婚約
「部屋に戻るか」
ノアを抱き上げると、当たり前になっていた重さを改めて感じる。会えてよかった。
新たに開けられた扉の先にはベッドが見える。思い起こせば、先程の部屋でベッドは見掛けなかった。寝室は別になっているんだ。
「広い。ここにもソファーがあるんですね」
「眠れないときは、俺を呼べばいい」
「ノアもいるし。呼ぶことはないです」
「ノア?誰だ」
「この子です。今日からずっと一緒です」
「ノアというんだな」
「はい」
レオカディオはノアを撫でるようにぽんぽんと叩いた。
「俺以外の男がマーナの部屋に入るなど許さないからな」
「誰も入りません」
まったくと部屋を見回すと一つの扉に気づく。部屋はこれで最後だと思った。足りないものはないはずだけど。
「あの扉の向こうは俺の部屋だ」
「はい?」
「隣だと言っただろ」
「だからって、なんで寝室と繋がっているんですか」
「この部屋は王太子夫妻の寝室だ」
「え」
「王太子とその妃、それぞれの私室の間にこの部屋がある」
「何で私が」
「安全だからだ」
王太子夫婦それぞれの部屋が並んでいればそうだろう。しかし、これは避けなければならない事態。下を向き逡巡していると、唸り声を聞いたリタが声を掛けてくれた。
「寝室を繋ぐ扉は、マリナ様のお部屋に鍵がございます。マリナ様が解錠なされない限り、開くことはございません。殿下のお部屋には普段寝起きなされている寝台がございますので、鍵を開ける必要はございません」
「鍵などなかっただろ」
「陛下の命でございます」
レオカディオは天を仰ぐと、そのまま頭を下げて黙り込んだ。ずっとこうしてくれていたら静かでいい。あ、今がチャンスかも知れない。
「私は妃になるつもりはありません。いつか帰ります。だから、この部屋は私に相応しくありません。そもそも殿下に好かれるのもよくわかりません」
「わからなければ教えるまでだ。一息入れようと庭を見たとき、マーナが現れたんだ。艶やかな黒髪と丸く愛らしい瞳。突然のことで不安なはずなのに、真っ直ぐに立つ姿。マーナしかいない。どうして手放せると思う?俺がいる限りマーナを危険に晒すようなことはさせない」
何不自由なく過ごしているのは、レオカディオの庇護下にあるのも一因なのだろう。レオカディオの思いはわかったようで、わからないのは、世界を受け入れられていないからかも知れない。ここでの自分の望みもわからない。王太子妃の部屋は荷が重い……。ローデリオ公爵は後見人だけど、陛下が出した公示はそのまま。
「殿下とは出会ったばかりですし、殿下としてのレオカディオ様しか知りません。レオカディオ様のことはよく知らない。だから婚約なんて考えられません。妃なんてよくわからないし、重責過ぎる。でも、お城にいる限り、私にはこの部屋なんですよね。この部屋を使うなら、妃になるしかないんですよね」
こちらを見ていた瞳が一瞬逸れたのがわかった。後見人は公爵家。転移者を城に置く決まりはない。勝手なのはどちらだろう。
「心の準備も覚悟も整っていません。でも、それでもいいなら、婚約します」
きっと今の最善。
「っマーナ!」
突然抱き締められた。力加減がわかっていない。苦しい。ノアが潰れる!
「だから君なんだ」
体を押し返すことも出来ずに、ひたすら身じろぎを繰り返す。ようやく隙間が出来たと思ったらレオカディオの右手が頬に触れている。
「手を離していただけますか?」
「なんで?」
「そういうのはちょっと」
「問題ないだろ。それと、ディオ」
「ディオ?」
「俺のことはディオと呼べ。呼ぶまで手は離さない」
「ディオ様」
「様はいらない」
殿下と言われる人を呼び捨てにするのは気が引ける。それより早くこの状態から逃れないといけない。皆んなが見てる。
「ディオ」
頬に触れた手は離れ、頭の上に乗った。詐欺だ。
「殿下、そろそろ時間です。本当に間に合いません」
止めに入った声は、見覚えのないあの男性だ。レオカディオは男性を一瞥すると、額にキスをした。
「あっ」
「それくらいはいいだろ。婚約者なんだから」
レオカディオは上機嫌で頭を撫でる。
「まだ、ご婚約者様ではございませんよ」
「お前は細かい」
この男性は誰だろう。考えていると、目の前が真っ暗になる。レオカディオの手が目を塞いでいるのだ。
「あっ」
「俺以外の男をそんなに見るな」
「殿下。やめてください」
「デュオだろ」
「あちらの方はどなたですか」
「側近のルークだ。全く何でついてきたんだ。マーナが減る」
「お言葉ですが。君主の伴侶となる方と面識のない状態もいかがかと思います」
「今日だけだからな」
「そういうわけにはいかないと、わかっておいでですよね」
「初めまして、マリナと申します。これからよろしくお願いします」
「ルークと申します。お初にお目にかかります。何かございましたらお申し付けください」
「よろしくしなくていい」
やっと隙間が出来たのに、また抱き抱えられてしまった。だからノアが潰れてしまうんだって!
「殿下、時間がありません。勘弁してください」
「ったく、わかった」
ルークは一礼すると、レオカディオを連れ部屋を出た。いい人かも知れない。
目の色だけが違うノアを見る。
どうしてこんなことになってしまったのだろう。婚約なんてするつもりはなかったのに。今だってすぐに帰りたい。けど、帰るとなると公爵家に挨拶はしたい。リタやエレノアに感謝を伝えたい。レオカディオは、あんなだけれど、黙って帰るようなことはしたくない。帰りたくて仕方がないのに、簡単に去れないことに気づいてしまった。もしまた、知らない所に転移してしまったら、ここにも戻りたいと思ってしまう。
「どうしよう」
ノアを抱きしめる。ふわふわの首元にかかったネックレスには赤と緑の石が付いている。この形はきっと、ポインセチア。
***
善は急げと言うけれど、翌日の午後に婚約式が行われるなんて思わなかった。手順に決まりはないと聞いていたが、王族が簡素でいいのだろうか。謁見室で、ごくごく普段の服装で、ごくごく普通のレオカディオと並ぶ。陛下と神官長が到着すると、レオカディオが跪く。
「私、レオカディオ・カルリーニは貴方に乞う。その名をお預かりしてもよろしいだろうか」
「私は、青井鞠菜と申します。不束者ですが、よろしくお願いいたします」
カルリーニでは婚約の際、女性は男性に名を預け、婚姻時に男性が女性に名を与える。女性は婚姻後、名前が変わるのだ。近年では名を変えずに、与える形だけ取ることが多いと聞くが、初めて聞いたときはビックリした。カルリーニの男性、独占欲が強いのでは。
婚約式では名を預かること以外、決まった台詞はない。名乗る以外ないのだが、物足りないので定番の台詞を言ってみた。不束者ですが。もうどこにも行きたくないので、よろしくお願いします。