒っていない。哀しかったのは少し前まで」
「そう? じゃあ今はどんな気分?」
咄嗟に私が口走った言葉はこうだった。
「帰りたくない」
何故そんな事を云ったのか、正確に説明はできない。心が零れて、この言葉になったとしか云い様がなかった。
あのトロイメライの中での事件は私を変えてしまったし、こんな問題を抱えて家に戻りたくはなかった。家族に云った所で、どうせ無駄だろう。困った顔をされて心苦しい思いをするだけだ。
「帰りたくない?」と女性は云う。
「帰りたくない、もう」私は重ねてそう答える。
女性は微笑んだ。
後になって思えば、此れは彼女との最初の契約だったのだ。
「お嬢さん、お名前は」
と彼女は囁き、私も答えた。
「ノリコ」
名字は名乗らなかった。そう云えば、これから行く世界の何処へ行っても、誰と会っても、私は名字を名乗らないままだった。
私の名を聞くと、女性は満足げに頷いた。頬の丸みが美しい曲線を描いていた。
「私の名は、ビッ=ツィー」
それが彼女の名前だった。
「ビッツィー」
「そう。これからはそう呼んでね」
ビッツィー。
唇を浅く噛んで、ビッ=ツィー。
蠱惑の魔術士。悪食の魔女。腐敗と陶酔の私生児。蠱術醸造師ビッ=ツィー。
こうして私はビッツィーと遭遇ったのだった。
これから話すのは、私がビッツィーと遭遇い、魅入られ、共に旅し、そしてお別れするまでの物語である。