別れ
毎日色鮮やかな景色を見せる庭も、気づけば花や葉の形が様変わりしている。お茶の時間は、レオカディオの膝の上が定位置になってきた。だから!国唯一の王太子に座るなんてどうかと思うの。そろそろ咎める人が現れてもいいのに。誰もがおかしな光景など何一つないような顔をしている。
「さっき食べようとしていたのはこれかな」
人の気も知らないで。レオカディオはチョコレートを一つ摘む。
「ほら、口を開けて」
「んん」
「どう?」
「あ、中にキャラメルが入ってる」
ミルクチョコレート一択だったのに、味も形も随分とバリエーションが増えてきた。
「夜会で出すことになった」
「本当?」
「厨房では他の職人のアイディアも出ているよ」
それはよかった─と降りようとしたのに、そうはさせまいと回された腕は強くなる。
「ディオ痛い」
「危ないから勝手に降りるなと言っているだろ」
「膝に乗せなかったらいいと思う」
「誰かに何か言われたか」
「ううん」
「もしかして。まだ恥ずかしいと言うのか」
「……」
「俺たちは2ヶ月後に夫婦だ。何を恥ずかしがる?ああ。少し赤くなった姿も可愛いな。このままでもいいか。そういえば、またハンカチに刺繍をしてくれるか?一枚だと替えがなくて困る」
「わかった」
「折角だから揃いにしようか」
「あっ。自分のハンカチに刺繍してなかった」
「決まりだな」
レオカディオは真っ黒な私の髪を梳かすと一房にキスをする。私は跳ねた肩を誤魔化すように、まだ温かいカップを手にする。
***
青井鞠菜。高校二年生だった。物心ついたときには横にいたキャラクター、ノアが好き過ぎて、アルバイトを公認している高校に通っていた。勿論、ノアのグッズを取り扱うお店で働く為だ。
初めての接客、覚えること、立ち仕事。大変なことはあったけれど、大好きなノアに囲まれ、一早く新商品の情報を知れることは役得だと思えた。
アルバイトを始めて二度目の夏。店舗先行カタログに掲載されたクリスマス限定グッズの虜になってしまい、あちこちのページと睨めっこをした。流石に全部購入することは出来ない。お財布と今後入るであろうお給料と相談だ。
購入する商品に目星がついたのは、夏祭りの日。去年は友だちと浴衣で屋台を回っていたが、今日はお店の制服に身を包む。これもクリスマス限定グッズの為。早番だったので、バイトが終われば友だちと合流する約束は出来た。浴衣は前回着たからいいね、と私服で合わせてれる友だちの優しさが嬉しい。
お祭り効果か、朝から店内は混んでいて目紛しい忙しさだった。くたくたになりながら閉店作業を終え、私服に着替えると裏口から外へ出た。待ち合わせ場所まで自転車で10分。まだ明るさの残る空、手早く準備を終わらせていく屋台、浮足立つ人々の、姿、が、ない。
「え」
整った芝生には規則正しく並んだ花壇が続き、空は明るさを取り戻している。慌てて振り返ると、出てきたはずの店はなく、唖然と立ち尽くす男性たちの姿がある。
「現実なのか」
「これは正しく起こりましたぞ!」
「我が国では、120年ぶりの快挙ですな」
「っまままさか我が身の前で」
「至急、陛下にお伝えしろ」
何かの撮影だろうか。慌てる男性たちは、美術館や世界史の教科書で見るような服装をしている。とても奇妙なことが起こっている。気がする。だって。ここはどこ。
「何をしている」
男性たちは即座に膝をつく。何事かと振り返ると、声の主は長身の美丈夫だった。年は少し上くらいだろうか。男性たちには目もくれず、私に視線を向けたまま真っ直ぐ歩いてくる。
「どうやってここへ。と言ってもわからないか」
「仕事が終わって外に出たらここだったんです。ここはどこですか」
「カルリーニ国だ」
「カルリーニ国?」
「やはりわからないか。参ったな…声まで可愛い」
男性は頭を抱えるが、即座に距離を詰めると跪き、突然私の右手を取る。
「私はレオカディオ・カルリーニ。貴方に出会えたことを誇りに思う。名前をお預かりしてもよろしいだろうか」
「え、あっ名前。あ、青井鞠菜です」
「マリナ……名前も可愛い」
後ろにいる男性から歓声が聞こえる。何故歓声が上がるのかわからない。手を離して欲しい。
「何をしておる」
低く声が響く。レオカディオの後ろに、これぞ王というような出立ちの男性がいる。
「レオ。全く、お前は。いいのだな?彼女は稀有な存在だぞ」
「承知の上です」
「うむ。神官長、彼女は間違いないのか」
「はい、陛下。この通りでございます」
神官長と呼ばれた男性は、腕を捲りブレスレットを見せる。赤い石が光を放ち輝いている。
「レオ。客間は用意させておこう」
何が起こっているのか全くわからない。貫禄たっぷりの男性はそのまま立ち去って行った。
レオカディオと名乗る男性は、私の手を握ったまま歩き出す。逃げてしまいたかったが、見ず知らずの場所に当てはない。今より最悪な状況になる可能性を思うと、逆らわないほうが賢明。な気がする。目の当たりにしたお城は、どんな映画で見たものより大きく煌びやかだ。通された部屋は、シャンデリアがいくつもあり、置かれた家具はどれも重厚感に溢れている。高そう…。俯くと着ているTシャツが目に映る。場違いだ。なんでこんなところにいるんだろう。早く帰りたい。
黒い控えめなドレスにエプロンを付けた女性がお茶を差し出す。撮影現場ってここまで徹底されるものなの?向かいに座る、レオカディオ、は顎に手を置き暫く黙っていたが、私にいつくかの質問を始めた後、現実を突きつけてきた。
「信じられません」
「事実だ。現に違和感はあるだろう。誤解して欲しくないが、決して連れ去ったわけではない。いや。無理矢理連れて来られたのだからそう感じるかも知れないが、人の意思や行動で起こせることではない」
「転移なんて。そちらではよくあることなんですか」
「この国はそうないが、大陸では10年に1度程報告されている。ただ。人を連れてきたのは久しぶりだな」
レオカディオが右手を動かすと、控えていた男性が部屋を出て行く。待つように言われ、恐る恐るカップに手をつける。喉が渇いていた。転移という事実は受け止められないが、違和感はある。出されたお茶も少し怖い。カップからスッキリとした柑橘系の香りが漂い、覚悟を決め口にする。ほのかに甘く優しい味だ。
戻ってきた男性は、どこにでもいる犬と猫を一匹ずつ連れてきた。
「この二匹は10年程前に他国に移転してきた」
「普通の犬と猫ですよね」
「この種類は初めてなんだ。貴方が来たときと同じように目撃者もいたから、転移してきたとなっている。貴方が知っているということは、同じ場所から転移してきたということか。すまない、何という種類だ」
「犬が柴犬で、猫が三毛猫です」
「柴犬に三毛猫。新しく記述させよう。正式に知る者はいないし、動物の言葉はわからないからな」
「知る者がいない」
「本当に人は久しぶりなんだ。各々家庭を築く場合はあるから、子孫は増えているが」
「元の世界へはどうやって帰っているんですか」
「帰った者はいない。こちらから別の世界に関与する手立ては見つかっていない」
「帰った者はいない。関与できない。そんな。そんなことって…。そう、ですか。……あなたたちも帰れないのね」
青いリボンを付けた柴犬はおすわりをしていて、じっとこちらを見ていた。そっと手を伸ばし、顎の下を撫でてみる。寄り添ってきた柴犬に抱きつくと、知らない間に溢れていた涙が零れ落ちる。もう止まらない。二度と帰れないかも知れない。世界から突然いなくなってしまった。みんなにどう伝えたらいいのだろう。もう会えない。帰りたい。