新しい日常
妃教育が始まる。レオカディオと婚約したことで、求められる水準は変わったからだ。広く深く。馴染みの科目に置き換えると気負いする必要はなかった。周辺国の歴史は世界史、地形や特産品などは地理、カルリーニ国の言語は国語、他国の言語は英語、ダンスは体育。
「数学は予定以上のことをしているらしいな」
お茶の時間。公務も休憩時間だからと、レオカディオは毎日訪ねてくる。
「そうみたい」
「学者になるわけでもないのに?」
「せっかく学んできたものがあるもの」
「それが凄い」
レオカディオの願いで敬語をやめた。婚約者といえ、殿下にタメ口なんて流石に許されないと断固拒否したが、敬語をやめるまで離さないと手を掴まれてしまった。すぐに指摘されるだろうから、それまでの我慢だと考えたが、今のところ誰も指摘してこない。
「例えば、どんなことを習った?」
「えっと、じゃあ今日の課題を解いてみるね」
後ろに控えていたリタが、机からペンとノート、課題を持ってきてくれた。
数学の教師は、教えることはないと初日に断言した。他の教科に時間を当てる話も出たが、どれも時間は足りているらしく、現在、予定以上の教育を受けている。今、解いているのは高校入試問題に相当すると思うけど、カルリーニ国では妃に必要ないレベルらしい。
「出来た」
「凄いな!」
「ディオも解けるんでしょ?」
「解けるけど。頼もしいな」
受験勉強中、こんなの社会で使うことはないのにと考えたことはあった。しかし、何かを成そうと考えたとき、基礎になると教えられたし、現に妃教育で役立っている。
レオカディオは、元の世界を身近にある国として扱ってくれる。存在を認めてくれているようで嬉しい。
「マーナ、このクッキー美味しいぞ」
「あっ。ナッツが入ってる」
「香ばしいし、歯応えもいいな」
「ここでナッツが入ったクッキーは初めて食べる気がする。そういえばチョコレートも一つしかないね」
「他に何がある」
「ナッツやフルーツが入ってたり、中からクリームやソースがとろっと出てきたり」
「普段から食べていたのか?」
「うん」
「それなら作ろう」
「いいの?」
「食べたいだろう」
「うん」
「決まりだな」
次の日、レオカディオは厨房の職人を連れてきた。食べたことがあるだけだから、説明が難しい。
「なるほど。味覚や嗅覚だけでなく、食感にもバリエーションが増えますね。チョコレートをここまで変えるとは。飲み物とのペアリングも楽しくなりそうです」
「完成したら需要は増えるだろう」
「はい。ありがとうございます」
「教えたのはマーナだ」
「マリナ様、ありがとうございます」
「拙い説明なのに、聞いてくださってありがとうございます」
「貴重な話をありがとうございます。早速、試してみます」
職人は退室の礼を取り部屋を出て行った。今日は応接室でお茶をしている。自分以外の男性が部屋に入るのは嫌というのは本物だった。
「あれでよかったのかな。作り方とか、詳しい材料とか何一つ伝えられなかったけど」
「大丈夫だ。彼は国内外のスイーツにとても詳しい。きっと作り上げてくる」
レオカディオは頭をぽんぽんと叩いた。大きくゴツゴツした手を受け入れることに、そろそろ慣れてしまっている。
***
5日後。お茶の時間だというのに、机の上から離れられない。
「なかなか上手くいかないの」
最大の敵。国語と英語の書き取りがあった。話すことと読むことに問題はないので、書くことだけに重点を置かれている。どの国も文体は日本語に近いことが唯一の救い。
「言葉が当たり前過ぎて」
「文字は書けるようになっているな」
「うん。音も覚えたんだけど、一つ一つ綴るのに時間がかかってしまって」
「マーナは来たばかりだし、誰も笑ったりしない。ノートは全てカルリーニ語で書いたらいい」
「でもそれだと先生を待たてしまうでしょ」
「マーナが頑張っているところを急かす教師はいない。心配なら俺から話しておく」
「本当?」
「ああ。マーナがせっかく覚えようとしてくれているのに、これくらいのことしか出来ないことが悔しい」
「そんなことないよ。公務の休憩中なのに、お願いまでしてしまってごめんなさい」
「こんなことがマーナからのお願いなのか?全くお願いにもならないな。だが、俺からもお願いをしても構わないか」
「何?」
「そこに置いてあるケーキ、俺も食べていいか」
「え?ディオの分もあるでしょ?」
レオカディオは顔を寄せると口を開けた。
「えっ、それはちょっと」
レオカディオは譲る気がなさそうに口を開けたまま待っている。殿下をこのまま放置するわけにはいかないんだろうな。フォークで刺したケーキを口に押し込む。
「うん。美味しい」
「恥ずかしい、二度としない」
「マーナ。交代だ、口を開けて」
いつの間にかレオカディオは、ケーキを手に待ち構えている。
「もうお願いは終わったよ」
「一つとは言っていない」
「えー!ズル」
「マーナのことだと、どんどんズルくなってしまうな。ほら」
今逃げ切れても、明日逃がしてもらえる気がしない。諦めて口を開けるとクリームの甘さが口に広がる。恥ずかしい。顔が赤くなった気がして、思わず俯いた。
「可愛い。マーナ顔を上げて」
「……」
「マーナ?」
首を横に振った。今顔を上げられるわけない。